秩父の昔ばなしから
山の形態を山名として呼ぶことが多いのですが、釜伏山ぐらい山名と山容がはっきりした山も珍らしいと思います。
秩父の昔ばなしに巨人伝説がありますが、大昔、秩父に巨人が居て、その巨人の足跡の凹みが現在の横瀬村芦ヶ久保であり、食事のために粥を煮たところが皆野町三沢と東秩父村界の粥仁田峠、
粥仁田峠
巨人が着ていた蓑を置いたところが蓑山、笠を置いたところが笠山であり、
笠山
箸を二本立てた処が二本木峠、
二本木峠
粥を煮た釜を伏せたところが釜伏山といいます。
釜伏山頂奥宮
釜伏山の鉢形城は、山と河を利用した半山城として関東地方では代表的な城でしたが、城の大手に聳え立つ秩父の山がこの名城の弱点であって、天正十八年五月鉢形攻防戦の際、本多忠勝が城の坤の車山に陣を備え、山上から大筒の石火矢を打ちかけて落城の糸口を開いたと伝えられます。
「此の峠に新兵衛と云うもの居住す、此者いかなる者にや、氏は岩松なり」と「新編武蔵風土記稿」で記しているのが、現在でも峠の釜伏神社の神官である岩松氏の先祖に当たるわけです。
釜伏神社のお犬
釜伏神社の岩松宮司
日光法印のこと
三峰神社が関東一霊場と云われる基礎はこの日光法印の時に礎かれたと云われています。
大僧都日光法印は秩父郡上吉田村女部田の出身です。
幼名を女部田竹三郎と云い、二十歳頃までは駄馬を使って吉田から群馬県万場町に荷物を運び、その日その日と、わびしい暮らしをしていたと伝えられています。
二十歳頃何の縁か発心して秩父郡野上町の多宝寺に見習小僧として住込み、仏道を得渡したと云います。
この人は非常に頭のよい人でしたが我が強く、多宝寺においても、住職や土地の人との折合いは余り良くなかった様子でした。
そんな風なので多宝寺にも永く居られず、一傘一椀の雲水の旅に出ました。
或る日、秩父郡荒川村日野の山中で、真白い山犬に出会い、その案内で三峰神社に登ったと伝えられています。
三峰神社における法印の様子は余り知られていないのですが、有名な狼のお姿もこの法印の創作と云います。
三峰神社随身門
三峰神社の御札
日光法印の末裔・山口民弥 前博物館長
〈清水武甲文集「秩父Ⅱ山と生活」言叢社発行より〉
2月29日(月)に「StarPeople」なる雑誌が発売され、二ホンオオカミの特集が組まれています。
私の今までの活動を含め、集まってきた生存情報も80例近く掲載されています。
が、奥秩父山中、それも三峰山周辺の体験談が非常に多いのです。
そして、大和武尊伝説、日光法印の言い伝えでは無いのですが、神社周辺目撃談の多くは、白系の動物なのです。
動く映像の収得も未だですので何とも云えないのですが、不思議な感じで私の知識では理解し難い状態です。
大和武尊を案内する白いオオカミ