50年前の7月20日。
つまり1969年・昭和44年の7月20日ですが、皆さんこの日の事を覚えてますでしょうか。
人類が最初に月世界に足を踏み入れた記念すべき日なのですが、多くの皆さんは未だこの世に生を得ていなかったかも知れません。
私は苗場山頂の山小屋・遊仙閣で小屋番をしていまして、この日の事をはっきり覚えています。
人類が初めて月世界に足を踏み入れる・・・と云う事より、その瞬間をリアルタイムで見る為、大変な思いをしていたのです。
アポロ11号月面着陸
小屋番アルバイトの一人が「世紀の一瞬をTVで見たいので下界に降りる」と言い張ったので、それを阻止する為中腹の小屋からTV受像機を担ぎ上げ、受像機の電源を得る為発電機を回し・・・と。
2.145mの山頂小屋の水は、山頂に散在する池塘からポンプアップで得て居ましたが、発電機を動かす為ガソリンを担ぎ上げていました。
その貴重なガソリンをTVを見る為に使用し、月の世界でのイベントが終わると受像機を下の小屋に下げ降ろし・・・と。
限られた人数の中で、一人が我が儘を言い出すと大変な事になる典型例です。
苗場山頂は至るところに池塘が
この中の一人が
アポロ11号の船長アームストロングの「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ」の言葉は余りにも有名ですが、他の子供たちと少し違っていた私は、小学生の時フランスの小説家「ジュールヴェルヌ」の小説を盛んに読み漁っていました。
ヴェルヌの小説として有名な作品は「十五少年漂流記」「八十日間世界一周」「月世界へ行く」「海底二万マイル」「地底旅行」等が有りますが、50年前既に「地底旅行」以外は現実のものとなっていて、
アポロ11号についてもヴェルヌの小説通りになって来た・・・的な感想でした。
小学校の卒業文集に私は、将来「ジュールヴェルヌの様な空想小説家になりたい」と記していたのです。
空想小説家ジュールヴェルヌ
月世界へ行く
根底にそんな意識を抱いていた私ですので、今現在の様な生き方をしているのだと思います。
アポロ11号の9日後、1969年7月29日の深夜、存在を否定されていたイヌ科動物の咆哮を耳にしたのですが、アポロ11号の件が無ければ現在の私は無かったかも知れません。
【中学最後の夏休みに、部活-バスケット-の仲間たちと苗場山(2145m)登山をしたのが病み付きとなり、高校の部活は迷う事無く山岳部を選択した。
音楽部との合同登山だった
3年間の高校生活を、今思い出そうとしてもそのほとんどが山に関わる事である。
高校卒業後の就職を決める時も、何とか山小屋の仕事をしたいと考え、高校山岳部の先輩を頼って国土計画(株)と云う会社に入社した。
国土計画は近い将来訪れるであろう豊かな日本の、その人々の心を癒すべく自然との調和を想定し、リゾートポイントを多数抱えていた。
その一つが苗場山頂と三俣集落を繋ぐ長大なコースで、来るべき日の為、山頂と中腹に二つの山小屋を経営していた。
現在は神楽スキー場として一大リゾート化し、当時の面影を偲ぶ事は全く難しい状況であるが、その頃は鬱蒼としたブナの原生林で、私が管理していた中腹の山小屋の横には、一年中涸れる事の無い清水が、登山者の喉を潤していた。
ブナの原生林が持つ保水力に注視されるのは後年の事で、高度成長経済の下、商品価値の高い木の植林をする為、国内のいたるところでブナ林の悲鳴が聞こえていた頃の事である。
社内でも多くの仕事が存在する中で念願叶い、長野新潟の県境に位置する、苗場山(2145m)の山小屋の番人として、私は至福の時間を過ごす事が出来た。
夏山シーズンは山頂小屋遊仙閣の、それ以外の季節は中腹に在る和田小屋の番人として。
和田小屋の屋根で昼食
今考えるとそれは、神様の一寸した悪戯だったのかも知れない。
信じられない位の月明かりで、登山道を電燈無しでも平気で歩ける満月の夜。
近々団体さんが来て、米が足らなくなる様子なので、中腹の和田小屋迄米を取りに行こうと言う事になった。
少なくとも2~3日の余裕は有ったし、何より翌朝10時30分のバスで、湯沢の町に食糧を買出しに行く予定でいたので、その夜山を下らなければいけない理由など全くと云って良いほど無かった。
お伽噺であるかぐや姫の世界としての月に、わずか1週間位前人類初の踏み跡が刻まれた余韻を引きずってか、そのまま山頂の小屋で次の朝を迎えるのが何か惜しい様な物足りなさからか、月の明るさに誘われるまま、現役の高校山岳部員だったいわゆる”居候”の後輩を誘って、出かけたのだ。
遊仙閣~和田小屋の概念図
コースタイムの上では登り4時間、下り3時間の所要時間なのだが、通い慣れた事も手伝って、それが当然の事で有るがごとく、深夜とも言える23時に遊仙閣を出発した。
苦もなく2時間後に和田小屋に着くと、各自背負い子に米をくくりつけ、休憩もそこそこに山頂小屋目指して歩き出した。
50年前の和田小屋
上の小屋に米を降ろしたら、その足で10時30分祓川発の始発バスに乗り、湯沢町まで食糧の買い出しを計画していたのだ。
山登りを経験した人なら米1袋30Kgが、どんな負荷を感じるかお解かり頂けると思うが、若さに任せた無茶苦茶が、そのころは平気にこなせたのである。
遊仙閣で登山客と
当時から、今でもそうだが、私の山での歩行ペースは、25~30分歩いて5分休憩。
その繰り返しで目的地まで歩き続ける。
1ピッチ目の休憩だったから小屋からさほど離れた所では無かった。
雨が降っても傘さえ要らない、伐採がまだ行われていない、山毛欅の原生林だった。
しかし心地よい月明りが差し込んでその光だけで不自由さは感じない、5人も腰を降ろしたら一杯になるような、狭いスペースに私たちは腰を降ろしていた。
肩のしびれから解放するように、少し肩と背負い子に空間をつくった後輩は、腰を降ろすと私からの話しかけにも答えなくなった。
寝たのかな?と思っていると、近くを流れているはずの沢の、その先の尾根筋の方から、かすかにだったが獣の鳴き声が聞こえて来た。
一声だけだったら、気のせいかな?と思える程の鳴き声だったのだが、間もなくはっきりと聞こえた第2、第3の鳴き声に私は慌て恐れて、寝入り鼻の後輩を大声で起こすと、荷物をそのままに、和田小屋へと走り帰った。
翌朝、居ない筈の私たちが食堂に現れると、上司である小屋番は吃驚してその訳を問いただして来た。
説明しても多分解ってもらえないだろう数時間前の出来事を一応話したのだが、話に割り込んだ手伝いのおばさん共々、朝食のおかずが1品増えた程度の笑い話で済まされて、多忙な山小屋の朝の流れに飲み込まれてしまっていた。
客観的に見て私が聞かされる立場であったなら、同じ流れになってしまったかも知れない事は予想していたし、第三者に同意を求める気持は更々無かった。
青年時代山歩きの真似事をした事の有る父から、山での不可解な出来事を幼心に聞いて来た私だが、見える物しか理解出来なかったその頃の私にとって、遠い国のお話程度にしか考える事が出来ないでいたからである。
1966/4/10の和田小屋・左が上司の有間さん
好きだからこそ人里離れた山小屋での仕事を希望した私。
それを好意的に見守ってくれ、山毛欅の原生林の中で生活を共にしていた小屋の三人が、忙しさにかまけて笑い話で済ましてしまう現実。
同じ目線で考える事が出来た三人でさえ流してしまう笑い話は、違う空気を吸い、違う目線でしか考える事の出来ない人達にとって、きっと狂気の沙汰に違いない。
その時以来、他人に言うことはタブーだと考えるようになっていた。
山頂の小屋が気になっていた私は朝食もそこそこに、放置した荷物を肩に、慣れた山道を一歩一歩、山頂の小屋へと足を運んだ。
山頂に着いた私たちは、その日の湯沢行きをあきらめて、次から次に沸いて来る小屋番の仕事をこなしていたのだが、湯沢発の2番バスに乗ってきた宿泊者の情報に、唖然としてしまった。
何事もなく予定通りに、全てが順調に過ぎていたなら、本来私たちが乗っていたはずの、10時30分祓川発湯沢行きの乗り合いバスが、谷底に転落し重軽傷者の山となったというのである。
バスの転落を伝える新聞記事
夏の、長い一日の全ての作業が終って一息ついた私は、疲れ切った体とは裏腹な妙に冴えた頭の中で、今までの人生で1番ドラマチックな一日だった昭和44年7月29日を振り返り、山日記に何を記そうか考えていた。
登山者数、宿泊者数、作業内容と記して行くと、祓川でのバス転落事故の内容を最後に翌日の欄に移り、その日のスペースは文字で埋め尽くされてしまった。
深夜の出来事をどのように記すか迷った私は、右端の僅かなスペースに縦書きで“獣の遠ボエを”の六文字を残して、深い眠りに就いた。】
山溪刊のアルパインカレンダー