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Channel: ニホンオオカミを探す会の井戸端会議
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ふた昔前の記憶からー1

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秩父市相生町の内田茂さん宅に、ニホンオオカミの毛皮が保管されているのを確認したのは、1995年の事である。
95は公私に亘り、非常に多忙な一年であった。
11月に埼玉県の最深部大滝村三峰神社でニホンオオカミのフォーラムをする事が決まり、友人と二人でその段取りをすべく、死ぬ思いで駆けずり回っていたのだ。
そんな最中“秩父市内の民家にニホンオオカミの毛皮がある”との情報が、思いがけず飛び込んできた。
まさかとは思ったが、「寄せられる情報の全てを確認する事こそ、生存の証明が出来る近道である」と考えていた私は、早速通いなれた秩父へと車を走らせた。

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1回目の三峯でのフォーラムに集まった人たち
 
秩父駅からさほど遠くない民家の、二階に上がる階段の、右の壁に吊るされていたその毛皮は、それまで私が見たニホンオオカミのどの標本よりも大きく綺麗で、色が退色していなかった。
事前に了承を取り付けていたが、初対面の私に持ち主の内田さんは、笑顔を見せるわけでもなく、事務的に、むしろ無愛想に、聞かれた事に答えるだけだった。
長い時間を掛けて、持ち主から聞き出した話を要約すると、おおよそが次の様であった。

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内田茂さんと、階段脇に飾られていた毛皮
 
内田さんのお父さん武助氏は明治14年生まれで、自転車屋をしていた昭和の初め頃、三峰の奥裏(おくり)で獲れたニホンオオカミで珍しいからという事で、誰かに譲ってもらった。
内田さんが、毛皮の存在に初めて気づいた小学校二、三年の頃は、お蚕様の繭をいれる大きな缶の中に入っていて、実家の近くにキツネが出て困る時、時折魔除けのため、縁側に出していた。
毛皮に対して家族の関心はほとんど無く、昭和四十八、九年に現在の家に立て替えた時、内田さんも毛皮の処分を考えたと言う。
しかし家の廃材である戸板にシーツを掛けて、毛皮を貼り付けてみたらなかなか良い雰囲気だったので、階段の脇の壁に掛けて、そのまま現在に至ったのであった。
私が知人に連れられて初めて毛皮を見た時、感激と興奮で、“すごい、すごい”の連発であった。
それほど、素晴らしい毛皮だった。

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フジTVのカメラマンと階段脇の毛皮

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壁から降ろされた、リニュアル前の毛皮
 
亡父の武助氏と非常に懇意にしていた人が数年前まで生きていて、その人だったら毛皮入手の経緯から、ほとんど全てがわかるのに!と言われても後の祭りであった。
明治三十八年一月に奈良県小川村鷲家口(現在の東吉野村)で、ニホンオオカミ最後の標本とされる若オオカミが捕獲されてから以後、数々の標本等が、ニホンオオカミではないかと、提示されて、そして消えて行った。

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鷲家口産のニホンオオカミ仮剥製と山根一眞氏

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「大台ケ原・大杉谷で捕獲」と、されるオオカミ
 
私が内田さん宅の毛皮を見てからまず考えた事は、“同じ憂き目に合わせてはいけない”という事で、いつ、どこで、誰が捕獲したのか、はっきりする迄、公表するのは止めて、信頼できる一部の仲間にしか、毛皮の存在を明らかにしなかった。(その中の一人Y氏に裏切られる形になる。)
其れまでニホンオオカミの頭胴長は1メートル前後とされており、過去の研究史を紐解いた時、“余りにも規格から外れている“と言わざるを得ないサイズを有していた。
この毛皮は概略で125~130センチ有り、尾が30数センチ、個々の特徴を考慮せずに、鼻先から尾の先までとなると全体的に大陸オオカミと見間違えられる感じでもあった。
それゆえ、何時、何処で、誰が捕獲した、の特定がより重要視された。

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大洞川上流域(三峰の奥裏)の山々
 
存在を知り得てから半年以上は、休みの度に、仕事の合間に、何時、何処で、誰が、の特定をすべく秩父通いをした。
秩父通いと言ってもそのほとんどは大滝村で、網の目をつなげるように、次から次へと聞き歩いた。
埼玉県の人口が約700万人に対し秩父郡大滝村は現在人口約1500人。
しかし県の面積の10%は大滝村で占めている。
当然のごとく山また山の過疎の村である。

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旧大滝村は東京都・山梨・長野・群馬の各県に隣接
 
各耕地(集落)に猟の名人と言われる人が居り、何時、何処で、誰が、の話しとは別に、一つ事に秀でた人の話を聞くことは、楽しい事であった。
秩父市浦山、荒川村白久、小鹿野町三田川、等で名人と呼ばれた人から話を聞けたが、目的を達する事は叶わず、大滝村入りして、大血川、栃本、入川と聞き歩き、最後の望みに大滝村中津川の民宿「ひげ」に宿をとり、中津川耕地の猟師から話を聞こうと、大晦日も間近に迫ったある日の午後自宅を出発した。
先代の「ひげ」、山中市平氏はこの耕地一番の猟師として、余りにも有名な存在であったが、既に今は亡く、代わりと言っては何だが、当時中津川一番の猟師として折り紙付だった山中求氏の話を聞けたら・・・。
そんな心積もりからの出発だった。

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中津川集落近くに在る山の神
 
アポイントもとらずに出向いたのであるが、その頃私は小さいながらも会社を経営して居り、予定を立てての行動は難しい点があって、そのほとんどは行き当たりばったりに近い状態であった。
その時は残念な事に山中求氏は2日間とも留守で、宿の主人からの話を得ただけに終わった。
昭和38年6月、両神山登山の最中、ニホンオオカミと思われる動物に遭遇した柳内賢治氏等一行と相前後して、「ひげ」の先代市平が、「耕地の奥、信濃沢で遠吠えを聞いたと話をしてくれた事が有ったっけ・・・・。」主人の秀人氏は父の思い出を探すように、作業の手を緩めることなく、ポツリとつぶやいた。
38~39年の2月の深夜、ムササビ猟での出来事だったと言う。

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柳井賢治著「幻の二ホンオオカミ」

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信濃沢上に在るゲート

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ゲートから10分位に在る作業小屋
 
しかし時間を掛けても、期待する様な成果はほとんど得られぬまま、無駄に思える時間が過ぎていた時、私が断念せざるを得ない留めの一言を、秩父宮記念三峰山博物館館長の山口民弥氏が、ポツリといった。
『信州の善光寺さんの存在と同じ、大滝村の三峰神社の、その守り神であるニホンオオカミを、たとえ間違いで有ったにしても、「獲った」などと言う事を、何処の誰が言うものか!。
他の土地の人ならいざ知らず。
大滝の近辺で探しても無駄ですよ。
あなたの努力は報われませんよ』。・・・と。

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リニュアル後の毛皮と山口民弥館長
 
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この項「ふた昔前の記憶から」は、2002年頃著された文面で3部構成になっています。
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ふた昔前の記憶からー2

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確かに埼玉県に残されている頭骨のほとんどは、大滝近辺以外の産出であったし、たった一つの例外である、三峰で獲れたとされる頭骨も、所有者は、狭山市在住であった。
私は、昭和四十四年の夏、苗場山中でニホンオオカミと思われる咆哮を耳にして以来、その存在を信じて各地の山々を歩き廻ったが、ほとんどを聞き取り調査と、偶然の出会いを期待するフィールドワークであった。
民間のニホンオオカミ研究者の殆どがそうである様に、頭骨を自分の手に出来る事など無かったし、ましてニホンオオカミと朝鮮狼の違いなどと云うような、専門的な知識については知る由も無かった。

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三峰の奥裏で獲れたニホンオオカミの上顎吻端部
 
和歌山県の山奥で、家族共々その研究に没頭している、井上百合子氏に出会うまでは、正直に言えば、私の学術的知識は貧しく、井上氏に出会ってから後に、多くの知識を井上氏より得たと言ってよい。
これまでもそうであったが、これからも、事ある毎に相談をすると思うが、三峰博物館館長の山口氏に引導を渡されて、内田さん宅の毛皮のこれ以上の経緯追求をあきらめた私は、この時も井上氏に事の次第を報告し、相談の上、毛皮の鑑定をして貰うべく、有識者に手筈を整えてもらう様お願いをしたのである。
 
1996年3月初め、秩父市内の内田さん宅に在る毛皮鑑定の為、元国立科学博物館動物研究部主任研究官だった吉行瑞子博士を始めとする一行が訪れた。
かなり長い時間をかけての鑑定で、国内外第六例目の標本としての同定が期待された。
実は当日、吉行博士と共に、国立科学博物館教育部科学教育室長の小原巌先生も、おいでになる予定だったのであるが急病と云う事で、3月末になって、改めって秩父に来ていただいたのである。

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吉行瑞子博士と井上百合子(右)さん

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小原巌先生(左)と内田さんと私
 
それまで、ニホンオオカミの剥製標本として同定されているのは、国内外で5例だとされていた。
国立科学博物館蔵で福島県産の剥製。
東京大学農学部蔵で岩手県産の剥製。
和歌山大学蔵で紀伊半島産の剥製。
国外に於いては、ロンドン自然史博物館蔵の仮剥製、オランダライデン自然史博物館のタイプ標本。
これらは何れも頭骨が残されていて、頭骨の形態からもニホンオオカミの剥製であることははっきりしている。
(後にドイツのフンボルト大学に保管されていた頭骨付きの毛皮を私たちで発見するのだが)

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国立科学博物館蔵で福島県産の剥製

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東京大学農学部蔵で岩手県産の剥製

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和歌山大学蔵で紀伊半島産の剥製

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ロンドン自然史博物館蔵の仮剥製

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ロンドン自然史博物館蔵の仮剥製

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フンボルト大学保管頭骨付き毛皮
 
内田さん宅の毛皮には残念ながら、骨格、頭骨等が残されておらず、鑑定に立ち会った先生方も、ニホンオオカミと同定するのに、二の足を踏んだのかもしれない。
その結果“限りなくニホンオオカミに近い毛皮”とコメントをしながらも、公式な文書が出される事は無く、それは最近まで続いていたのである。
 
その後、元国立科学博物館動物研究部長の今泉吉典先生に、手持ちの写真全部を送ったところ、間もなく、書簡を頂いたので、参考までに一部を紹介する。
「・・・・この毛皮の事は新聞で知り、大きさと四肢の短い所や、尾の感じからも、ニホンオオカミにまず間違い無いと思っていましたが、今回お送りいただいた耳介や、足裏の写真を拝見して、ますますその感を強くしました。
もっとも私は、ニホンオオカミの外部形態は、ライデンの自然史博物館にある、タイプ標本(本剥製)、ロンドンの大英(自然史)博物館の鷲家口産標本(仮剥製)、及び国立科学博物館の岩代産標本」(本剥製)、の3点しか調べた事が無く、耳介長と後ろ足長が大陸狼より短いことしか、特徴を知りませんので、写真だけでニホンオオカミと、断定するわけには参りませんが、耳介と足底の写真には、典型的な大陸狼では記載されていない特徴が見られました。

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ニホンオオカミの特徴的な耳介(内田家標本)
 
なお私は、ニホンオオカミ(日本狼)(canis hodophilax)の頭骨が、大陸狼(canis lupus)の頭骨長の直線クラインに一致しないことや、その他の特徴から、ニホンオオカミはその亜種ではなく、別種だと考えています。(1980・在来家畜研究会報告第9号)・・・以下原文のまま。
中略、「まだこの他にも大事な事が見つかるかも知れませんので、毛皮をこの目で確かめたいのは山々ですが、体調が思わしく無く外出できませんので、残念ながら参上できません。」
 
私自身が見い出した標本であるので、特別な思い入れが有るし、それを否定するつもりもない。
内田さんの話を信ずるならば、大滝村の奥裏で獲れた狼の毛皮なのだから、まず、ニホンオオカミと考えるのが妥当と言えるし、各先生方の考えにしても、同定できないだけの話しなのだと、思いをめぐらせた。
内田家から三峰神社に寄贈された毛皮が、今泉吉典博士によってニホンオオカミであるとの鑑定が成されるのは,それから6年後2002年1月の事である。

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内田家毛皮を鑑定中の今泉博士
 
その年の4月、三峯博物館で「国内外7例目としてのニホンオオカミの毛皮」をメインとした一般展示がおこなわれたのだが、開催初日に驚くべき出来事が待っていた。
今泉博士に依って国内外8例目となる、ニホンオオカミの毛皮が持ち込まれたのだ。

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ニホンオオカミ展のポスター

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ポスターの裏面

 
下記はその経緯だが、私管理のcanis hodophilax MUSEUM CANIS.8からの転記になる。

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canis hodophilax MUSEUM-CANIS.8
 
【当標本は同年5月に秩父市内で建材業を営む飯塚正信氏より、三峯神社に寄贈されたもので、その3年程前に、飯塚氏が同市内寺尾在住の関根嘉之氏より譲り受けた標本である。
飯塚氏は関根嘉之氏の父馬作氏(明治39年生まれで、12-3年前没)からの情報として秩父山中で獲れた2頭のニホンオオカミの内の1頭であるとの認識を得ていた。
又、馬作氏の実父である照作氏が畑2反歩を換金した末の入手であるとの伝聞も得ている。

秩父市寺尾は荒川左岸に位置し、CANIS.にて報告した内田茂氏の生家である秩父市蒔田とは目と鼻の距離である為、飯塚氏からの情報である2頭を捕獲したうちの1頭が内田家の毛皮である可能性に思いをめぐらされた。
毛の色や大きさから推測した時、安直にそう考えることも可能な程、類似点の多い2つの標本だと言えるからである。
しかしながら詳細を調査していくうちに2点の大きな違いが判明した。
 
1点が毛皮の処理方法。
1点が毛質から想像できる捕獲時期。
内田家の毛皮が、頭、胴、足、尾、完全であるにもかかわらず、関根家(飯塚家)の毛皮は4足すべての先端部と鼻端部が切断された状態である。
そして、内田家の毛皮は完全な冬毛であるが関根家の毛皮は冬毛が抜け変わる時期の毛質である。
同時に捕獲された毛皮と考えるにはあまりにも大きな相違点である。
ただ、関根家と内田家の毛皮が同じ時期捕獲された物で無いのであるならば、もう1例の毛皮が発見される可能性が有ると言えるのかも知れない。

尚、関根嘉之氏の叔父である都下八王子市在住の峰尾千代作氏は明治42年生まれで、関根家で本標本を入手した経緯を以下の様に話している。
“一番上の兄、鶴作が戦争から帰ってすぐキツネ憑きになり、父照作を中心に家族が心配するなか死亡した。
まもなく、近くに住む、正月屋(屋号)の一太郎さんという人が毛皮を持ってきたので、思案を重ねた末(跡取り息子が死んでしまったので)家の魔除けとして購入した。
毛皮の入手時千代作氏は14-5歳で初めて見たときの印象として黄色っぽく、大きな毛皮だったと語る。
父照作の妹の御主人が大工だったので、毛皮を納める箱を造って、一太郎さんが毛皮のいわれを筆で半紙に書き、箱の中に入れ神棚に置いていた。
 
本年(2002)3月8日に内田家の毛皮がマスコミ報道された時、秩父の生家にも同じような毛皮があったけど・・・と、ふと思ったとのことである。
又、多くの情報が書き付けに記してあったが、入手した時、皮はなめした状態で、新しい物では無かった。
捕獲地も不確実ではあるが、正丸峠の方向と言うか青梅の方向と言うか、そっちの方向と思う・・・・。
一太郎さんの書き記した半紙が箱の中に残っていれば全ての事実がわかるはずなのにと、80年前の古い記憶を必死になってたどってくれたのである。】

ふた昔前の記憶からー3

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内田家の毛皮が納まるべき処に落ち着き、今泉博士からの鑑定が得られる見通しが立った、2001年5月の或る日。
今まで多くの情報を得てはいたものの、地理的条件等で本格的調査をためらっていた、大滝村の最深部、中津川に車を走らせた。
遠いから億劫になるとか、行きづらいと云うよりも、近くに調査中の所を、二ヶ所ほど抱えていた為、ついつい後回しになった為である。
調査の殆どを一人でやっているので、日常の仕事との兼ね合いで、休日の殆どをつぎ込んでも足りない位で、そうせざるを得なかったのである。

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今泉博士の内田家毛皮に関する書簡
 
一日目は今迄の調査地点の再確認に費やし、二日目の朝から、山中の偵察を始めたのであるが、雪消えの湿った地面に所々付いた犬科動物の、七~八センチは有ろうかと思える足跡。
そして足跡の近辺に散らかったカモシカの食い散らかされた残骸。
さらに、同じ動物が残したと思われる毛糞。
一つ一つの事例が別々の場所だったのなら、今まで幾度か経験した事であるが、これだけの痕跡が一箇所に集中している事は、全く初めてであった。
VTR撮影の後、毛糞と、ニホンカモシカの残骸を採取し、予想以上の収穫に小躍りして帰宅の途についたのである。

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カモシカの足部と収集した毛糞

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カモシカの食い散らかされた残骸
 
 
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イヌ科動物の足跡
 
同年の八月、山を越えた川上村で、高原野菜収穫のアルバイトをしていた京都の岡田氏が、私からの情報を確認したいと申し出てくれた。
川上村と大滝村は三国峠を挟んだ隣村で、調査地点は大滝の中心部より高原野菜栽培地区の方が近距離であった。
しかも、私が五月に行った場所を岡田氏が調査したところ、やはり七~八センチの足跡を発見した。

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県境の三国峠
 
そんな事で、私達の活動の最重要地点として、その近辺の山域の調査を大至急、しかも入念にする必要性を感じていたら、冬を待って、岡田氏が山篭りする事を決心した。
その山篭りの事前準備は、埼玉在住の私が受け持つ事になったのだが、二ヶ月の山篭りを支える準備には物品の量も半端ではなく、自宅から山迄の往復を、何度しただろうか・・・
雪が無ければ奥とは云っても、車で入れる所だし、山に分け入るのは何のことも無いのだから、降雪までの間に終了しなければならない。
自動撮影カメラの2台追加購入・バッテリーを充電するべく自家発電機の購入・罠を作る為の器材取り揃え・そして撒き餌に使う豚骨の運搬。
私は夢中になって走り回り、多くのエネルギーを費やす事となった。

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家庭用ビデオを改良した自動撮影カメラ
 
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橋桁下に隠し,撒き餌に使用した豚骨
 
京都から岡田氏が来たのは二月初めの事であった。
我が家で、最後の準備に2~3日を費やしていた時、思いがけず大雪が降った。
大滝村在住の仲間に様子を伺うと、中津川なら五十センチ以上は降ったのではないかとの事なので、入山日を変更しようか?と、岡田氏に相談してみたところ、車で行ける所まで行って、あとは自力で現場まで行くとの事だった。
 
翌朝、雪は止んでいたが、家の近くの道路には、雪が残っていた。
それでも、岡田氏の意思と私の仕事の都合もあって、山へと向かった。
私が子供の頃は、初雪から雪消えまでの半年、国道十七号線では交通止め状態が度々であったが、今日では車社会と云う事で、どんな山村に行っても除雪の状況は驚くほどだ。
そしてその日、埼玉県の最深部中津川も、除雪が行き届いていて、道路の状態は良好で、耕地の奥まで難なく入る事が出来た。
 
多分舗装道路の尽きるあたりで、歩きになるだろうと道々考えていたのであるが、その先の林道も、ずうっと奥まで除雪が為されていた。
冬季の入山を規制するゲートの少し手前で除雪作業をしていた初老の三人が、私たちの車を発見すると、親しげに話し掛けてきた。
『お宅ら、オオカミ探しに来たんだろう!』準備の為、幾度となく往復していた私の車が人目に付いて、耕地の中では異色の存在として、噂になっていたらしい。
私達は除雪作業を出来るだけ、奥の方までやってもらいたい下心も手伝って、愛想良く挨拶を交わし、話に応じていた。

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冬季間閉鎖される信濃沢のゲート
 
一番の年長者が、言おうか言うまいかと、迷ったあげく・・・といった風情を見せる中で思い切った様子で、話を切り出してきた。
『ずい分まえの事だが、俺も、オオカミの遠吠えを聞いた事があるんだ・・・』。
予想もしなかった展開に、思わず岡田氏と視線を交わした私は、その年長者の話を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させ緊張した。
三人の中で除雪車の運転手が、役割的には責任者と思えたが、その年長者は、何とはなしに仲間から、一目置かれる存在に見えた。
 
大滝村人口千五百名の中で、異なる名字の数がどれ位あるのか?例えば私が関わっている、秩父宮記念三峰山博物館の事務長である、千島幸明氏に電話をする時は“千島さん”などとは決して言わない。
千島氏自身も電話口での開口一番“幸明です”と言って来る。
同様に中津川でも、そのほとんどが「山中」姓である為、年長者に向かって“失礼ですが山中何さんと言いますか?”と聞いてみた。
もしかしてと、思うところではあったのだが、またしても驚くことに、“山中 求です”と答えてきたのである。 
七年前の暮れ、秩父の内田家の毛皮の出所確認をするべく、出向いた中津川耕地で、タイミングが悪く会えなかった、山中求氏だったのである。
 
“昭和四十七、八年の十二月。
中津川の最深部となる白岩付近に、バンドリブチ(ムササビ打ち)に出かけたのは、月明かりの夜だった。
親戚筋の山中嘉男氏が、荒川村上田野から泊まりに来ていて、バンドリを打って見たいと言い出した事からが始まりだった。”・・・
バンドリは月明かりの晩、木々の間から顔を出したところを、懐中電灯で照らすと、目が金色に光るので、それを目標に狙って打つのだと言う。
 
昭和九年生まれの山仲求氏は、当時営林署に勤めており、国有林内での狩猟で、しかも夜しか獲れないバンドリ打ちでの体験を、人に話す訳にはゆかず、人知れず自分の胸の中に、収め続けていた。
国有林内の狩猟は勿論禁止であって、狩猟法上に置いても日の出から日没までと、時間の制限も受けていたのだ。
 
兎も角、その晩自宅を六時頃出発した二人は、一時間後車止めに車を乗り捨てると、さらに一時間程歩いた後、目的地である十文字峠から派生する、なだらかな尾根のブナ林で獲物を探し始めた。
しかし、その日はいつに無く不猟で、何の手ごたえも無く、場所を変えて探そうと、一キロばかり歩を進めた時、つい先ほど通ってきた白岩の付近から、サイレンが鳴り響いた・・・と思った。
そこは中津川の源流部に位置し、深い沢を挟んで、谷がV字型に切れ込んでいるため、音がこだまの様に反響する場所ではあったが、山中にサイレンが鳴り響いた数秒後、獣の咆哮に変わった。

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この辺でバンドリ撃ちを試みた
 
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大河股沢源流部の白岩岸壁
 
腰が抜ける程と言っても良いくらい、ビックリした二人は、顔を見合わせた。
お互い何も言わず、声も出さなかったが、お互いが同じ事を思っているのが良くわかった。
湧き上がるような恐怖心に突き動かされて、何も云えない二人は、キビスを返して、走るように車まで戻った。

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ここが奥秩父林道白岩の分岐
 
中津川耕地で名人と言われ、狩猟の武勇伝に事欠かない山中求氏であるが、それ以後白岩付近には近づいた事が無いと言う。
二月~三月の二ヶ月間山篭りをした岡田氏は、六ミリ×三十メートルのザイルをザックに入れ、白岩近辺の岩場を丹念に探し廻った。
三十年前の痕跡が、あろうとは思わなかったが、動物が巣穴に使えそうな岩穴が、無数に散在していると私に伝えた。

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奥秩父縦走路付近に在る鍾乳洞
 
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中津川集落入口に或る仏石山鍾乳洞
 
山一つ隔てた群馬県上野村に在る不二洞と生犬穴の2つの洞窟。
関東最大の鍾乳洞として知れ渡った不二洞とは別に生犬穴の存在を知る人は少ない。
“おいぬあな”と呼ばれる洞窟の名の由来は、オオカミの骨が一杯出て来た事からで、発見されたのは昭和初期。
数点の標本が残されているが、殆ど全ての骨は神流川に捨てられてしまい、時代の流れを感じる。

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群馬県上野村に在る、生犬穴(おいぬあな)
 
長い間秩父盆地のシンボルと言われ、神の山と崇められて来た武甲山。
そのシンボルの形が変わるほど石灰岩が掘り出されている現実。
秩父山塊には、オオカミの巣穴と化する、石灰岩で構成されている山が多いのだ。

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石灰岩採掘で30m標高を下げた武甲山

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29日の夜、懐かしい人から電話を戴きました。
昭和396月初め、奥秩父の両神山登山時、ニホンオオカミと遭遇した柳内潔さんです。
お父さんの賢治さんが「幻の二ホンオオカミ」を著しておりますので、ご存知の方も多いと思います。
潔さんは50年以上経った現在も、出身大学関係、お仕事関係を通じ、ニホンオオカミ生存の啓蒙活動をしているのです。
そうした中、新しい情報が得られた際、私までそれを繋いでくれる訳ですので、有り難い次第です。
 
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 2014年のフォーラム時発表要する柳内さん
 
この度の電話は、『29日の産経新聞朝刊で「東の狼」なる映画の紹介が為されている』とのお話でした。
販売店で新聞を求め記事を読みますと、主演の藤竜也さんが猟師役で、トレイルカメラ等を使ってオオカミを追う・・・そんな内容みたいです。
このブログをご覧になる皆さんは、何処かで聴いた事のある内容・・・と思うでしょうが、奈良県東吉野村周辺が主たるロケ地らしいです。
が、ここはニホンオオカミ終焉の地とされる鷲家口の在る村です。
数年前村会議員の皆さんが、大英自然史博物館の鷲家口オオカミを見に足を運んだり、一昨年秋、村の有志が三峯博物館まで視察に来たりで、殊の外熱心にオオカミと取り組んでいろ処です。
若しかして、その一環としての【東の狼】かも知れません。
興味のある方は、映画館迄足を運ばれては如何でしょうか。

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 大英自然史博物館の鷲家口オオカミ

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 三峰神社視察時、東吉野村会議員の皆さん

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 産経新聞のコラム

冬籠りのオオカミ探し-1

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大雪で山に入れなかった1月下旬。
今までの活動記録を整理していたら、懐かしいVTRを見つけました。
前項でも紹介した京都在住の、岡田氏の山籠りVTRです。
 
「百聞は一見に如かず」の諺通り、映像を前面にしての紹介です。
ただ、SnippingToolを使用してのスクリーン切り取りですので、その辺はご理解ください。
 
現在の様に、安く・軽く・コンパクトで・映像が綺麗で・ある程度風雪雨にも耐える・・・そんなトレイルカメラが無かった頃の話です。
映像技師にお願いし、家庭用VTRを改造した自動撮影VTRを入手しました。
3台で¥100万円でしたが、2時間のテープが終了するか、バッテリーオーバー以外は、確実に1ヶ月間自動撮影してくれます。
カメラ入手以前は「山歩きしながら偶然の出会いを期待する」形式でしたから、今までとは格段の進歩でした。
 
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 岡田直士氏

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ご覧の通りバリバリの手作りで、バイクのバッテリー2ヶ使用でしたから、重いと云ったら・・・
動物の大きさを知る為手製の定規を据え付け、良くない事とは知りながら豚骨・牛骨を撒き餌に使い、営林署の管理地内でしたから借地料を払っていました。
山中泊りのコースでしたが、借地料を払いましたから入山禁止の林道使用許可を得、ゲートの鍵も預かり、日帰りの作業となりました。
が、大敵が居ました。
赤外線照射で夜間撮影も可ですが、それに反応したクマが、必ずと云って良い程チョッカイを出し、使用不能となったのです
ですから、クマがお休み中の冬こそ、このカメラの活躍時期だったと云えます。
こうした経験を重ねた末での、真冬の山籠りでした。
 
 
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  橋桁の下の豚骨4

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 橋の脇にはテンの足跡が
 
岡田氏冬籠りとなる1ヶ月前の年末年始、空手の弟子を伴い荷揚げを兼ねた1週間のオオカミ探しを試みました。
丁度その頃、狂牛病騒ぎで豚骨が値を張り110kg¥6.000でしたが、10箱、沢の奥に在った(多分営林署の)資材小屋に積んで置きました。
ドアも閉まって安心していたのですが、それを全てテンに食われてしまったので、改めて橋桁の下に4箱積みました。
しかし、これも全部テンに盗られて、2月の入山時再度4箱持ち込んだ次第です。
 
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林道上には、誰の仕業かヤマドリの食い散らかされた跡も有り、2月からの捜索に期待が募りました。
 
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 お世話になった作業小屋

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捜索地点の中心に営林署の作業小屋がありましたので、無断借用と決め込みました。
狭い小屋ですから私は自分の車に、弟子は岡田氏の大変さを経験させようと小屋でそれぞれ寝たのですが、2晩目の寒さが予想以上に厳しく・・・
今から50年前、新潟県の苗場山で小屋番をしていた時、小屋の中の生卵は、毛布を掛けて保存していても凍りました。
生卵を食べる時は、軽くボイルしてから食べたものです。
その際の小屋は標高1.370mに在りましたが、今回の小屋は1.500m以上に在り、雨露を凌ぐだけの掘立小屋で、戸も無かったのです。
 
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 三国峠の埼玉県側

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 峠に在る公衆トイレ

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翌日、荷揚げをしつつ三国峠から甲州の山々―八ヶ岳-を見ていた弟子が、帰りたいと言い出したのです。
父方の実家で見ていた山々で、里心が出たのか、昨晩の寒さに参ったのか・・・多分寒さの方だったと思います。
作業はいっぱい残っていましたが、その日は上尾市に車を向けてしまいました。
翌日私、山に戻ったのは云うまでもありません。
 
余談ですが私、1994年に空手で黒帯を取得しています。
息子がいじめられっ子でしたので、心身ともに強くさせようと空手を習わせ、木乃伊取りが木乃伊になったのです。
ちなみに、山を下りたいと云った弟子は、オオカミ探しの道を選ばず、現在は他の流派で、大幹部として後進の指導をしています。

冬籠りのオオカミ探し-2

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本年1月下旬、大寒波襲来で、辛い数日を皆さんも過ごされたと思います。
167年前の年末年始、オオカミ探しをしたその時も、きっと寒波襲来だったのでしょう。
未来の、空手の達人の気持ちも、私は理解出来ました。
 
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20182月の私たち
 
それより、2ヶ月間山籠もりする岡田氏の気持ちを察すると、余りの寒さに少し憂鬱になりました。
ただ、34年前の2ヶ月間、秩父野犬の撮影山域で山籠もりをしていましたので、誰よりもそうしたknow-howを持っていました。
そう云えば、その際大雪になって、テントが押しつぶされそうになり、夜中も両手両足を踏ん張って耐え忍んだそうです。
そうした癖?が身に付き、我が家に帰っても、夜中両手両足を踏ん張って寝たそうです。
それに懲りて今回は、山中の掘立小屋をベースに捜索活動に入りました。
 
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小屋の中から見える物は2張りのテントで荷物置き場として使い、寒さ対策に小屋の廻りをコンパネで囲みましたが、オオカミ捕獲用の資材でしたから、改めて荷揚げをしました。
水は徒歩10分位の処に沢が有りましたが、トイレは小屋の脇に、幅・深さ共に30cmの溝を掘り、それは最近まで残っていました。
 
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小屋の裏にはご覧の様な野仏があり、時々カモシカが遊びに来たそうです。
 
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山火事用心の幕の奥に小屋が有り、橋を渡り奥に進むと主たる捜索現場、橋の下の道を辿ると三国峠、この橋の桁の下に豚骨が4箱在ったのです。
 
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居住空間が片付くと捕獲用の罠作りを始めました。
 
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空中には豚骨をぶら下げ
 
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以前紹介した作図通りでした。
 
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もう1種類は上空から網が落ちて捕獲する方法。
 
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捕獲したら橇に載せ、中津川耕地まで4時間の長丁場。
 
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もう1つの仕掛けはご覧の通り、撒き餌に集まる動物の撮影。
樹にも豚骨を巻き付けました。
 
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空いた時間岡田氏は山中を歩いて巣穴探しをし、写真の様な洞窟を幾つも撮ったのです。
活動を否定する人達にしたら「何とバカな事を」と思うでしょうが、岡田氏と私は至極真剣でした。
現在の様に、「安く・軽く・高性能で・壊れ難く・風雪雨にも比較的強い」トレイルカメラが入手できていたなら、多分、作業方法も変わっていたと思います。
 
今泉吉典博士が「いないと思ったら終わる」の、名言を残しましたが、生存に関する多くの情報が集まっている今日、「居ない」を通すのは無理筋だと考えます。
つまり、確かな生存情報が寄せられる限り、探し続けるべきだと思うのです。
「居るものは啼く・啼くものは居る」「居るものは撮れる・撮れたものは居る」の心構えです。

居ないと思った時終わる

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三峰神社で行われた節分祭に参加した私と内田茂さんは、昼食もそこそこに車を飛ばして、山中の散策に向っていた。
昨晩からの降雪でフィールドサインを求めるには絶好の状態で、今までの経験上何か得られると感じていたからだった。
その山域では不特定多数の人達から生息に繋がる情報が得られており、その殆どがここ10年以内の新しい案件であった。
私も6年前の2月11日、氷結した滝見物の帰りに其れと思われる咆哮を聞いたし、同行者の獣医も聞いている。
 
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生存の情報が多く得られる荒川源流域

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 氷結した不動滝 

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 滝の見物後この橋のたもとで咆哮が
 
3年前の1月初めには人家から10数キロ離れた林道上で、猿の足跡と共に求めている動物と思われる足跡も見つけていた。
-----前の晩から降り続いた雪は膝まで埋もれさせ、村の除雪車は悪戦苦闘を強いられていて、自衛隊出身でその道のプロが運転する車は、何度も立ち往生しながら林道の最深部近く迄移動したが、運転手の顔は引きつっていた。
車を捨てて1時間近く進んだ山中に、猿を追ったその足跡は深い谷から出て来て、そして帰っていた。
足跡の上には雪が冠っていなかった為、私達の気配に驚いて姿を隠した様子が思い描かれた。
右手の滝上では猿の集団が、安堵の息を洩らしながらも及び腰で私たちを眺めていた。-----
この件は、フジTVの収録時の事で、番組ディレクターを含む5名全員が周知のことである。
 
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林道最深部の車止め

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猿を追った足跡が在った橋

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猿の集団が私たちを眺めていた滝

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フジTVディレクターの松尾さん
 
一ヶ月前の深夜、2年参りの為三峰神社を訪れた私たちは、帰り道この林道上に車を乗り入れようとしたのだが、娘の強硬な反対にあって数キロ進んだだけで中止した経緯が有った。             
林道上の最後の民家から10キロ近く走った所に、何の目的で作ったか解らない、立派なログハウスが少し前まで建っていたのだが、土台の鉄骨だけ残して山中は静寂そのものだった。
その山域では数が少なくなった兎の足跡に誘われて、ログハウスの跡に車を止めると、右手の谷から左手の山に向って明らかに兎を追っているイヌ科動物の・・・3年前に見つけた動物と同種と思われる・・・が続いていた。
 
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林道上の最後の民家

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ログハウスの跡
 
絶滅論の研究者たちに私の行動は、気違い沙汰に写っているのだろう。
今迄にも様々な場所で批判され、時には詐欺師扱いされた事もあった。
しかし彼等の多くは“タイリクオオカミの亜種”“絶滅したのだから居ないのだ”という前提で考えて、寄せられる多くの情報に全く耳を傾けようとしなかった。
あたかも、そうする事が科学的見地に立った真っ当な研究者である!と言わんばかりに。
 
無視され埋もれかけた多くの情報が、時を経て私の下に集まって来た。
その一つ一つに耳を傾け現地まで足を運んでみると、全てとは云わなくとも生存に繋がるものが少なからず含まれているし、今なら未だ間に合うのではないか・・・と。
 
ログハウス跡から続く雪上のイヌ科動物の足跡を追いながら、今までの様々な事例と重ね合わせていると、一緒に追っていた内田氏が、フト独り言を洩らしていた。
「甥っ子が毛皮の事を長瀞の博物館に連絡した時、直ぐ来ていれば三峰神社に納める事にはならなかったんだ!」
---内田家に有ったニホンオオカミの毛皮の事を、今から10年位前連絡した事があったのに、「そんなもの有る筈無い!」との先入観で、長瀞の県立自然史博物館からは無しのつぶてだった。
新聞報道されてから、慌てて人を介して来られても今更-----内田氏はそんな事を考えているに違いなかった。
 
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三峰神社に寄贈された毛皮と内田さん
 
第二次世界大戦で壊滅的に破壊されたベルリンの、そのフンボルト大學に奇跡的に保存されていた頭骨3点。
書簡上では日本からドイツに送られている事を多くの人達は知っていたが、誰もが戦争の激しさから無い物と諦めていた。
しかし私達は有るかもしれないと考え、博物館とコンタクトを取り、頭骨3点の他、毛皮と全身骨格の存在まで確認する事ができた。
 
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こうした資料をベースに4年の歳月を要した


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国内外6例目のベルリン博の毛皮寸法
 
フンボルト大學での1週間の調査を終え、帰国した私は全ての資料を携えて、今泉吉典博士宅を訪れた。
資料を見ながら博士は思わぬことを私に告げた。
恐竜の調査で以前フンボルト大學を訪れたのだが、戦争体験者の一人だった博士は、「ニホンオオカミの標本」を問う事さえしなかった・・・と。
 
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 内田家の毛皮を前に語る今泉博士
 
戸川幸夫氏に依り1965八重山群島西表島で発見されたイリオモテヤマネコに付いても,今泉博士は前年、早稲田大学生物同好会の高野凱夫氏から生息の噂を伝え聞いていた。
が、標本はおろか写真1枚存在しない噂の段階では、飼い猫が野生化した野猫ではないかとも考えられていて、博士の考えも同様だった。
そうした流れの中、1996年秋の秩父野犬写真撮影に至る訳で、私からの写真とタイプ標本を比較するのは、分類学者として当然の作業だった。
21世紀に入り、秩父野犬同様の動物写真が九州で撮られるに及び、博士の日記に「居ないと思った時終わる」と記されたのは、心からの叫びだと感じずにいられない。
(この文面は2004年に記したものです。)
 
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西表ヤマネコ発見時の新聞記事

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大分県の山中で撮られた祖母野犬

オオカミの頭骨で解る事-1

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以前この欄で記した様に、90年間のニホンオオカミ研究史でその標本とされる物は、2004年に中村一恵氏が発表した「二ホンオオカミの頭骨記録」に依ると76例記録されています。
中村氏の論文は過去の文献に記載された事例をカウントした訳で、例えば三峯博物館の6点中1点だけがその対象となっていて、実際には100例を優に超えています。
私が知る限りでは、過去10年のオークションで30例前後出展されていますし、綿密に掘り起こせば200例・・・いや300例近くが各個の民家に眠っていると考えています。
ただその殆どは、根付として伝わっていると思われますが、それは岸田日出男著「日本狼物語」中の以下記述を見れば明らかです。
【凡そ二十二、三年前(大正末期)下北山(村)へ行く時、午前七、八時頃古代(上北山村)の五~六町手前(北)まで行くと、小谷の上方で唸りつつある狼を発見した。用事をすませて帰途、午后六、七時頃、その付近まで来ると血を吐いて死んでをるのを見た。狼の牙は魔除けだと云うので、牙を抜かんと思ったが、既に牙は無かった。血は牙を抜かれる時出た血と思う。】
 
山深い紀伊山中で生活の糧を得ている杣人に限らず、山歩きをした者なら狼の牙を魔除けにしたい気持ちは、ご理解戴けると思います。
獣は勿論のこと、急変する天候、目に見えない得体のしれない何か・・・そうした様々なものを対象として自然界の中に身を置く訳ですから、何かにすがりたくなる気持ちは当然です。
そうした典型的な標本が三峯博物館に展示されています。
 
獣と対峙している猟師が用いていた火薬入れの根付けで、螺鈿細工を施した優れものです。
猟師がオオカミの根付けを身に着け、猟場で待っていた際オオカミが現れたら・・・と考えると滑稽でも有るのですが、それは現代人の感覚から言えるものです。
因みに、この標本は秩父市内の横田獣医からの寄贈品で、群馬県の業者から購入したと云っていましたので、県南の山岳地帯で獲れたもので、所謂上野(こうずけ)産とされるものかも知れません。

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螺鈿細工と根付け・仕上がりの良さに惚れ惚れ
 
十数年前紀伊半島へ調査旅行に行った際、興味ある標本3点に会いました。
西牟婁郡すさみ町の民家に在った、上顎裂肉歯穿孔加工品・田辺市個人所蔵の下顎吻端部根付け・旧大塔村歴史民俗資料館に展示中だった、上下顎吻端部標本です。
 
すさみ町の加工品は非常にコンパクトでしたが、裂肉歯穿孔部に紐を通し、小さな彫り物とレース編みの小袋を繋げ、印鑑入れとして使用していたので、御主人が羨ましく思えました。

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こうした施しをした標本は初めて
 
田辺市の下顎吻端部は、柿の渋を塗った重量感を覚えた標本で、私が手にした値付け標本では、一番の立派さを感じ見惚れた逸品でした。
この標本を手にした時、標本の牡牝の判断が出来る私が居るのを知ったのです。

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こちらも確か印鑑入れでした
 
旧大塔村歴史民俗資料館は、旧中瀬家宅を改装したもので、上下顎吻端部は中瀬家所蔵だった標本です。
上下とも吻端部で切断して有り、往時を忍べないのが残念な気持ちで一杯だったのですが、考えようでは、紀伊半島でのヒトとオオカミの距離・価値が判る標本だった様に思えます。

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それにしても残念な・・・

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旧大塔村歴史民俗資料館
 
紀伊半島に残る頭骨で上下顎が揃う標本は、和歌山大学の剥製から取り出した標本だけで、他は奈良県の岸田家(日出男)が所有している上顎のみです。

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この写真の標本はレプリカ

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「日本狼物語」にも記載された岸田家標本
 
とすると、「日本狼物語」中の「狼の牙は魔除けだと云うので、牙を抜かんと思ったが、既に牙は無かった。」とする証言に真実味が増すのです。

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岸田日出男著「日本狼物語」の復刻版
 
秩父地方に眼を転じると、荒川流域にオオカミ神社が多く有る為でしょうか、史実に出て来た標本数が少ないのです。
その上行方不明の標本も多く、私が調査した標本は3点のみです。
そして、全て現所有者の先祖が、自宅近くの山で獲ったオオカミです。
写真を見れば一目瞭然ですが、紀伊半島の標本と比べると、秩父の標本は或る特徴を帯びます。
先ず市内品沢産で多比羅家所蔵の上顎標本。

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神棚に祀られ主人が毎日拝礼を。
 
秩父郡長瀞産で井上家所蔵の上顎標本。

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井上家の奥さんは釜山神社宮司の姪
 
薬として使われていた為、頭骨の表面が削り取られ、ご覧の通りです。
一般的には「キツネ憑き」と云われ、一種の精神疾患だったのでしょうが、秩父では「オオサキ憑き」と云われ、キツネでは無くオコジョだった様です。
キツネにしろオコジョにしろ、憑いた動物を落とす為には、それらより強者のオオカミの力を借りるのが最良と考え、病人の枕元に頭骨を置くわけです。
それで治癒すれば問題無いのですが、中々旨く事が運ばず、借主は骨を削って病人に飲ませる・・・・・。
その繰り返しで現在の状態になったのですが、井上家では貸す際に墨を塗り、削ったら解るようにしたそうですが、全く意味が無かった事になります。
秩父郡小鹿野町の、常木家の根付けさえ犬歯を削り取られていますので、病家の人達がどれだけ必死だったか、お判りになると思います。

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常木家も根付けとして現役
 
20年以上前のことですが、常木家の当代は俳句をたしなんでいまして、訪問時いつも句会を催していました。
お犬様像を見るたび私は、当代・理助さんの「犬神の 鬣(タテガミ)となる 春の雪」の句を、思い出しています。

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1995年3月三峯神社の春の雪
 
「憑き物落とし」として使われた究極の頭骨は、都下青梅市・御嶽神社の宿坊に伝わる標本です。
ご覧の通り、良くぞここまで・・・と思わせるような状態ですが、利用されたオオカミも満足感一杯かも知れません。

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頭骨上面

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頭骨右面
 
ただ、此処まで削られると、本当にニホンオオカミなのか・・・と、疑問が生じますが、ニホンオオカミとしての特徴「神経孔」がちゃんと4孔有ります。

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神経孔の位置・数を・・・
 
三峯神社は宮司を頂点とした組織体ですが、御嶽神社は御師が経営する宿坊の集合体であって、それぞれの宿坊が独自の経営をしています。
神主がそれぞれ担当地区の講中を廻る三峯神社に対し、御嶽神社は宿坊としてそれぞれの講中を廻る訳です。
山中で荒行を行っている際ニホンオオカミの咆哮を聴いた、宿坊「静山荘」の橋本薫明御師は、宿泊者に滝行のアドバイス等を行っていますし、参道で売店経営をしている宿坊も有ります。
そうした中の宿坊が上記の標本を所有していて、「憑き物落とし」の希望が有れば・・・と云うことだったのでしょう。
ただそれも、遥か昔のことだと聞き及んでいます。
 
この他にも、御嶽山周辺で獲れたとされる頭骨標本は幾つも存在しますが、憑き物落としで使われたと口伝される標本は、都下日の出町の井上家の物以外私は知りません。
井上家の頭骨は、御嶽大塚山墓地に出没していたものを、先祖(大正八年一月に没したシシトラ氏)が射殺したと伝わっていますが土葬された死者を掘り起こしに来たオオカミだったのでしょうか。

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顔面が削られた状態
 
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オオカミを撃った井上シシトラ氏

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若かりし頃の私

井上家へ調査に赴いたのは22年前の事でしたが、その際「20年前まで憑き物落としで貸し出していた」と話していました。
写真中の杉板裏面には、「明治十年丑七月吉日.武蔵國入間郡金子峯村.池田寅吉」と記されていますので、池田氏が「憑き物落とし」で借用した、お返しの納札と思われます。
とすると、ニホンオオカミのチカラって、予想以上に凄いのかも知れません。

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武蔵御嶽神社と書かれた裏面には・・・

オオカミの頭骨で解る事-2

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前項はオオカミの頭骨と人間の関わりに付いて記しましたが、今回は捕獲方法を述べて見ます。
 
下記に提示する標本は大英博物館自然史館所蔵B..(NH)1886.1.28.1で、188412月に秩父地方Kotukeで捕獲されたものです。
Kotukeは旧大滝村の隣村群馬県上野村の事です。)
捕獲方法は不明ですが、歯牙を含め全く損傷が見られない、数少ないニホンオオカミ頭骨標本の一つです。

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ご覧の通り完全な標本

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友人の森田氏が大英博から有料で・・・
 
国外に在るニホンオオカミの頭骨標本は、アンダーソン採集で最期のオオカミと云われる、大英博物館自然史館蔵がもう1点、オランダ・ライデン国立民族学博物館に2点、ドイツ・ベルリン博物館に3点。
国外7点の頭骨標本中6点は損傷が見られなく、ベルリン博の1点のみ後頭部が破損された状態です。
国外の博物館は損傷が無い標本を求めている訳ですから当然ですが、ベルリンの1点は毛皮付きでして、メインは毛皮だったと思われます。

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鷲家口オオカミ

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ライデン博所蔵・右がタイプ標本

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ベルリン博所蔵・#42983

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ベルリン博所蔵・#22326

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ベルリンの#48817牝・毛皮と頭骨・左右前肢骨
 
国内に眼を移すと、私が知る限り同様の標本は、国立科学博物館・徳島県立博物館・広島県旧加計町寺院の3例が存在します。
ただし、徳島県博・加計町寺院の2標本は肉塊・皮膚の固化付着が見られ、細部の詳細調査が難しい状態です。
根付け標本を別にすれば、民家に伝わる頭骨標本の多くは、肉塊・皮膚の固化付着が見られるのですが、研究者に貸した際付着物を勝手に取り除かれた・・・そんな話を良く聞きました。
ここ三十年位で見つかった標本はそうした事が有りませんが、昔は大らかなところが有ったのでしょう。

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国立科学博物館蔵M100

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徳島県立博物館管理標本

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広島県旧加計町寺院所蔵
 
これらに準じた標本も幾つか見られますので、それらも此処に提示して置きます。

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神奈川県秦野市個人所有の標本(頬骨弓の破損)

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和歌山大学の標本は上顎右犬歯と門歯の欠損
 
今回のテーマは捕獲方法ですので、本題に戻りますが、先ず一番判り易い高知県旧仁淀村の標本。
【比較的至近距離から撃たれた(罠にかかったところを鉄砲で撃たれたと推測される)と思われる直径17mmの弾痕が右前頭骨にあり、この弾により篩骨と後鼻腔が破損している。また、犬歯と第1小臼歯の全てと左上骨第小臼歯、右下顎第2小臼歯損傷が激しい。(以下略)】なる、詳細な報告書が在ります。

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高知県旧仁淀村の標本
 
下記神奈川県山北町の標本は、今から485年前十里木峠で、先祖が切り殺したオオカミの中の1頭で、神棚にむき出しのまま安置していたので煤けています。
「頭骨の損傷が少ないのは切り殺したため」と考えて差し支えないと思います。

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山北町の個人所有標本も、下顎門歯の欠損
 
以上は国内に遺された比較的損傷が少ない標本ですが、記載例以外にも幾つか存在します。
しかし、紙面の都合もありますので、いずれかの機会に紹介します。
 
銃・刀剣の例を記載しましたが、残された頭骨標本の多くは、身近な道具で獲られています。
 
東京都瑞穂町高橋家の標本に関し、ニホンオオカミ研究の先達直良信夫氏は、「日本産狼の研究」で発表していますので、記載を抜粋します。  
【本皮標本は東京都瑞穂町石畑xxx 高橋氏所有で、本家に当たる瑞穂町石畑xxxx高橋xx氏が上顎吻端部と下顎を所持している。
文久3年1863年)以前に高橋xx氏の数代前の銀蔵氏が石畑の茶畑(桑畑という説もある)に潜んでいた狼を棒でたたき殺して採捕した。
毛皮は縦に二つ折れにされていて、尾部および四肢部を欠き頭胴部のみが残存している。
(中略)
皮の全長は(頭胴長)126センチ、肩高の部分は33センチ、結局この大きさは、狼の生時におけるからだの大きさ(もちろん現状では皮がひからびて固くなっているので実際よりは小さくなっている)の大体を表示しているとみてもよい。
顔面骨の特色は、従来知られているものの中では若干幅が広めであって、上顎の歯牙も少し大形である。
下額骨にあっては、まずその骨体が頑丈であって咬筋の発達がはなはだ顕著である。
この資料は東京都としてはもっとも平野部に近い地域(狭山丘陵の西端)に棲息していた二ホンオオカミの遺体であることがまず注意を引く。
江戸時代以降武蔵野は特別の地域以外は広漠とした草原様の景観を有していたであろう。
道路はこの平原を縫って発達していたものと思考されるが、このような大形のしかも獰猛なニホンオオカミが常に出没していたであろうことを想像すると、旅人の往来は容易なものでなかったであろうことを、私は追想するものである。】

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本家の高橋家蔵標本

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分家で所蔵する本皮標本
 
瑞穂町の例で、先祖の口伝と残された標本が示すように、こうした形態の頭骨標本が圧倒的に多いのです。
つまり、身近な道具「棒」でたたき殺したと思われる頭骨の形状です。
特定の者以外銃を持つ事は出来ませんし、それを許された猟師が高価な弾を放って、商品価値が低かった動物--を撃つ確率は低いとされていました。

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福井県の民家所蔵標本

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長野県上田高校蔵標本

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神奈川県の民家蔵標本
 
上記3点の頭骨は破損状況を見れば、たたき殺された狼だったことが明らかです。
 
これから述べる事が今回の主題なのですが、アンダーソン採集で最期のオオカミと云われる、大英博物館自然史館蔵鷲家口産頭骨標本は、
「高見川沿いに在るオオカミ像の下の川で筏に乗っておって、そこへバーンと飛び込んできたと、オオカミが・・・。
それでみんなで木で叩いて殺した。詳しいことはわからないんです。明治のことだからね。」・・・・が定説となっています。
 
果たしてそうだったんでしょうか。
国内外に遺るニホンオオカミの、毛皮及び頭骨標本の多くを手に取り観察してきた私は、長い間鷲家口オオカミの捕獲方法に疑問を持っていました。
下に示す写真は、当該の頭骨標本です。

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上記3枚続きの写真も参考に
 
ご覧の通り1点の破損部も無い完璧な頭骨標本なのです。
伝わる様な「筏師が木で叩いて・・・」云々は明らかに間違いだと考えています。
近々発売される予定の山根一眞氏の著作でも、若しかしたら取り上げられるかも知れませんが、次回はその辺を突っ込んで見たいと思います。

鷲家口と二ホンオオカミ

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昭和期の動物学者で京都大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授を歴任された「上野益三」博士を皆さんご存知でしょうか。
私がニホンオオカミに全く興味を持たず、山小屋の番人として毎日を楽しく過ごしていた頃、上野博士は甲南女子大学研究紀要第5号(昭和43年)に「鷲家口とニホンオオカミ」なる記述を発表しています。
ニホンオオカミ最後の標本とされる所謂「鷲家口オオカミ」について、周辺の地理を含む詳細が記されているのですが、「その5」として捕獲方法を述べています。

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甲南女子大学研究紀要第5 
 
【「その5】 アンダーソンが手に入れた1頭のニホンオオカミは、果たしてどこで獲られたのであろうか。
近年トラック輸送がはじまるまでは、鷲家口に集まった杉材や檜材は、筏に組んで高見川を流し、さらに吉野川を下して、上市等まで運んだ。
鷲家の谷と大又の谷とが合して、高見川となるあたりに、秋の彼岸過ぎに川を横断して堰を設ける。
その上流に水が貯まってダム湖のようになるのを待って、その“湖”上で筏を組む。
そして、堰を切って放水とともに筏を流す。

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川を横断して設けられた堰
 
これを繰り返し、春にアユが遡上するまでに堰を撤去するのが習わしであった。
アンダーソンが鷲家口に来た1905年の1月の上旬は特別に寒気が厳しく、堰の上流の停滞水に氷が張った。
筏組み作業中の筏師らは、突如1頭のシカがオオカミに追われて杉林から走り出て来るのを見た。
追いつかれたシカは氷穀上に乗り、氷を突き破って四ツ足を取られ、追ってくるオオカミもまた、氷穀に足の自由を奪われた。
筏師らは有合わせの得物を振ってこのオオカミを撲殺した。

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堰が在った近くに建つニホンオオカミ像
 
そして、その屍体をそのまま打ち棄ててあったが、日を経て、外国人が獣を買うというのを聞いて担ぎ込んだのだという。
(鷲家口の古美術商亀屋主人亀井恭蔵氏の談話。同氏先代の見聞。)
さきに述べたように、この地には猟師を副業とする者が多いから、アンダーソンの前に現れた3人の猟師は、筏師たちであったかも知れない。
以上の話は少しでき過ぎているようなフシもあるが、仮にこの話に信憑性があるとすれば、最後の標本となったアンダーソンのオオカミは、奥地ではなく、鷲家口で獲れたこととなる。】
 
前項ブログの末尾近くで、
【アンダーソン採集で最期のオオカミと云われる、大英博物館自然史館蔵鷲家口産頭骨標本は、「高見川沿いに在るオオカミ像の下の川で筏に乗っておって、そこへバーンと飛び込んで来たと、オオカミが・・・。それでみんなで木で叩いて殺した。詳しいことはわからないんです。明治のことだからね。」・・・・が定説となっています。】と記しましたが、これは新潮社から発売された「シンラ19961月号・動物事件簿狼」で著者の山根一眞さんが、東吉野村の教育委員会職員から聞き及び載せた内容です。

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シンラ19961月号・動物事件簿・狼
 
「幻の二ホンオオカミ」なる小冊子が東吉野村教育委員会から、ニホンオオカミの資料として昭和62331日に発行されています。
上野博士による「鷲家口とニホンオオカミ」もこの冊子に含まれていますので、上記、東吉野村教育委員会職員の発言が上野博士の文面からであることは、十分に想像できます。
あくまでも私見としてですが、現在に伝わる鷲家口オオカミの捕獲に関する定説は、上野博士の「鷲家口とニホンオオカミ」文面からと思えるのです。

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東吉野村教育委員会発行の「幻の二ホンオオカミ」
 
ところで、博士は5項の末尾で、
【以上の話は少しでき過ぎているようなフシもあるが、仮にこの話に信憑性があるとすれば、最後の標本となったアンダーソンのオオカミは、奥地ではなく、鷲家口で獲れたこととなる】
と述べていますので、古美術商亀屋主人亀井恭蔵氏の談話を、全面的に信じているのではないことが、文面から窺い知れます。
私が鷲家口オオカミの捕獲方法に疑問を持ったのは、多くの遺された頭骨標本を調査している最中でした。
実はこの頃、個人所有で博士はニホンオオカミの頭骨標本を所持していましたので、鷲家口オオカミの捕獲に関し疑問を抱いていたのでは・・・と考えているのです。
「たら」「れば」の世界になりますが、若し博士が「鷲家口とニホンオオカミ」記述時、下記の文面の事例を知り得ていたら、「その5」の内容が大きく変わっていたのでは・・・と思えるのです。

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頭骨標本調査をする際の資料

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アンダーソン採集ニホンオオカミ頭骨
 
社団法人日本犬保存会発行・昭和49年度第8号「日本犬」に、兵庫支部・乃万 金吉氏が「ニホンオオカミ最後の地を尋ねて」なる記述を寄せています。

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日本犬保存会発行・昭和49年度第8号「日本犬」  
 
【以前からニホンオオカミが捕らえられた最後の地として知られている鷲家口に興味をもっていた。
最初に尋ねたのは昭和458月で、榛原駅前からバスで鷲家口に向かった。
鷲家口バス停近くの古めかしい構えの民家で「この村で昔ニホンオオカミが捕らえられたそうですが、お年寄りの方で当時のことを知っている人はいませんか。」と尋ねると、
「オオカミ!この村には年寄りも少ないのでね、知っているとすればあの人くらいでしょう。しかし七十七歳で体が悪く現在療養中と聞いているので、どうか分かりませんよ。」とのこと。
療養中とのことでためらったが、あつかましくお伺いしたところ「外歩きはできないが、話だけなら・・・」と気持ちよく応対してくれた。
「オオカミのことですか。たしか日露戦争のあった明治三十八年だったと思いますが、私が十二歳の時で父母や兄からその話を聞いたことを覚えています。
私の生家はこの鷲家口から十キロほど東の海抜七百メートルの山村ですが、母が毎日オオカミよけのまじないをしていましてな。

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旧四郷村中心部
 
オオカミは人間のお小便を舐めに夜出て来るそうで、その時に人間を襲うので家の周囲に塩をまいて、これを食べておとなしく帰ってや、とまじないをするとその家の人には害を与えないそうですよ。

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小便を舐めに来た処を捕えられたオオカミ
 
前夜まいた塩が翌朝なくなっていた時は本当に恐ろしかったですよ。                               
大正の初めにこの家に嫁いで来ましたが、オオカミが運びこまれた芳月楼旅館(現在は経営者が変わり衣料品店になっている)は昔からの宿場町旅館で主人の前北さんは実直な人でした。
芳月楼に泊まっていた英国人は背の低い人で他に通訳と猟師がいたそうです。
オオカミは山の田(当時米作をしていた)の猪用の柵にはまったのを三人がかりで捕え、芳月楼に運んだそうですが、英国人は財布の紐が固く十円でも買ってくれなかったと聞いています。
オオカミの他鹿、猪等も求めていたらしく、旅館でそれらを剥製にしていたので、臭気が強く前北さんは苦情を言っていたそうです。
オオカミが捕まったと言ってもその当時は、この辺りにはオオカミはいると思っていたので、そんなに気にも留めなかった時代ですから、むしろ芳月楼に泊まっていた外人さんの方が珍しかった様な気がしました。
随分前の事で、急には思い出せませんが、気付いたことがあれば、お知らせします。」
「ご静養中のところを、突然参上しまして失礼しました。今後共よろしく。」と礼を述べ鷲家口を後にした。
オオカミを捕えた山の田(海抜五百メートル)は現在、杉、松の繁った全くの自然林で、道らしいものはなく、一度ここに足を踏み込むと、里に出るまでに一苦労も二苦労もする場所である。
毎年夏になるとこの地を尋ねて、よもやま話を聞かせて貰っているが、この「山の田」でオオカミを捕え、芳月楼に運んだ人の子孫も既に当地を離れ、主のいない住居のみ残り、往時の関係者として残っているのは「山の田」の所有者のみである。】

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七滝八壷から明神平への地図
 
「堰に飛び込んで来たオオカミを3人掛かりで撲殺し、その屍体をそのまま打ち棄ててあった」とするなら、「破損部が無い、完璧な頭骨標本」は不自然ですし、1905113日にアンダーソン一行が鷲家口に着いて、狼が持ち込まれたのが23日ですので、10日間のタイムログも不自然です。
地図をご覧になれば一目瞭然ですが、芳月楼とオオカミが飛び込んだ堰は目と鼻の距離なのです。

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鷲家口周辺地図・赤○にニホンオオカミ像
 
また入手後、時を置かずオオカミを解体すると、「厳冬にも関わらず腹は腐敗しかけていた」と云いますので、死後相当の日が経っていたと考えるべきです。
余りにも辻褄が合わない点が多いのです。
「鷲家口から十キロ離れた、山中の猪用の柵にはまった狼」であるならば、「完璧な頭骨標本」・「10日間のタイムログ」・「厳冬にも関わらず腹は腐敗しかけていた」事に関しても、全て説明が付くのです。

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旧四郷村周辺と明神平
 
小川村・高見村・四郷村が合併して昭和333月に東吉野村となったのですが、「鷲家口から十キロほど東の山村」は旧四郷村にあたり、岸田日出男著「日本狼物語」中にも四郷村周辺でのオオカミ体験事例が10例近く載っています。

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岸田日出男著「日本狼物語」
 
「オオカミが捕まったと言ってもその当時は、この辺りにはオオカミはいると思っていたので、そんなに気にも留めなかった時代ですから、むしろ芳月楼に泊まっていた外人さんの方が珍しかった様な気がしました。」の発言もうなずく事が出来るのです。
ちなみに、私の下に寄せられた体験情報2件(2016.10.07.吉田道昌「野の学舎」掲載)の現場「明神平」も、まさしく旧四郷村内となっています

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「野の学舎」管理人の吉田道昌氏

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オオカミ体験2例の明神平

野生からのメッセージ-1

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東飯能の駅で電車を待つ私の携帯が鳴ったのは、と或る日曜の朝で、三峯神社売店のおばちゃんに借金を返しに向かう途中の事だった。
電話の主は一緒にオオカミ探しをしているY氏からで、トレイルカメラのメンテナンス―電池とSDカードの交換―への誘いだった。
山歩きのリズムが合わない私に声が掛かるのは、それ相応の低山の場合が多いのだが、今回も行政的には飯能市の低山で、2年前からY氏は定点観測をしているとの事だった。
端的に云うなら“秩父野犬”撮影の山域とその後の目撃地点に4台のカメラが設置して有り、そのお手伝いに・・・の様子だった。
 
山の用意などしていなかったので少し躊躇したのだが、Y氏の車には沢山の山の道具が積まれており、それを使えば何とかなるのではと思い、高麗の駅で待ち合わせる事とした。
途中、コンビニで昼食を仕入れ、目指す峠に向かったのだが、人造湖にある登山口の喧騒ぶりとは打って変わり、オフロードのバイクが2台、アマチュア無線の車が1台有るだけで、峠の登山口はひっそりとしていた。
この林道が開通した20年位前、八王子のアマチュア無線家がオオカミの咆哮に驚き、予定を切り上げ逃げ帰った事件などもあった地点だが、そんな事を知ってか知らずか今日の無線家は、吹き抜ける心地よい風にうたた寝の最中だった。

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有間湖岸に在る棒の峰への登山口

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飯能市と秩父市を分ける有間峠
 
小一時間歩いた後の、うんざりするような最後の急登を終え、一息つこうと気持ちを緩めかけた私を無視し、Y氏は歴史ある峠に向かって歩を進めた。
すれ違う登山者も殆ど見当たらず、今日が7月の第3日曜日なのかと疑う気持ちにさえなったのだが、1台目のカメラには721日の文字が明示され、自分の記憶とは関係なく、正確に時が刻まれているのを改めて知らされる事となった。
 
縦走路上にある峠への、山道に設置されている2台のカメラに残った映像の殆どが登山者で、今回得られた野生動物は親子の牝鹿だけ・・・、登山者数に反比例した形の映像が残されていた。
今回の撮影期間は428日からの3ヶ月間だったが、「昨年12月末からの4ヶ月間には多くの動物がカードに記されており、人と動物との関係を改めて考えさせられるものだ!」と云うY氏の考えに私は同感の意を表した。

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江戸の昔から多くの人が通った仙元峠

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カメラに納まったテンの姿
 
4台全ての作業を終って帰途についた私たちは、東京都水道局が水源保護の為に環境整備した心地良いこの山域を、自分達で独占している様な気持ちになり、木陰でオオカミ談義を始める事となった。
様々な話をする中、1週間前、熊谷のデパートで行なわれたトークショー「オオカミ信仰と探求・三峯神社の神秘」に、飛び入り参加した2人の目撃証言者の1-埼玉県警山岳救助隊初代隊長茂木氏-に話が及ぶ事は必然で、茂木氏等が遭遇した地点は和名倉山頂に着く前か、着いた後かを確認すべく本人と話をしたい旨Y氏に申し入れた。   
現在私達はその山域中心に調査を進めているのだが、カメラを設置している調査地域と目撃地点のずれはどの位なのか、知る必要があると考えたからである。

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熊谷市の百貨店で行われたトークショウ
 
しかし帰って来た答えは「20年前から彼等との交流があり、全て承知の中でその山域での活動をしている」との事だった。
実際茂木氏は、昨年(2012年)NHKETV特集で放映され大きな話題を呼んだ【見狼記】にも登場しており、それもうなずける事でった。
それにしても4人の救助隊員が必死に藪漕ぎをして、視界の開けた場所に出てホッとした間も無くオオカミに遭遇し、テレビの画面上で“あれっつ、オオカミ居るな!”程度では無いと思うのだが・・・と問うと、Y氏から思いがけない答えが帰って来た。
 
「彼らは秩父山中の山人達と交流する中、ニホンオオカミが生きているのは当然の事実と考えていたんだよ。
その発信元は甲武信小屋主人の千島兼一さんで、20年以上前は当たり前の様に啼いていて、絶滅なんて全く信じていなかった。
それを聞いていた茂木さん達にしてみれば、目の前に出て来ても、“あれっつ、オオカミ居るな!”になる訳でしょ」。
「机上で常識的な意見しか言わない学識経験者と兼さんの云う事とどちらを採るかの話なんだけど」。

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埼玉県警山岳救助隊初代隊長茂木章氏
 
そして、Y氏の仲間で半年間山に篭ってオオカミ探しをした京都在住の岡田氏が、何故そこまで熱中出来たかに話が及び「岡田氏の友人が以前甲武信小屋に勤めていた際、千島兼一さんと同じ経験をしていてそれを岡田氏が聞いていたからだよ」・・・。
普段冗談ばっかり言っているその時のY氏の目は、私が取り込まれる程に真剣そのものだった。

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オオカミ探しが人生の全てだった頃の岡田直士さん

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甲武信ヶ岳(左)と三宝山
 
それにしても、Y氏の情報網、情報量は半端じゃ無い。
Y氏が良く云う「点が2ツあれば線になり、3ツあれば面になる。」そんな中での調査は本当に心強く感じるものだ。
 
秩父山中でオオカミ神社として名高い三峯神社の奥の院妙法ヶ岳に向かう最中、私は獣の咆哮を聴いた。
2013216日昼前の事だ。
一声だけだが、私の経験上間違いなく求めている動物“二ホンオオカミ”から私への伝言であったと断言できる咆哮だった。

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 ニホンオオカミからのメッセージが届いた地点

当然Y氏には伝えてあると思っていたのだが、初耳だったらしく一瞬不機嫌な表情をしたが、思い直したのか詳細を求めて来た。
2年前の交通事故の後遺症で思うような山行が叶わない私は、出来る範囲の中で、山との触れ合いを求めて居て、その一つが三峯神社山域での散策、情報収集であった。
神社の売店のおばちゃんとは顔馴染みとなり、前述の様に“THUKE”で買い物が出来る様になっていた。
その情報は昨年12月中旬散策に行った折、立ち寄った売店で得た情報だった。
基となった“事件”が起きたのは、12月初旬の事で、若い男性が奥の院に行き、帰り道に獣の咆哮を聴いたと売店のおばちゃんに話した事からだった。

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基となった“事件”の主・吉川裕樹さん
 
その話はY氏の友人にも伝わる事となり、廻りまわって2013113日の朝日新聞の記事に繋がるのだが、私は私で妙法ヶ岳山頂にカメラを設置し、216日の咆哮に繋がる訳だ。
余談だが、私からの情報で山友達も7月に入ってから妙法ヶ岳登山に行く事となり、山頂で耳を澄ましたが成果を得る事は叶わなかった。
妙法ヶ岳登山で必ず咆哮が聴けるのだったら、とうの昔に生存説の証明が出来ている・・・と、Y氏とのオオカミ談義に花が咲く事となったのでもある。

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2013年1月13日(日)朝日新聞の記事
 
Y氏も埼玉県下で著明な滝である不動滝で、10数年前の211日咆哮を聴いたと云うので、私の聴いた216日と絡めて考えて見ようと思っていたら、吃驚する様な耳新しい事例を話し出した。

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氷結した大徐ヶ沢の不動滝
 
昨年1227日の夜19時頃、運転している車を遮るように車道に現れた動物が、秩父野犬そっくりだったと、Y氏の知り合いが伝えに来た・・・と、云うのである。
その3年程前の12月には、横浜の大学生2人も同様な体験をし、その現場も今回の地点からの延長線上であるし、若しかしたらオオカミから私達へのメッセージでは無いのか・・・。
そんな内容の話だったのだ。

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Y氏知り合いの遭遇現場

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横浜の大学生2人の遭遇現場
 
Y氏も関係する三峯神社の周辺での事例である爲、出来過ぎた話と思わないでも無かったが、何より自分が2月に咆哮を耳にしていて、このまま手をこまねいていて、何もしない訳にもいかないと思い、今冬の集中的な捜索を提案してみた。
Y氏もすぐさま同調し、紅葉シーズンが終わりを告げる11月終盤に、収録装置も含め全てのカメラを、妙法ヶ岳を囲む様な配置で設置する事とした。

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妙法ヶ岳のカメラに映った、お供えを求めに来たリス(→)
 
3年前の3月、私達の会は三峯神社を目指し表参道を歩いていた。
道半ばに達した時、数メートル先を2頭のイヌ科動物が走り去るのを目撃し、それぞれの識見をY氏の求めに応じ話した。
Y氏は目撃地点にカメラの設置をし、運良く2頭のイヌ科動物を捉える事に成功したのだが、その動物達は無線機を付けた猟犬だった。
今冬の妙法ヶ岳周辺に於ける集中捜索も、若しかして徒労に終るかも知れない。
しかし、その積み重ねの末に「二ホンオオカミ生存の証明」が為される様に思えてならない。

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カメラに映った2頭のイヌ
 
 
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現在、公私ともに多忙でして、当欄に載せるべく文面作成もままならず、かと言って出来るだけ多くの人に私達の活動を知って貰いたく思い、窮余の一策として過去に発表した文面を掲載いたしました。         
「野生からのメッセージ」は、5年前某山岳会に友人の名前で投稿した文面です。

野生からのメッセージ/三峯山発-1

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ハンドルを握っているY氏は苛立っていた。
三峯神社に向かう車の列にハマってしまい、身動きが取れないのである。
本来ならば数十秒で駐車場に入れる距離なのに、1時間経っても渋滞は変わる事が無かった。
紅葉にはまだ早い10月中旬の日曜日、混雑とは無縁の筈なのに、嘱託の博物館員であるY氏にも見当が付かないらしい。
ついでと云うか合理的と云うか、山中に設置してあるカメラのメンテナンスを終え、神社からの呼び出しに応えようと向かったのだが、こんな状態では帰りの正丸峠をすんなり通る事が出来なくなるのは確実だった。

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渋滞時の三峯観光道路
 
三峯講の衰退で数年前に閉鎖されたロープウェイが示す様に、三峯山頂下の限られたスペースに設けられた駐車場は、満杯になる事等殆ど無かったし、混雑とは無縁の季節で有った筈でもあった。
数年前パワースポットとして注目を集めた時、1年分の御神水を1週間で売り切って大いに賑わった際も、こんな渋滞は見られなかったとY氏は云うが、懇意にしている売店のおばちゃんに、半年前の“THUKE” を払いに行くと、その謎はすぐ解ける事となった。

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神社境内の案内図

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2013・05・13・20/三峯講の奥宮参拝
 
数ヶ月前、人気お笑いグループの誰かが三峯神社を宣伝したか何かで、たちまちこんな流れが起きたのだそうだ。
事ある毎に三峯山近辺を訪れている私としては大変迷惑な話だが、“熱し易く冷め易い”の例え通り、この熱気もいずれ冷めるのだろうが、冷え切ってしまい人並みが絶えてしまうのも、寂しさがつのる様で何とも言い難い
まあ、事程然様に人間と云う動物は、都合の良い事ばかり云って生きて居るもので、その典型が私と云う事になるのかも知れない。
 
現在三峯山博物館に常設展示されている二ホンオオカミ関連の標本は、他の博物館に類を見ない程豊富なのだが、1996年にY氏が撮影した二ホンオオカミに酷似した動物-通称秩父野犬-の写真も展示してある。
【タイプ標本と比べた時相違点が見つからない!】と、されるのであるから、二ホンオオカミなのだろうが、山中で何時か遭遇した時の為に脳裏に深く刻んで置こうと、神社で打ち合わせ中のY氏の不在時間に博物館を訪れたが、生憎休館中であった。
普段なら1日十人に満たない来館者数と聞いているが、こんな日に休館とはどういう事なのか理解に苦しむ処だが、部外者の私には無関係以外の何物でも無い。

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博物館内の秩父野犬展示風景

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展示物右から234・番目がニホンオオカミ
 
館の前でY氏を待っている間も、幾人もの人が失望の念を浮かべ帰って行った。
あきらめきれずに、ガラス越しに館内を見入ってる人もいるのだが、神社に来たというより、博物館が目的で来山したのだろう・・・そんな事を考えているうちにY氏が戻って来ると、それを見つけた幾人かの人がY氏に問いかけて来た。
多くのメディアに登場しているせいか顔が知れ渡っていて、Y氏に近い存在の私には不思議な感じでもある。

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秩父宮記念三峯山博物館
 
40年以上に渡り二ホンオオカミ研究を続けている氏ならではの事なのだろう。
氏の周りに出来た一団から離れた私は、茶店の横から奥秩父の連山を眺めていた。
茶店から続く尾根筋を辿ると、霧藻ヶ峰、白岩山、雲取山、飛龍山そして国境稜線に連なる山々が青空の下に望める。
視界の中の山の全ては、私の唯一の趣味である山登りの、記憶の一齣に綴られてもいるのだ。

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三ツ鳥居から白岩山、雲取山を望む
 
国境稜線から眼を転じると、神社の前に2.036mの頂を持つ巨大な山が存在感を示しているが、19906月に埼玉県警山岳救助隊の四人のパーティが、頂に続く尾根筋で二ホンオオカミに遭遇している。
数年後の11月に三峯神社で行なわれた二ホンオオカミフォーラムを執り行ったY氏は、彼らに体験談を発表するよう執拗に迫ったと言うが、その願いは聞き入れられなかったと聞く。
現役の警察官として、人心を惑わす様な発言は差し控えるべき、と、上からブレーキが懸けられていたのかも知れない。

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奥宮からの和名倉山/赤丸が遭遇地点
 
退官後ブレーキが外れた今、当時の隊長がメディアで目撃談を語っているが、せめて秩父野犬撮影の頃だったら、もっと大きなインパクトを与えていたに違いない。
大きな壁が立ち塞がって居る時、その壁を乗り越えて発言する姿こそ、聞く者に感動を与えると思うのだ。
ちなみに、当会の大先輩であるA氏もそのフォーラムに参加している。
氏としては“お犬信迎”研究の一環として参加したのだが、現場を目の当たりにした山岳救助隊の話を、リアルタイム同然に聞いていたら・・・と、興味が湧く処でもある。

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見狼記の画面から/左が初代隊長

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Y氏撮影の秩父野犬
 
そんな事とは無関係に山登りを楽しんでいた私だったが、同じ世界に引きずり込まれたのは、時空間の違いこそ有るが、山岳救助隊の人達が遭遇したのと同じ山だった。
17年もの歳月が流れているので、3代、いや4代、もしかしたら5世代を越えた個体だったのかも知れない。
それとも全く血の交流が無い個体だったのだろうか。
知る事は出来ないと判っていても、ニホンオオカミの今後や個体数にも係わるのだから、その辺の事が気になるのは仕方無いことだ。

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和名倉山山頂(2.036m)
 
多くの謎を秘めた動物であるニホンオオカミは、毛皮での識別・いわゆる外部形態での識別が確立されて居らない訳で、当然、基本的な行動形態も不明のままとなっている。
なぜこれだけの混乱が起きたのか?
「どんな動物を二ホンオオカミと呼ぶのか?」であるはずなのに、現実は逆転して「二ホンオオカミとはどんな動物か?」と云う問題になっている訳で、
京都大学田隅助教授が云う所の【初めに名称が作られてしまい、それを定義する努力が後から行なわれている】からなのだそうだ。
「うそか本当か、不確かなものを否定する前に、まずは真摯に向き合う」そうした考えの中、現在行っているフィールドワークを続けるべきと思う。

野生からのメッセージ/三峯山発-2

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200710月6日。
2.036mの頂を目指し、山道への取り付きである、腐りかけた板が無造作に置かれた、危なっかしい釣り橋を私は渡っていた。
どのガイドブックにも廃道と記されている道だが、何度も通って何十箇所も道を失い迷っている私には、この山道が身体の中に刻み込まれている。
他人の倍近くの時間を費やし最初の急登を終え、肩を休め来た道を辿ると、紅葉を始めた木の葉越しに、天空の里を覗くことが出来た。
家々の煙突から煙が立ち昇るにはまだ早く、もう一汗をかくべくザックに腕を通し、重い荷と共に今日のテン場と決めていた1.100mの峠に着いたのは、時計の針が1600の文字を刻む頃だった。

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腐りかけた板の危なっかしい釣り橋

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天空の里栃本耕地
 
翌日は、知り尽くした頂までの道を1.000m程上がるだけだったので、7:00出発と、遅い一日の始まりだった。
1時間のトラバースで身体が眼を覚ました頃、ガレ場交じりの藪漕ぎ付きの急登が有り、ホッと一息付いて再び藪漕ぎ付きのトラバース。
藪漕ぎにうんざりする頃急に視界が開け、山稼ぎをする人達が“ヒルメシ尾根”と付けた名前がピッたり嵌る、そんな場所に着いたのが9:40分だった。

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先の大震災で崩れた大きな岩場
 
荒川源流域の笹原は鹿に食い尽くされた、何処にでも有る山の風景だが、ここに来るまでの山道は、刈り払いがされていなかったその当時、藪また藪の連続で、鹿の食害とは程遠い笹原が広がっていた。
視界が開けたヒルメシ尾根上部のほんの少しのスペース以外は、パンダが幾らでも棲めそうに笹が密生していたが、ほんの少しだけ獣達が空間を造り、空間が笹薮の奥まで続く、いわゆる獣道だった。

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現在は枯れ笹地帯となったヒルメシ尾根
 
いつもは全く気にも留めない空間だったが、その日に限って何かの気配が濃く感じられ、早々に通り過ぎようと歩を急いだ。
悪い予感が的中・・・と感じたのと、獣が私の後ろに迫って来る気配と、恐怖感と、神に縋ろうとする弱い気持ち・・・それらが複雑に交差した中、目の前に続く信頼のおけない細い山道を、一目散に歩いていた。
振り向いたら、後ろの獣に食い殺されるかも知れない・・・そんな恐怖の中を・・・だった。

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こんな感じの笹原だった
 
小一時間近く歩き、森林伐採で建てた1升瓶の散乱する作業場跡の広場に着いた。
何事も起きなかった安堵感でホッと一息ついて、時計を見ると針は10:50分を示していた。
いつもならもう少し歩を刻み、甲州からのルートが合流する、その上の平地にテントを張るのだが、水場がある事をこれ幸いにだったのか、1時間前の気配の主が何物で有ったかを確かめたい気持ちが勝ったのか、作業場跡の広場にキャンプを決め込んでしまった。
若しかしたら、恐怖感を抱き続け歩いた1時間が、心と体をズタズタに引き裂いたのかも知れない。

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1升瓶の散乱する作業場跡
 
頂まで往復しても、その後、来た道を荒川源流の栃本耕地に有るバス停まで下っても、時間的余裕は充分有ったのだが、心の余裕を持つことは出来ない状態だった。
20年前、奥秩父林道でY氏が初めて毛糞を拾った時も、「後方から押し寄せる獣の気配で身体が固まり、気配が去るまで後を振り向く事が出来なかった!」と云っていたが、私もY氏のその時の心情が良く理解できる。
ただ、氏はオオカミ探しをしている最中の事だが、私の場合純粋に山を楽しんでいる時の事で、その辺は心の持ち方に大きな違いが有ると思えるのだ。


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羚羊が食い散らかされた周辺に在った毛糞

結果として作業場跡のキャンプは正解だった。
早めの夕食を済ませ、何時でも寝れる準備をして寝袋に身体を包んだ1800頃。
まさしく気配を感じたあの現場方面から、一声「ウオーン」とオオカミの咆哮が聴こえてきたのだ。
一目散に歩く中、後の気配を確認しようとする誘惑に駆られもしたが、今となっては誘惑に負けないで良かった。
咆哮の主の姿を見たら、腰が抜けて動く事が出来なかった筈だから。

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作業場跡のシンボルとなった鋸
 
後日談では有るが、私が気配を感じた現場は大除ヶ沢源頭に当たり、沢が本流の荒川に合流する辺りに、不動滝見物の為か釣り橋が架かっている。
1998211日、その釣り橋の近くで、Y氏もオオカミの咆哮を聞いている。
橋を渡ってすぐ、背後から、サイレンの音にも、牛が鳴く音にも似た感じで聴こえて来たので、首を傾げながら聴いていたが、すぐ「ウオーン」と変わったので、同行者の浦和市在住の獣医に時間を尋ねたら1100丁度だったと云う。
1200になると関所跡の有る耕地では、サイレンを鳴らすのを知った上での時間確認だったそうだ。

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無雪期の大徐ヶ沢不動滝
 
下山後、三峯博物館で数年前に行われたオオカミ展のポスターが駅前に貼られていたのを見付け、神社に昨日の事を話したら疑念が晴れるのでは・・・と思い、電話の中で紹介されたのが博物館のY氏だった。
幸運な事に1週間経つか経たないかの間に幾度となく話を聞く機会が得られ、そんな中で、全く持って居なかった二ホンオオカミの知識を、ほんの少しだったが得る事となった。

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平成14年開催のニホンオオカミ展ポスター
 
翌週、Y氏が所有する自動撮影カメラを現場まで担ぎ上げ、咆哮の主の姿を撮影しようと試みての下山中、鹿の悲鳴と重なるイヌ科動物の叫び声を聴いたのは、更なる確認の積み重ねで、此れを契機としてピークハント的登山以外の楽しみ方を身に付けて行く事となった。
Y氏のオオカミ探しに同行する度新しい知識を積み重ね、氏の下に集まる生存に関する情報を共有すればする程、二ホンオオカミの生存が確信めいた物になって行く。

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2016年夏、作業場跡のキャンプ地で
 
最初の出会いからかれこれ6年を経ているのであるが、耳にタコが出来るほど聞かされ続けている『行政が定めた絶滅の定義は、過去50年間標本等の有力な資料が得られない事で、
絶滅と存在しない事は同義語では無い。
自らの体験を信ぜずして、他人の言動を信じる事は、自分自身の否定。』は、私の身体にも沁み込んでいる。
そして私は、6年前に加え昨年の2月にも、信じるべき体験-野生からのメッセージ-を聴いているのだ。

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ここ、神社奥宮に向かう途中で咆哮を

野生からのメッセージ/奥秩父発-3-1

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2013216日午前1100
妙法ヶ岳頂手前に有る結界に一歩足を踏み入れた私の耳に、懐かしい咆哮が聴こえて来た。
目の前に聳える2.036mの頂を抱く山で、キャンプをしていた時聴こえた咆哮そのままだったが、違っていたのは心への響き方だった。
数日前に降った雪が踝を埋め、立春を10日程過ぎたとは云え『春は名のみの風の寒さ・・・』で、一年で一番寒い時期だったが、驚くほど冷静に獣の咆哮を聴いていた。
と、云うより待ちに待った私への呼び掛けだった。

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カメラを背に奥・妙法ヶ岳に向かう

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妙法ヶ岳へ向かう行者の一行
 
6年半前の秋、1.830mにある作業場跡のテントの中では、数時間前から抱いていた恐怖感が尾を引いて居て、咆哮を耳にした瞬間が恐怖の絶頂だったのだ。
昨年128日、妙法ヶ岳山頂に祀られた祠にお握りをお供えした登山者が、下山途中獣の咆哮を聴き、信心深い登山者は“お供えに対する御眷属のお礼の咆哮”と考え、売店のおばちゃんにその様を逐一話したと云う。
年が明け初詣の帰りに売店に寄った際、懇意にしているおばちゃんがその件を一部始終教えてくれたのだが、生憎登山の準備をしていなかった私は、トレイルカメラの用意を終えたこの日に咆哮の主の姿を得んと、準備万端整えて来山したのだった。

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1.830mにある作業場跡のテント場
 
恐怖心と云う言葉は爪の欠片ほども無く、用意したカメラに6年間の苦労が詰まった映像が得られる、咆哮の主の動く映像を、絶滅論者の人達に提示できる!そんな喜びの気持ちで一杯だった。
二ホンオオカミの何たるかを、生存に関する多くの情報を教えてくれたY氏の喜ぶ顔が眼に浮かびもしたのだ。
奥の院に来る参拝者に焦点を合わせられる一本の樹にカメラを据えると、頂を囲む山々に眼をやった。
1.329mからの展望は、国境を刻む山々全てとは行かないが、それ相応の展望が得られる。
手を伸ばせば届きそうな1.350mのピーク方面から、先ほどの咆哮は聴こえて来た様に感じたが、その先には東京都最高峰への登山道が伸びている。
若しかしたらあの咆哮を聴いた登山者が居るのでは無いか・・・とも思ったが、山頂直下の小屋まで、最低6時間はかかるのだから、厳冬期の昼頃に登山口の近くを歩いているとはとても考え難い。
と云う事は私だけに発したメッセージ、咆哮だったのだろう。

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妙法ヶ岳から1.350mのピーク方面を

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奥宮のお犬像の前に御眷属が現れるか・・・だったが
 
20106月から、Y氏はインターネット上のブログで情報発信をしている。
「二ホンオオカミ・井戸端会議」で検索するとすぐ辿り着けるのだが、多くが生存に関する発信とニホンオオカミに関するetcである。
その発信を見たメディアが、氏にメディアからの発信を求め、そのコメントを受けた情報所持者がY氏に生存情報を提供する。
それを受けた氏が、ブログで発信する。
そんな繰り返しの中で情報が氏に集中し、データーが蓄積する事になる。
フィールドに行く車中で何時も聞かされる話だが、「1つの事例では点だが、2つになれば線になり、3つになれば三角形の面になる。事例を多く抱える事になれば、面が小さくなりその精度は高くなる。」
正しく的を得た方法だった。

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生存情報が最も集中している三峯山周辺遠望
 
ブログ発信をする前からも、Y氏は多くの生存に関する情報を持っていたが、山域が同じで有っても、時系列での大きな違いが見られていた。
しかしメディアに出る機会が増え、それぞれのメディアの読者、リスナーから情報が集まる事に依り、時系列でのズレが小さくなって、点、線、面、から立体に近い状態となり、今回の奥秩父山域での集中的捜索に繋がったのだ。

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雪中の作業はフィールドサインが求められる
 
ブログ内で奥秩父山中に関しての生存に関する情報を綴って見ると(2013年現在)、以下の8件が記されている。
19994月、奥多摩前衛峰での登山者の目撃例。
2007118日、大学生2名の目撃例。
20101020日、女子大生達の咆哮情報。
201011月末、登山者による2.077m峰での咆哮と下山時の目撃例。
同氏からの翌年811日の咆哮情報は2.360mの峠での仮眠中の出来事だった。
20126月には秩父、飯能市境の山中でバイク走行中の御夫婦が遭遇。
同年1227日、Y氏の友人が目撃した例は2007年に2名の大学生の例と全く同じ状況で有った。
これ以外にもY氏自身の体験、私の体験、他を含めると、倍近くの生存情報が集まっているのだろう。
201212月から翌年2月に至る3ヶ月間は、特筆ものと云える位の集中度で、持っている全てを傾け捜索するに値する、と、Y氏も私も考え、行動を起こしたのだ。

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 2014年のフォーラムレジュメからの抜粋

ところで、ニホンオオカミ探求の先駆者の書物にも、三峯山周辺での生存に関する情報が掲載されている・・・と云う。
今から50年以上前の書物で、その間他にも探求者は居たであろうに、表立った表現は為されなかった。
Y氏もそうした探求者の一人に過ぎなかった訳で、何故Y氏がクローズアップされたのだろうか。

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ニホンオオカミ探求の先駆者による書物
 
確かに人一倍と云える程フィールドワークをしているし、科学的根拠に基ずく標本調査、文献収集もしている。
だが、そうした人は過去にも存在したと思うのだ。
Y氏に関しては私が思うだけでなく多くの人達が、「秩父野犬」の存在を取り上げるに違いない。

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19961014・撮影の秩父野犬 

ニホンオオカミを求めているY氏の前に現れて、一度見失ったにも関わらず、通りがかりの第三者が教えてくれて、写真撮影に成功する・・・。
何か、神がかっていると云うか、彼らから求められていると云うか。
Y氏の友人でメディア関係の人が、「Yさんは一度宝くじに当たったのだから、(秩父野犬の写真撮影)もう二度と宝くじは買わない方が良い。」と云ったそうだ。
考えて見ると、幸運が一人に集中するのも考え難い訳で、本当の宝くじに当たったとしたら、次は車に当たる運命だろうから、メディア関係の人同様私もそう思った。

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Y氏の友人でメディア関係の人
 
今までニホンオオカミを表現するのに、スケッチ・絵に依る表現か、言葉での表現に限られていたのが、秩父野犬が公になって、写真での表現が可能になったのだ。
肯定者・否定者に関わらず、秩父野犬の写真が物差しになって、自分が遭遇した動物との比較が出来るのだ。
Y氏の下には「秩父野犬を見た」とする人も、「祖母野犬を見た」とする人も、どちらも居るのだそうだ。
メディアでの発信を積極的に行っているY氏の考え方と、パソコンを始めとする電子機器の発達が相まって、より密度の濃い情報となっているに違いない。

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19961014・撮影の秩父野犬

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秩父野犬にニホンオオカミの全身骨格を透写

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九州で撮影された祖母野犬

野生からのメッセージ/奥秩父発-3-2

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200710月、2.036mの頂を目指して登山中だった私を、別次元に誘った出来事から6年余りの年月が経っているが、最初に使用した探知カメラは、家庭用のビデオカメラを改造した物だった。

撮影時間は短く、全体的に大きく、壊れやすく、電源はバイクのバッテリーを使用した為非常に重かった。

しかも、一冬山中に篭り捜索した際は、バッテリー充電の為に発電機まで担ぎ上げたそうだ。

しかしそれ以前は、ポイントにホームビデオを据え、テープが終了する1時間だけの撮影だったので、八木氏にしてみたら2ヶ月間も山中で撮影できる、赤外線感知自動カメラは、3台で100万円の投資が必要であっても、夢の様なカメラだったと云う。

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家庭用のビデオカメラを改造し大きく重い器材

 私はそれを標高1.750mまで背負い上げ、2ヶ月間動物観察したのだが、最後のショットが熊のアップで、カメラに印された歯型と共に電気ケーブルが切断されていた。

夜間発する赤外線が、歯形の主の気に障ったらしかった。

その次にY氏が求めた動物観察用カメラ(トレイルカメラ)は、単1アルカリ乾電池6本を使用する物で、テープでは無くSDカードだったので、全てに於いて優れた状態で使用する事が出来た。私も同じカメラを数台購入し、設置場所を教えてもらいニホンオオカミの姿を追い求めたが、山から持ち帰ったSDカードの解析は想像以上に大変であった。

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1アルカリ乾電池6本を使用したカメラ

しかし、撮れた映像は刺激的で、求める動物こそ得られなかったものの、野生の世界に引き込まれていく自分がそこに居ることが良く判った。

前機種同様、夜間の撮影は赤外線での撮影だった為、幾度も幾度も熊の攻撃を受けたが、持ち帰っては修理をして使用していた。

防水性も格段に勝り、前機種の1台の値段で10台購入する事が出来たのだが、1回冬を越えたとき、液晶部分が非常に弱く、標高2.000mの屋外で使用する精密機械は、所謂消耗品で有ることが分かって来た。

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冬を越えると、液晶部分が非常に弱かった

ただ、SDカードに納まった動物たちは、動物園での表情と全く違っていて当然だったが、TVで観る姿とも違っていて、ありのままの姿が私の目の中にあった。

奥秩父山中に生息する哺乳動物の、全ての姿を映像に捉えていたのだが、求める動物は兎も角、タヌキを除くイヌ科動物のショット数がとても少ない事に疑問を抱き出した頃、空白のショットが少なからず有る事にも気付いて、Y氏に問い質した。

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丸太橋を渡る熊

 動物を感知して実際の撮影が始まるまでの時間をトリガースピードと云うのだそうだが、使っているカメラはこの時間のズレが2秒有るそうで、このタイムログが問題で求める動物が得られないのでは・・・との答えが帰って来た。

カメラを設置する箇所は、猟師が“たつま”と呼ぶ獣達の峠状の通り道が多いが、1回だけ後姿の一部が映った登山者が居たことを思い出した。

100mを10秒で走る人間なら、2秒では20m移動する勘定になる。

求める動物を始め、キツネ等のイヌ科動物が、何故カメラに納まらないのか分かり掛けて来たので、それならばと、カメラの前に留め置く方法も、手を変え品を変え試みたが、どれも旨く運ぶことは無かった。

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カメラの前に骨をブラ下げて

 壊れたカメラの補充をするべく別の機種を探したのだが、最優先に考えたのはトリガースピードの短縮で、何とか意に適ったカメラを見つけた頃、前のカメラの寿命が切れはじめ、それと共にY氏の懐具合が悪くなり出していた。

私とて決して懐が暖かい訳では無いのだが、以前1.750mの地点で、Y氏所有のカメラを壊したまま返した事が胸中に残っていて、出きるだけ協力することを心中深く誓っていた。

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カメラを手に、ザックを背に登る

 今度の機種のトリガースピードは1秒で、1秒の短縮を果たしたのだが、SDカードの解析を2回程重ねた半年後、Y氏にNHKから出演依頼が飛び込んで来た。

放映後大きな反響を呼んだ「見狼記」と言う番組だが、半年後に放映された番組内で取り上げられたカメラメーカーから、思わぬ吉報が届く事になった。

メーカーからカメラ3台の贈与を受け、活動に弾みが付くと私は思ったのであるが、Y氏の喜びは思いの他小さく、困惑の表情さえ浮かべていた。

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見狼記の撮影現場・重いカメラを2000mの山まで

 Y氏はこのカメラの致命的な欠点を見つけていたのだ。

確かにトリガースピードは1秒になったが、静止画優先で、動く映像はその後に収録だった為、欲しい映像の入手は叶わないのだと言う。

一度静止画の撮影に成功している、Y氏ならではの、贅沢な悩みだと私は思ったが、勿論口に出すことは出来なかった。

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見狼記で取り上げられたカメラ
 
「見狼記」の主たるロケ地は、201011月、登山者が咆哮を耳にし、姿を目撃した、荒川源流域の2.077m峰だったが、私が3年前にニホンオオカミを意識した山とも彼等の足なら至近距離で、Y氏は他にも同じ山域の情報を多く抱えていた為、ロケ地としてNHKに推した様子だった。

画面の中で、岩に手を沿え連なる山々を見渡していたY氏の姿に、「今、この時、あの山の何処かで無数の命が活動している筈だ。だが、人の眼や耳は貧しくて、そうした活動のほんの僅かしか捉えられない。オオカミは本当にもう何処にも居ないのだろうか。これだけの自然が有ると言うのに。」と、ナレーターが語っていた。

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3年前にニホンオオカミを意識した山々

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岩に手を沿え連なる山々を見渡していたY氏

この部分が見狼記の山場だったのだろうが、私は少し違った思いを抱いていた。

連なる山々の多くは当会の行動山域であったし、私自身もその頂の多くに足跡を刻んでいた。

画面に登場した3人の遭遇地点、その全てに足を踏み入れたことが有る私達は、少しのタイミング、時間のズレで、若しかしたら遭遇者が当会員で有ったかも知れないと思った。

60余年を経た、伝統ある我がO山岳会の先輩諸氏の誰かも、きっとオオカミ体験をしているのだろうが、伝統あるが故に口外出来なかった・・・それだけの事だったのでは、と、思いを巡らせた。

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オオカミを呼ぶべく遠吠えをするY氏

奥秩父の春に終活を思う

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秩父の中双里集落前の広場に3台、警察の車が停まっていたのは3月下旬の事でした。
カメラメンテナンスの帰りだったので然程気に留める事も無かったのですが、4日後も同様の状態でした。
広場の前、相原沢出合いから山に入る道が始まるのですが、誰かが遭難でもしたのかな・・・と思って中津川集落の知人に聞くと案の定。
私と同年代で単独行の神奈川県の人が行方不明との事。

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秩父槍ヶ岳への登山口、相原沢出合い
 
遭難後1週間は警察の捜索隊が入りますが、それ以後は原則として家族で探す事になります。
家族で探すと言っても行方不明地点は岩場が続きますので、今回の事例はその道のプロにお願いする以外は有りません。
山岳会に入っていれば、仲間が山に入って探す事になるのでしょうが、山登りを始めて3年の単独行者らしいので、中々厳しい訳です。
 
奥秩父で遭難となると、その道のプロは両神山・白井差の山中さんとなりますが、この度もそうなりました。
45年前の和名倉山での遭難者捜索時、将監小屋でお話をしたのですが、闇雲に山を歩くのではなく、歩きながら「カラス」の集団を探すのだそうです。
そう言えば早朝山に向かう際、道端に動物の死体を見かける事が有りますが、必ずと云って良い程カラスが肉を突いています。
茶化すつもりは全くありませんが、遭難者が見つからなければ「鳥葬」「獣葬」となるのです。

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白井差・山中さん熟知の両神山(遠方は浅間山)

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車が相手となるとマムシさえ・・・
 
422日(日)、晴れ間を狙って中津川奥山の杣道のカメラメンテナンスに向かいました。
1.550mの設置現場まで3時間を要しましたが、カメラ6台を背に標高差800mの急登で老体には堪えました。
行方不明者の目的地だった秩父槍ヶ岳(1.341m)とは深い谷を挟んで手の届く距離でしたので、ナイフリッジの尾根筋では何処かに・・・?とも思い、気を配りながらの歩行でしたが、そうした心使いは徒労に終わりました。

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膝まで埋もれる落ち葉を越えて

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こんな悪路を踏み外したのでしょうか

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こうした鎖場から、若しかしたら・・・と

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朝の光を浴びた秩父槍ヶ岳
 
当日、下界では30度近い気温を記録していて、1.500mの作業現場でも日陰を探しての休憩でした。
が、そんな時に限ってやけにヘリコプターが煩く感じられたのですが、それらしい物は視界にはいらず、後で聞くとドローンを飛ばしての捜索みたいでした。
3月下旬の遭難時なら樹々も芽吹いてなかったので効果的だったのでしょうが、茶から緑の世界に一変した4月下旬では、無用の長物だったのかも知れません。
ただ、そうせざるを得ない家族の身になれば、藁にも縋る思いだったのでしょう。

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タラの芽もこの陽気では
 
今年の山の春は、例年より2週間は早く、422日現在で山の花々は満開の状態で、通常ならヤシオツツジは5月の連休が最盛期ですが、1.500m地点でも散り始めていました。
当然秩父市内の羊山公園のサクラソウも見頃で、1500頃市内の道路は目茶苦茶の状態でした。
私が通い出した頃の秩父の春は、白装束の巡礼者達が目を奪ったのですが、国道を走っているとそんな面影は微塵も感じられない今日この頃です。

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標高1.500m地点のヤシオツツジ

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山道で見つけたヤマブキの花
 
渋滞の車中でイライラするよりは・・・と思い、久し振りに内田家(オオカミの毛皮の所有者だった)に寄ってみましたら、88歳を迎えた内田さんは、夕食前のくつろいだ時間を過ごしていました。
お互いの顔の皴と体力の衰えは以前とは程遠く、「23年前に初めてお目にかかった時から私との年齢差20歳は縮まる事が無く・・・」そんな話を交えて昔話をしていたのですが、所謂「終活」に話が及ぶと身を乗り出して来ました。
ご自分のお墓を含む全てが一段落した様子の中で、私の話になるのは必然的です。

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出会った頃の内田さんとオオカミの毛皮
 
「見狼記」の中で「私が死んだら土葬で埋めて貰い、それをオオカミが食べて欲しい」旨の発言をしましたが、その気持ちは今も変わりません。
しかしそれは、家族の協力無しでは不可能ですし、家族は私の希望を受け入れてくれません。
去る218日、13年間生活を共にした愛犬を失くし、仏壇の横に愛犬5頭の骨壺が並んでいるのですが、土葬が無理ならせめてイヌ達と一緒に埋葬して貰いたいと考えています。

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一番元気が良かった頃の四国犬ミカン

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仏壇の横に5頭の骨壺が
 
妻は樹木葬を念頭に適地を探していますが、中々思う様に事が運ばないのが世の常です。
最近妻は、「私と一緒の樹木葬+イヌ達も一緒」・・・に渋々同意してくれましたが、その受け入れ先が無いのです。
そんな訳でオオカミ探しに同行する会員の方に、「全部とは云わないから私とイヌ達の骨の一部を苗場山頂に・・・」と話しましたら、嫌とは云いませんでしたので、少し希望が湧いてきました。

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車の鍵に5頭の骨を
 
しかしよくよく考えると、山中で遭難し行方不明者となれば、私が考えている究極の終活となり得るのです。
ただしそれは、多くの人達に迷惑が及ぶ事ですし、迷惑をかける事は私の本意では有りません。
生きる事も難事ですが、思い通りに死を迎える事も難しい人間の世界です。

野生からのメッセージ/奥多摩発-4-1

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NHK-Eテレビ「見狼記」の主たるロケ地だった荒川源流域2.077m峰周辺は、私が知らなかっただけで、生存に関する情報が予想以上に積み重ねられていた。
ただそれ以上に、妙法ヶ岳周辺での情報は中身が濃かったし、長期間探索を続けていた地域で、私自身が体験した場所でもある爲、そこに対すこに対する思いは強かった。
そして、Y氏も同じ考えだった。
集中的な捜索の為、新たに入手した30台のカメラを含め、都合35台のトレイルカメラの設置が終り、ホッと一息付いていた10月初め。
朝日新聞の夕刊に早稲田大学探検部のオオカミ探索の記事が掲載されると、Y氏の下に新たな目撃情報が届けられた。

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2013年10月4日朝日新聞夕刊の記事
 
現場は金峰山登山口で、数年前の出来事らしかったが、新しくカメラを購入し、そこにカメラを設置しようかどうか迷っているところに、長野県中央部から次なる目撃情報が飛び込んできた。
設置が済んだ35台だけでも手一杯だったが、届けられた情報を無にすべきでないと考えているY氏は、金峰山登山口だけでも設置したいと、私に協力を求めた。
私達が主力として使っているカメラは、単3アルカリ乾電池8本使用で半年以上稼動でき、大きさ、重さ、性能も申し分無く、価格も旧機2台分で5台購入出来た優れ物だった。

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金峰山登山口の目撃現場で

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3電池8本使用で半年以上稼動できるカメラ
 
志は決して小さいものでは無かったが、求められるままカメラを5台提供し、購入したカメラが25台に達した私としては、流石に酷しい処でもあった。
しかし56年前Y氏から借用した高価な動体感知カメラを、使用不可能にしたのも私自身の為せる業だったし、オオカミ探求の気持ちはY氏に劣る物でも無い。
何とか協力できないかと考えていた処、12月に入って間も無く、金峰山登山口にカメラを3台設置して来たY氏は、又しても驚くべき事を私に話し出した。

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使用不可能にしたカメラと同型のもの
 
カメラの設置場所近くの民家に、頭骨標本が在り十数年前調査に来た事があるので、近辺の地理は熟知し、オオカミをご眷属とする有名な神社があると言うのだ。
そんな事はどうでも良いことだと言わんばかりの私を焦らすが如く、目撃者の登山者は、それとは別に咆哮も聴いていると言い出した。
それも近々の10月末に、奥多摩で・・・と云うのだ。
その現場と季節こそ驚愕に値する内容で、見狼記に登場した老人の体験と見事に重なったのだ。

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甲府市御岳町に鎮座する金桜神社

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金桜神社近くの民家が所有する頭骨

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奥多摩で幾度もオオカミ体験をしている古田さん
 
1つの事例では点だが、2つになれば線になり、3つになれば三角形の面になる。事例を多く抱える事になれば、面が小さくなりその精度は高くなる。」
正しくこの典型的な事例になったのだ。
密度が濃くなお且つ最新の生存情報を聞かされた私は、思わず身震いをしていた。
そして、Y氏から求められたカメラを提供していなかったら、こんな興奮を覚えることは無かったのだと思うと、自分が誇らしくさえ思えてきた。

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笠取山への登山口
 
Y氏は翌週、体験者に再度の案内を請い、奥多摩でも最も人気のある山域に向かったのだが、高原を通る林道には積雪があり、登山に不慣れな案内者が気遣われる季節で有ることが感じられた。
案内者は富士山の写真を撮ることが趣味だったのだ。
案内者が示す地点は、見狼記に出た老人が2度咆哮を聴いた場所と同じ地点で、10月の末であることも一致していた。
10年の間に3度咆哮を聴き、いずれも10月末と云う事は何を物語るのだろうか・・・思考を巡らせたが結論を出す術も無かったが、ニホンオオカミの行動形態を朧気ながらも掴んだ気持ちになっていた。

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10年の間に3度咆哮を聴いた現場への道
 
「善は急げ」の言わざに従って、早々とY氏は自ら調達したカメラ5台を咆哮地点に設置した後、野生動物の痕跡を探しながら近辺の散策をしたのだが、又しても驚愕に値する出来事が起きた。
草原状の峠に足を踏み入れた時、突然眼の前に現われた絶景―真っ青な空に白い衣を纏った富士山―に眼を奪われ歩を進める事が出来なくなり、肩からザックを下して一休みしていると、鹿の糞に混じって毛糞が有るのに気が付いたのだ。
この時Y氏は、彼等からのメッセージをはっきり感じた、と私に伝えた。

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毛糞が在った草原状の峠

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間違いなくオオカミの痕跡だと思った毛糞
 
都合45台のトレイルカメラの設置が終り、ホッと一息付いていた12月下旬。
2週間前に見つけた毛糞の有った近辺に、もっとカメラを取り付けるべきと思っていたY氏から、奥多摩への誘いの電話が鳴った。
二ホンオオカミに関心を持つ前は毎年幾度か足を伸ばしていた奥多摩だったが、ここ56年は秩父鉄道三峰口経由の入山か、Y氏運転の車に便乗するかで奥秩父の山に通っていた為、久し振りの奥多摩となった。

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久し振りの奥多摩は深雪だった

野生からのメッセージ/奥多摩発-4-2

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12月最後の三連休となった21日、23日前から関東地方も雪の天気予報が出ていたのである程度は覚悟していたのだが、早朝の事でも有り奥多摩湖辺りから国道上にも降雪が見られ、除雪車がフル稼働する中、目的地に通じる林道に車を乗り入れる事となった。
国道を除雪する車が林道への入り口を塞いで居た為、間違って柳沢峠まで行ってしまうアクシデントも発生したが、結果として時間のロスが幸いする事になってしまい、人生の面白さを痛感したのでも有った。

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目的地の山域に通じる林道入り口
 
猟犬4頭を載せたハンターの軽トラックが、スリップしながら前を走っていたので、車間距離を開け追走していたら、都合の良い事に毛糞を採集した地点近くの林道に向かったのだ。
普段はゲートが有り施錠されているので、違う場所から登山道を歩いて毛糞採集地点に行くそうだが、猟の為か降雪の為かゲートが開いていて、絶好のタイミングで目的地点に着く事が出来た。
普通に歩けば1時間近くかかる沢沿いの道で、ワカンの準備が無かった今日の様な降雪量では、多分“骨折り損のくたびれ儲け”になっていたと思う。
車を降りてからの山道は膝までもぐる積雪で、動物たちも動けなかったのだろう。
フィールドサインを見つける事も目的の一つだったが、1頭の鹿の足跡が有るだけで、期待外れの雪の1日となってしまった。

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毛糞を採集した林道への入り口

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林道への入り口にあるゲート

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ゲートが閉まっていた場合、ここから目的地へ
 
ラッセルに次ぐラッセルで移動に時間を費やし、通常の数倍の時間をかけたが、周回道の手前に3台のカメラを設置したに過ぎなかった。
年齢的にも体力的にも、二人は無理が効かない状態になっていたのだ。
来た道を車まで戻り、帰り支度をしていると、ワゴン車が走り抜けて行くのを眼にした。
関西ナンバーで、雪道に不慣れな運転をするのを目の当たりにし、遅い車が前を走って・・・と些かがっかりしたのだが、追走している中、感謝の気持ちに変わってしまった。

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関西ナンバーの車はここで作業を
 
来る時はスルーだったゲートが施錠されていたのだ。
何の為の工事だか私たちは知らないが、ワゴン車の人が開錠してくれなかったら、私達の車は一般道に出る事が出来ないで、車中泊まりになっていたかもしれなかった訳だ。
私達は往復の幸運に感謝すると共に、今回の計画が旨く運ぶ予感を感じてもいた。

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ラッセルで移動中のY

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ラッセルで移動中の私
 
年の暮れが迫った或る日、三峰博物館経由で、東京都水道局の担当官からY氏に連絡が来た。
トレイルカメラの設置地点が水道局の管理山域で有る爲、カメラの撤去を申し渡されたのだ。
山中は1mもの積雪が有るので、雪解けの4月中旬までにと云うことだったが、来秋までのスケジュールを考えると憂鬱になってしまった。

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東京都水道局管理の水源案内図
 
毎年末年始はY氏と共に、奥秩父山中に設置しているカメラのメンテナンスを恒例にしているのだが、東京大学の演習林へは入山10日前に許可を求める約束になっている。
こちらは、メールでの申請だから容易なのだが、1228から15日まで休林中で、入山許可を得る事が出来なかった。
二つの事例が重なってしまい、元旦の天気の様には晴れ晴れとした気持ちで新年を迎える事は出来なかったので、Y氏がパソコンの電源を入れたのは2日の深夜になってからだった。

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東京大学の演習林の看板
 
サッと覘いて寝るつもりだったとの事だったが、1220:28分に投稿してくれたMさんの記事を見て、興奮する新年へと一変してしまった。
『その生き物は車線上に立っていたため一時停車させ退くのを待っていたのですが、ピクリとも動かず数メートルの距離を置き睨み合うような状態になってしまいました。
何度かクラクションを鳴らしたのですが全く無視され逃げるようなことはなく、その後こちらに向かってゆっくりと一直線に歩き始めたため怖くなって私の方がUターンして引き返してしまい
ました。
大きさは大型犬くらいで、色はグレー・黒・茶の色が混じりあったような感じです。
・・・私が見た生き物は何だったのでしょうか?』

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Mさん等が遭遇した動物はこんな感じだった
 
自らの経験と、集まった多くの目撃情報を分析した中で、二ホンオオカミの行動形態を推測出来る状態になっていたが、今回の事例も推測そのままの行動だった。
投稿者にY氏は感想と連絡先をメールで送り、夜が明けるのを待ったのだが、興奮したY氏は一睡もすることが出来なかったと云う。
待ちに待った連絡を受けたのは、箱根駅伝の優勝校が決まってからのことだったが、翌4日、現場への案内を依頼したら、気持ち良く了解してくれたので、4日に予定していた奥秩父行きを変更することとなった。

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現場近くの松姫峠

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松姫峠からの展望
 
八王子市在住の大学生だったが、Y氏を含めた計5名が奥多摩湖の駐車場に集まったのがAM1000の事で、車を1時間走らせ遭遇現場に到着したのは1100
3日前(1/1)の同じ時間に、日本の行政が絶滅宣言した動物が学生さん達の前に現れた現場で、道路脇に残った雪上の痕跡探しを始めると、嫌な物が視線に入った。
真新しい空の薬莢が56個。
嫌な予感がしたのだが、丹波山のハンター達は1231日が銃納めで、正月3日まで猟をやらないと聞いていたので、私達が求める動物がターゲットでは無かった・・・と思いつつ、念の爲現場の下の沢まで降りてみることとした。
沢筋はものすごく急峻で、30mのザイルを一杯伸ばしての下降になったが、V字狭になった谷底の雪上に血痕等は見つからず、胸を撫で下ろしたのは云うまでもなかった。

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遭遇現場で状況を説明するMさん等(右・中)
 
用意したカメラ3台を設置して帰る途中、峠を迂回するトンネル工事現場の存在を知る事となった。
若しかしたら動物は、人間のそうした行為を阻止するべく現れたのでは・・・
葛野川ダムで棲みかを奪われ、またしてもトンネル工事で動物たちを追い詰める・・・・・
もう、これ以上無駄な工事はしないで欲しい・・・・とのメッセージだったのでは・・・・・
そんな気持ちを起こさせる、周囲の状況でもあった。

五月の或る晴れた日に

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70歳間近かになるとトイレが近くなります。
夜は出来るだけ水分を取らない様気を付けるのですが、認知症もどきの私ですからそれすら忘れてしまいます。
(若しかしたら皆さんは、認知症もどきの文面を読んでいるのです。)
幾度もトイレに起きた、そんな或る日の早朝。
窓から外を見たら月が煌々と照っていましたので、寝るのを止め山に向かいました。
 
走り出して直ぐ、今日が51日だと気が付き失敗したと思ったのですが、秩父市街を越えても予想外に交通量が少ないのです。
旧大滝村内に入って間もなくその理由が解りました。
三峯神社の白い気守り配布が11日に変わったのです。
4/1の気違いじみた大渋滞が周辺の住民に混乱を招き、大型連休と重なった今回は11日に繰り延べした訳です。

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11日に繰り延べを示した看板
    
ところで、140号線の沿道には早朝から、タイガーマスクを始めとする様々な格好をした人たちが歩いていました。
その中の女装をした一人に訳を聴きますと、≪日本横断「川の道」フットレース≫とのことで、葛西臨海公園を昨日900に出発し、荒川沿いに北上し熊谷から長瀞経由で両神経由で上野村へ、それから佐久市に入って千曲川沿いで飯山市に抜け信濃川に沿って新潟港着が55日、延々520km56日の長旅をするとの事。
数年前まで中津川集落から三国峠を越え川上村を抜ける・・・荒川を遡り千曲川・信濃川を下る「日本横断川の道」だったらしいのですが、現在中津川林道は閉鎖中ですので、ルートが少し変わったみたいです。
どちらにしても私たちの捜索地域とピッタリ一致する訳で、とても親近感を感じました。
「世の中には色々変わったことをする人がいるんですね!私たちも変わったことをやっているけど。」って云いましたら、興味を持って私たちの活動を聴いてくれました。

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日本横断「川の道」フットレース出場の皆さん
    
5台のカメラメンテナンスが終了し、お不動様に着くと滝見物の先客が一人居りました。
先客は、大きな荷物を背に山から下って来た私を不思議そうに見ながら、「オオカミ探しの方ですか?」と聴くのです。
返答に困った私にたたみかける様「テレビに出ていた方ですよね!」とも云うので、「そうですよ」と答えると、それを契機にオオカミ談義が始まりました。
ベンチに座り話を交わすうち、周辺の地理にやたら詳しいのでその訳を聴くと、川向うの栃本集落に実家が有るとのこと。
米寿を迎えたお母さんは、お不動様から1時間を要す山中の「大徐ヶ集落で小さい頃生活をしていた」と教えてくれたので、昔話を聞きたくなり実家に案内願いました。
滝見物の帰り、1998211日に吊り橋を渡った私の後方からの咆哮は、大徐ヶ集落近くからだったのです。

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大徐ヶ沢・不動滝(伊藤博之さん撮影)

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大徐ヶ沢のお不動様

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大徐ヶ沢集落跡

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この山域に5台のカメラが・・・
 
お不動様での先客は山崎幸雄さんと名乗り、栃本集落で1軒だけの山崎姓ですので、何処から移住して来たのか伺いますと、ダム工事か何かで新潟県から仕事に来て、家持のお母さんと知り合ったとのことでした。
大徐ヶ集落での生活は、子供でも空身で栃本集落との往復をする事が無いなど、山家育ちの私でも想像を絶するものでしたが、周りの皆がそうした環境なら左程苦痛で無かったのかも知れません。
山崎さんは50才代で現在草加市にお住まいとのこと。
栃本を離れて数十年経ているそうですが、私にとって非常に重要な一言をつぶやきました。

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山崎家近くの「栃本のふせぎ場」と「馬頭観音」
(ふせぎ場とは集落の東からの入り口で悪疫や盗賊を防ぐ場)

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栃本集落の春

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集落のシンボル栃本関所跡

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山崎幸雄さん・自宅前で

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山崎家の庭に咲く絶滅危惧種の熊谷草
 
山村で耕作しても獣に食べられるから、耕作地に囲いをするか耕作放棄をするかになってしまうが、小さい頃はそんなことなかったし、そもそも山に行っても獣を見た事が無かった。
栃本を離れるまで20年近い間で鹿を見たのは1回きりだったし、クマ等全く縁が無かった・・・。
この事は米寿を迎えたお母さんも同意見でした。
 
何を意味しているか・・・と云うと、「ニホンオオカミの存在が無くなって鹿・イノシシ等の獣害が増加した」「獣害を防ぐために、大陸からオオカミを導入する」とする理論の矛盾を明らかにする事例なのです。
私がオオカミ調査で奥秩父の山村を巡った30年前、各集落には名人と呼ばれた猟の達人が居り、獲物の亡骸を前に猟の様子を語ってくれました。
そして達人たちが山から去り、今、山中で猟を行っているのは多くが日曜ハンターで、その数もほんの僅か。
つまり、山中の獣たちにとって「狩猟圧」が減ったのであって、「狼圧」が減ったのでは無いのです。
であるなら、獣害を減らすための方法は狩猟圧を増やすことになりますが、「山は獣たちが先住権を持っている」ことを忘れていけないと、私は考えています。

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奥武蔵猟友会会長の柿沼さん

再び奥多摩で

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昨年12月に掲載した「奥多摩山域での情報」・都下羽村市在住高嶋正美さんの体験「5年前(2012年)の9月末に山奥で変な野良犬を見た」の確認をすべく、奥多摩山域に5月中旬、カメラ6台を設置して来ました。
奥多摩にはW大学探検部OB会で作る「ニホンオオカミ倶楽部」がオオカミ調査をしているので、今までのプロセスを全て話し調査依頼をしたのですが、先方は手が回らないから私たちが行うべきとの事で、私たちの作業になった次第です。

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奥多摩最深部の秋
 
私たちの下に届いた生存に関する情報ですが、通常、現地確認をしつつカメラの設置をするのですが、その際カメラの設置目的及び設置者への連絡先(つまり私)の電話番号を示します。
本来は地権者を調べその許可を得て設置するのが筋なのですが、山の地権者を特定するのは難題ですので、便宜的に地権者から連絡が有った時のみ許可を得る様にしているのが現状です。
それは、トレイルカメラを使用して調査を始めた20年前からの事です。

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今回のNo1カメラ設置風景
 
当ブログ既報の通り20141月まで奥多摩山域にてオオカミ追跡をしていた訳ですが、調査区域の地権者東京都水道局から、正式な手続き下でのカメラ設置を指摘されました。
当たり前と云えば当たり前なのですが、その際全てのカメラを撤去してから、設置の申請をするのが条件でしたので、周辺地域で調査をしているW大学探検部OB会で作る「ニホンオオカミ倶楽部」に調査継続をお願いして、私たちは奥多摩から手を引いたのです。

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東京都水道水源林のイラスト

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東京都水道水源林の概略図

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水道水源林最深部に設置していたカメラ
 
そして本年4月初め、カメラ6台を背負い現場の下見に赴き、設置希望現場に印をし、近くにカメラ6台を隠し、帰宅後地権者である東京都水道局にカメラ設置の申請をしました。
下記が申請書の一部「調査目的」ですのでご覧下さい。
 
【水道局水源林内での調査目的
明治38年の捕獲例をもって絶滅とされているニホンオオカミ(Canis hodophilax)ですが、100年以上経た現在でも生存に関する多くの情報(咆哮・遭遇・その他)が、私の下に届いて居ます。
私がニホンオオカミの生存に関する調査をするに至ったのは、1969年7月に新潟県下の山中で咆哮を聴いたのが始まりで、1998年2月に旧大滝村でも咆哮を聴いています。
1996年10月、旧名栗村山域で写真に収めたイヌ科動物が、その研究の権威である分類学者から「ニホンオオカミとしか考えられない」旨の論文も得ています。
そうした活動の積み重ねの中、ニホンオオカミ生存に関する情報が私の下に届き、その確認調査の目的で、現在奥秩父山中に60余台の動体起動カメラが稼働中となっています。
寄せられた情報が1件なら,図上では点に過ぎませんが、2件になれば線に、3件ならば三角形となり、情報の精度も高くなる訳です。
今回水源林内に於いて調査を申請するのは、時系列の違いこそありますが、多角形となった山域のほぼ中心地点にあたるのです。
現在、奥多摩山域で同様の活動をしている早稲田大学探検部OB会の「ニホンオオカミ倶楽部」とは、常に情報の共有化をして居り、効率化の為活動地点の棲み分けをしているのですが、彼らの活動が手一杯という事で、敢えてこの度大常木林道での調査に踏み切った次第です。
以上を踏まえ、御許可の程宜しくお願い致します。  平成30年4月18日 NPO法人ニホンオオカミを探す会 代表 八木 博】

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カメラ設置申請箇所の写真

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山道にはこんな面白い瘤を持つ大樹も
 
ところが予想以上に書類のやり取りに時間が掛かり、許可が下りた事の連絡を得たのが426日でした。
電話でのやりとりで好感触を得ていたので、426日に奥多摩での設置を予定していたのですが、連絡が無かった為長野県下の秋山郷へ調査に行ったその帰途、25日付けで許可が下りた事を知ったのです。
それやこれやで奥多摩でのカメラ設置が結局511日となり、最初の偵察行から40日以上も経ってしまいました。

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可憐なタチツボスミレが癒してくれました
 
隠したカメラの位置を確認してから家を出たのですが、認知症もどきの私にとって40日間の空白は恐ろしいもの。
1台のカメラは雨水に浸かり、2ヶ所のカメラの位置が不明となったのです。
同行した新入会員の念が鋭く、1ヶ所は何とか判ったのですが、1ヶ所はどうしても判らず、予備のカメラを持参していたのですが、1ヶ所は未設置となりました。
そんな訳で5日後の16日に、改めてカメラ持参で現場の最深部まで足を運ぶ羽目になりました。
今まで難なくこなせていた作業も、年とともにミスが付いて廻るようになってくるものです。

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念を使いカメラを探してくれた染矢さん

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不明だったカメラは落ち葉の下に
 
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こんな訃報が先日流れました。
2018521日―ジャーナリストの惠谷治氏がすい臓がんのため、20日に死去していたことが21日、分かった。69歳。
早大卒で、同大探検部在籍当時より世界の紛争地帯を現地で調査、取材した。北朝鮮の核、ミサイル開発を含め世界の軍事動向に精通したジャーナリストとして雑誌に多数の記事を寄稿。
現場での知識と経験に基づく分析で新聞、テレビのコメンテーターとしても活動した。

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ジャーナリスト惠谷治氏
 
氏とは奥多摩・三条の湯でW大奥島総長の退官山行の折にお会いし、お話をさせて戴いたのですが、現場・調査・取材・と云った共通点が有り、親しみを感じていました。
「ニホンオオカミ倶楽部」代表の望月氏に電話しました処、氏は臨終前に家族から連絡が有りお見舞いに行かれたそうでした。
考える以上に早大探検部の絆は深く、多くのOBが葬儀に参列するそうで、私としてもご冥福を祈る次第です。

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奥島総長を中心に三条の湯で
    「甲」の字の下が惠谷治氏

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大栗展望台で望月さんと私

八木氏の追悼碑

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中津川林道が5/中旬~7/中旬の間トンネル工事で通行止めになっています。
工事開始前日に連絡が来ましたので実害(?)には及びませんでしたが、3ヶ月毎のカメラメンテナンスに支障が起きています。
そんななか中津川以外で何処に行こうか考えた末、カメラ未設置の山域を先日軽装備で歩いて来ました。
当初、出会いの丘から釣橋小屋までの滝川林道を歩く予定で出発したのですが、最大の目的「八木氏の追悼碑」を探しながらでしたので、予想以上に時間が掛かり、小屋手前で引き返さざるを得ませんでした。

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国道140号線沿いに在る出会いの丘

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豆焼大橋を下からのアングルで
 
「八木氏の追悼碑」の存在を知ったのは、「原全教著の奥秩父」からでした。
「奥秩父」493Pに以下の記載が在ったのです。
「・・・それから間もなく角を廻り、二十米も下ると小さな沢がある。谷の條でも述べたが之が新蔵小屋沢である。この下は一寸した滑の岸壁になって居る。小さな桟を踏み渡ると、直ぐ右手の上に石段が作ってあり、石積みの上に石碑がある。これは大正七年九月十三日この付近で殉職せられた秩父営林署属八木鼎七氏の追悼碑で大正八年九月の建碑である。裏面に彫られた営林署長の撰になる碑文を読んで見ると、氏は新潟県北魚沼郡堀之内村の人、大正四年九月県立加茂農林学校卒業、その後三年を経、秩父へ転任されてからまだ一年かそこらで、年は二十七歳の少壮官吏であったそうだ。そして殉職当日は甲州の人夫を一人指揮して前記新蔵小屋沢の桟道修繕中、古い丸太の強弱を試験する為、片足をかけるや否や、脆くも朽ち折れ、実に二百尺の崖下転落即死せられたと云ふ悲惨事を知る事が出来る。」

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原全教著の奥秩父
 
八木姓だけでしたらそのまま通り過ぎたのですが、新潟県北魚沼郡堀之内村出身となれば話は別です。
堀之内村(現魚沼市堀之内)で八木姓を名乗る家は全て知り得ていますし、大正四年に加茂農林学校を卒業となれば、我が家の本家―身内の可能性が強くなって来ます。
一昨年暮れ所用で田舎に出向いた際、奥秩父誌の下りをコピーし本家を訪ねました。
コピーを前に古い記憶を辿って貰いましたが、90歳を超えた当主から正確な記憶を呼び戻す事は出来ませんでした。
ただ何時か私がそこを訪れる事が有ったら、丁重に扱うよう依頼を受けたのです。

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30年昔・・・生家前で、父・母・姉・妻・長男
 
当日(6/4)は朝から暑く、出会いの丘から登山口までの30分が遠く感じられたのですが、山道に入ってからは奥秩父特有の雰囲気を一杯浴び、野生動物の気配を感じつつ、右手上方に在る筈の碑を気に掛けながらの歩みでした。
一歩足を踏み外すともうお終いと思われる処が何ヵ所も有る山道で、滝川本流へ降りる地点のマークが所々有りました。
滝川と云うと2010年7月の4重遭難が記憶に残りますが、最初の事故が起きた7/24・日テレの2名が亡くなった7/31・の両日、私は対岸の曲沢でオオカミ探しをしていました。
両日とも非常に蒸し暑い日で、14時頃車に戻ると、ワイパーも効かない位の豪雨が降って来たのを思い出していました。

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滝川林道への入口

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分岐・下方が釣橋小屋への道

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滝川本流への入渓地点

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一歩足を踏み外すともうお終い・・・
 
山道を1時間近く歩いて小さな沢で一休みし、この近くの筈だが・・・と付近を探すのですが、お目当ての碑は有りません。
気を取り直して少し歩きますと、高さ1m近くの石垣が見えますので若しやと思い這い上がると、漸く碑に出会う事が出来ました。
林業が衰え山仕事の人達が訪れる事が無くなった山奥の碑の前を通るのは、限られたヤマやさんと釣り人だけ。
長年の風雪に耐えた碑は横たわっていましたが、同行者と協力して元の状態に戻し、お祈りしました。
帰宅後調べてみますと、何と100年の節目の年だったのです。
血が呼んだ・・・と云う事なのでしょうか。

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この小沢(新蔵小屋沢)からほんの少し歩くと

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八木鼎七氏の追悼碑

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横たわっていた碑を起こして・・・

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碑の近くから和名倉山頂を臨む
 
碑の近くに、氏の遭難箇所と思われる岩場が有り、そこにはフィックスザイルが有りましたので難なく渡れましたが、そこで同行者はカモシカとアイコンタクトをしたと私に告げました。
私もカモシカを確認したのですが、奥秩父山中のカモシカは激減した模様で、数年前に比べると滅多に会う事が出来ないのです。
暫く歩くと今度は、眼の前を小鹿が走り去って行きました。
それらが重なり、帰途私はとても清々しい気持ちになり、時期を見て、掃除用具持参で花を手向けに来ることを誓ったのです。

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遭難箇所と思われる岩場に掛かったフィックスザイル

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近くに在る火打石(岩)と巨樹

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ここで子鹿が・・・もう少しで釣橋小屋に

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滝川水流・滝川林道の概念図(てんから庵さまより)
 
よくよく考えて見ると、ニホンオオカミに関わらなかったら原全教の書物に触れる事も無かったし、八木鼎七氏の碑の存在も知らなかった訳です。
鼎七氏の没年時の年齢等から想像すると、私の祖父の弟にあたる感じがするのですが、偶にはこんな山歩きも良いものです
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