2004年2月3日
三峰神社で行われた節分祭-ごもっともさまーに参加した私たちは昼食もそこそこに、車を飛ばして山中の散策に向っていた。
昨晩からの降雪でフィールドサインを求めるには絶好の状態で、今までの経験上何か得られると感じていたからだった。
その山域では不特定多数の人達から生息に繋がる情報が得られており、その殆どがここ10年以内の新しい物であった。
私も6年前・1998年2月11日、氷結した滝見物の帰りに其れと思われる咆哮を聞いたし、同行者の獣医も聞いている。
3年前・2001年1月初めには人家から10数キロ離れた林道上で、猿の足跡と共に求めている動物と思われる足跡も見つけていた。
-----前の晩から降り続いた雪は膝まで埋もれさせ、村の除雪車は悪戦苦闘を強いられていて、自衛隊出身でその道のプロが運転する車は、何度も立ち往生しながら林道の最深部近く迄移動したが、フジTVの撮影クルーも運転手の顔も引きつっていた。
車を捨てて1時間近く進んだ山中に、猿を追ったその足跡は深い谷から出て来て、そして帰っていた。
橋を渡って30分位歩いた沢筋に足跡と猿の集団が・・・
足跡の上には雪が冠っていなかった為、私達の気配に驚いて姿を隠した様子が思い描かれた。
右手の斜面では猿の集団が、安堵の息を洩らしながらも及び腰で私たちを眺めていた。-----
一ヶ月前の深夜、2年参りの為三峰神社を訪れた私は、帰り道この林道上に車を乗り入れようとしたのだが、娘の強硬な反対にあって数キロ進んだだけで中止した経緯がった。
林道上の最後の民家から10キロ近く走った所に、何の目的で作ったか解らない、立派なログハウスが少し前まで建っていたのだが、土台の鉄骨だけ残して山中は静寂そのものだった。
その山域では数が少なくなった兎の足跡に誘われて、ログハウスの跡に車を止めると右手の谷から左手の山に向って明らかに兎を追っているイヌ科動物の,…3年前に見つけた動物と同種と思われる…が続いていた。
絶滅論者たちに私の行動は、気違い沙汰に映っているのだろう。
今迄にも様々な場所で批判され、時には詐欺師扱いされた事もあった。
しかし彼等の多くは“タイリクオオカミの亜種”“絶滅したのだから居ないのだ”という前提で考えて、寄せられる多くの情報に耳を傾けようとしなかった。
あたかも、そうする事が科学的見地に立った真っ当な研究者である!と言わんばかりに。
無視され埋もれかけた多くの情報が、時を経て私の下に集まって来た。
その一つ一つに耳を傾け現地まで足を運んでみると、全てとは云わなくとも生存に繋がるものが少なからず含まれているし、今なら未だ間に合うのではないか・・・
雪上のイヌ科動物の足跡を追いながら、今までの様々な事例と重ね合わせていると、一緒に追っていた内田氏が、フト独り言を洩らしていた。
「甥っ子が毛皮の事を長瀞の博物館に連絡した時、直ぐ来ていれば三峰に納める事にはならなかったんだ!」
---内田家に有ったニホンオオカミの毛皮の事を、今から10年位前連絡した事があったのに、そんなもの有る筈無いとの先入観で、埼玉県立自然史博物館からは無しのつぶてだった。
新聞報道されてから、慌てて人を介して来られても今更-----
内田氏はそんな事を考えているに違いなかった。
第二次世界大戦で壊滅的に破壊されたベルリンの、そのフンボルト大學に奇跡的に保存されていた頭骨3点。
書簡上では日本からドイツに送られている事を多くの人達は知っていたが、誰もが戦争の激しさから無い物と諦めていた。
しかし私達は有るかもしれないと考え博物館とコンタクトを取った結果、頭骨3点の他毛皮と全身骨格の存在まで確認する事ができた。
旧ベルリン大学に所蔵されていたニホンオオカミの毛皮標本
標本発掘と生存の証明は違う問題と云えるかも知れないが、内田氏の独り言を聞きながら、私は今迄の道のりが遠回りであっても、間違ってはいなかったと自信を深めていた。
南足柄市-オオカミフォーラム-発表要旨から