秩父市相生町の内田茂さん宅に、ニホンオオカミの毛皮が保管されているのを確認したのは、1995年の事である。
‘95は公私に亘り、非常に多忙な一年であった。
11月に埼玉県の最深部大滝村三峰神社でニホンオオカミのフォーラムをする事が決まり、友人と二人でその段取りをすべく、死ぬ思いで駆けずり回っていたのだ。
そんな最中“秩父市内の民家にニホンオオカミの毛皮がある”との情報が、思いがけず飛び込んできた。
まさかとは思ったが、「寄せられる情報の全てを確認する事こそ、生存の証明が出来る近道である」と考えていた私は、早速通いなれた秩父へと車を走らせた。
第1回目の三峯でのフォーラムに集まった人たち
秩父駅からさほど遠くない民家の、二階に上がる階段の、右の壁に吊るされていたその毛皮は、それまで私が見たニホンオオカミのどの標本よりも大きく綺麗で、色が退色していなかった。
事前に了承を取り付けていたが、初対面の私に持ち主の内田さんは、笑顔を見せるわけでもなく、事務的に、むしろ無愛想に、聞かれた事に答えるだけだった。
長い時間を掛けて、持ち主から聞き出した話を要約すると、おおよそが次の様であった。
内田茂さんと、階段脇に飾られていた毛皮
内田さんのお父さん武助氏は明治14年生まれで、自転車屋をしていた昭和の初め頃、三峰の奥裏(おくり)で獲れたニホンオオカミで珍しいからという事で、誰かに譲ってもらった。
内田さんが、毛皮の存在に初めて気づいた小学校二、三年の頃は、お蚕様の繭をいれる大きな缶の中に入っていて、実家の近くにキツネが出て困る時、時折魔除けのため、縁側に出していた。
毛皮に対して家族の関心はほとんど無く、昭和四十八、九年に現在の家に立て替えた時、内田さんも毛皮の処分を考えたと言う。
しかし家の廃材である戸板にシーツを掛けて、毛皮を貼り付けてみたらなかなか良い雰囲気だったので、階段の脇の壁に掛けて、そのまま現在に至ったのであった。
私が知人に連れられて初めて毛皮を見た時、感激と興奮で、“すごい、すごい”の連発であった。
それほど、素晴らしい毛皮だった。
フジTVのカメラマンと階段脇の毛皮
壁から降ろされた、リニュアル前の毛皮
亡父の武助氏と非常に懇意にしていた人が数年前まで生きていて、その人だったら毛皮入手の経緯から、ほとんど全てがわかるのに!と言われても後の祭りであった。
明治三十八年一月に奈良県小川村鷲家口(現在の東吉野村)で、ニホンオオカミ最後の標本とされる若オオカミが捕獲されてから以後、数々の標本等が、ニホンオオカミではないかと、提示されて、そして消えて行った。
鷲家口産のニホンオオカミ仮剥製と山根一眞氏
「大台ケ原・大杉谷で捕獲」と、されるオオカミ
私が内田さん宅の毛皮を見てからまず考えた事は、“同じ憂き目に合わせてはいけない”という事で、いつ、どこで、誰が捕獲したのか、はっきりする迄、公表するのは止めて、信頼できる一部の仲間にしか、毛皮の存在を明らかにしなかった。(その中の一人Y氏に裏切られる形になる。)
其れまでニホンオオカミの頭胴長は1メートル前後とされており、過去の研究史を紐解いた時、“余りにも規格から外れている“と言わざるを得ないサイズを有していた。
この毛皮は概略で125~130センチ有り、尾が30数センチ、個々の特徴を考慮せずに、鼻先から尾の先までとなると全体的に大陸オオカミと見間違えられる感じでもあった。
それゆえ、何時、何処で、誰が捕獲した、の特定がより重要視された。
大洞川上流域(三峰の奥裏)の山々
存在を知り得てから半年以上は、休みの度に、仕事の合間に、何時、何処で、誰が、の特定をすべく秩父通いをした。
秩父通いと言ってもそのほとんどは大滝村で、網の目をつなげるように、次から次へと聞き歩いた。
埼玉県の人口が約700万人に対し秩父郡大滝村は現在人口約1500人。
しかし県の面積の10%は大滝村で占めている。
当然のごとく山また山の過疎の村である。
旧大滝村は東京都・山梨・長野・群馬の各県に隣接
各耕地(集落)に猟の名人と言われる人が居り、何時、何処で、誰が、の話しとは別に、一つ事に秀でた人の話を聞くことは、楽しい事であった。
秩父市浦山、荒川村白久、小鹿野町三田川、等で名人と呼ばれた人から話を聞けたが、目的を達する事は叶わず、大滝村入りして、大血川、栃本、入川と聞き歩き、最後の望みに大滝村中津川の民宿「ひげ」に宿をとり、中津川耕地の猟師から話を聞こうと、大晦日も間近に迫ったある日の午後自宅を出発した。
先代の「ひげ」、山中市平氏はこの耕地一番の猟師として、余りにも有名な存在であったが、既に今は亡く、代わりと言っては何だが、当時中津川一番の猟師として折り紙付だった山中求氏の話を聞けたら・・・。
そんな心積もりからの出発だった。
中津川集落近くに在る山の神
アポイントもとらずに出向いたのであるが、その頃私は小さいながらも会社を経営して居り、予定を立てての行動は難しい点があって、そのほとんどは行き当たりばったりに近い状態であった。
その時は残念な事に山中求氏は2日間とも留守で、宿の主人からの話を得ただけに終わった。
昭和38年6月、両神山登山の最中、ニホンオオカミと思われる動物に遭遇した柳内賢治氏等一行と相前後して、「ひげ」の先代市平が、「耕地の奥、信濃沢で遠吠えを聞いたと話をしてくれた事が有ったっけ・・・・。」主人の秀人氏は父の思い出を探すように、作業の手を緩めることなく、ポツリとつぶやいた。
38~39年の2月の深夜、ムササビ猟での出来事だったと言う。
柳井賢治著「幻の二ホンオオカミ」
信濃沢上に在るゲート
ゲートから10分位に在る作業小屋
しかし時間を掛けても、期待する様な成果はほとんど得られぬまま、無駄に思える時間が過ぎていた時、私が断念せざるを得ない留めの一言を、秩父宮記念三峰山博物館館長の山口民弥氏が、ポツリといった。
『信州の善光寺さんの存在と同じ、大滝村の三峰神社の、その守り神であるニホンオオカミを、たとえ間違いで有ったにしても、「獲った」などと言う事を、何処の誰が言うものか!。
他の土地の人ならいざ知らず。
大滝の近辺で探しても無駄ですよ。
あなたの努力は報われませんよ』。・・・と。
リニュアル後の毛皮と山口民弥館長
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この項「ふた昔前の記憶から」は、2002年頃著された文面で3部構成になっています。
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