2002年5月の連休。
今まで多くの情報を積み重ねていたものの、何となく行くのを躊躇っていた、大滝村の最深部中津川源流域に車を走らせた。
遠いから億劫になるとか、行きづらいと云うよりも、近くに調査中の所を、二ヶ所ほど抱えていた為ついつい後回しになったのだ。
調査の殆どを一人でやっているので、日常の仕事との兼ね合いで、休日の殆どをつぎ込んでも足りない位で、そうせざるを得なかったのである。
一日目は今迄の調査地点の再確認に費やし、二日目の朝から山中深部の探索を始めた。
歩く事2時間余り・・・雪消えの湿った地面に所々付いたイヌ科動物の、7~8CMは有ろうかと思える足跡。
そして足跡の近辺にニホンカモシカの食い散らかされた残骸。
さらに、同じイヌ科動物が残したと思われる毛糞。
毛糞を発見した際、後方から押し寄せる獣の気配で身体が固まり、気配が去るまで後を振り向く事が出来なかった・・・そんなオマケも含め。
それぞれの事例が別々の場所に在ったと云うのなら今まで幾度もあるが、今回の様に限定された一箇所に集中している事は、初めての経験であった。
VTR撮影の後、毛糞と、ニホンカモシカの残骸を採取し、予想以上の収穫に満足して帰宅の途についたのは、日没後暫らく経てからの事だった。
同じ年の8月、峠を越えた川上村でアルバイトをしていた京都の岡田氏から、私の情報を確認したいと申し入れが有った。
私が5月に探索した場所と同じ山域を岡田氏が調査したところ、やはり7~8CMの足跡を発見したからだった。
そんな積み重ねの中で、私達の活動の最重要地点として、その近辺の山域の調査を、大至急しかも入念にする必要性を2人は感じた。
そして、出来るだけ早い時期に実行したいと、今冬を待って山篭りする事を岡田氏は私に伝えた。
山篭りの準備は地元の私が受け持つ事になったのだが、2ヶ月の山篭りを支える準備には物品の量も半端ではなく、自宅からべース地点迄の往復を幾度も繰り返した。
雪が無ければ山奥とは云っても車で入れる所だし、私は夢中になって走り回り、多くのエネルギーを費やし、降雪までの間に全ての準備を終了した。
京都から岡田氏が来たのは2月初めの事であった。
我が家で、最後の準備に2~3日費やしていた時、思いがけず大雪が降った。
中津川なら50CM以上は降ったのではないかと予想される中、入山日を変更しようか?と相談したところ、車で行ける所まで行って、自力で現場まで行くと岡田氏は答えたので、その意思を尊重する事とした。
出発当日雪は止んでいたが、家の近くの道路には、雪が残っていた。
心配の中向ったのだが、埼玉県の最深部中津川は除雪が行き届いていて、耕地の奥まで難なく入る事が出来、出発時の心配は無用となっていた。
舗装道路の尽きる辺りで歩きになるだろうと考えていたのであるが、その先の林道もずうっと奥まで除雪がされていた。
冬季の入山を規制するゲートの少し手前で除雪作業をしていた初老の三人が、私たちの車を発見すると、親しげに話し掛けてきた。
「お宅ら、オオカミ探しに来たんだろう!」準備の為毎週の様に往復していた私の車が目立って、耕地の中では大きな噂になっていたらしい。
私達は除雪作業を出来るだけ、奥の方までやってもらいたい下心も手伝って、挨拶を交わし、愛想良く話に応じていた。
一番の年長者が、言おうか言うまいかと、迷ったあげく・・・といった風情を見せる中で思い切った様子で、話を切り出してきた。
「随分前の事だが、俺も、オオカミの遠吠えを聞いた事があるんだ・・・」。
予想もしなかった展開に、思わず岡田氏と見つめ合った私は、その年長者の話を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させ緊張した。
三人の中で除雪車の運転手が役割的には責任者と思えたが、その年長者は何とはなしに仲間から、一目置かれる存在に見えた。
大滝村人口千五百名の中で、異なる名字の数がどれ位あるのか?
例えば私が関わっている、秩父宮記念三峰山博物館の事務長である、千島幸明氏に電話をする時は“千島さん”などとは決して言わない。
千島氏自身も電話口での開口一番“幸明です”と言って来る。
神社に勤める千島さんは数多く、名前を伝えるのが一番の早道なのだ。
同様に中津川でも、そのほとんどが「山中」姓である為、年長者に向かって“失礼ですが山中何さんと言いますか?”と聞いてみた。
もしかしてと、思うところではあったのだが、またしても驚くことに、“山中 求です”と答えて来たのである。
7年前の暮れ、秩父の内田家の毛皮の出所確認をするべく出向いた中津川耕地で、タイミングが悪く会えなかった山中求氏だったのである。
昭和47~8年の12月。
山中求さんの体験を記した二ホンオオカミフォーラムのレジュメ
中津川の源流部となる白岩付近に、バンドリブチ(ムササビ打ち)に出かけたのは、月明かりの夜だった。
親戚筋の山仲嘉男氏が、荒川村上田野から泊まりに来ていて、バンドリを打って見たいと言い出したのが始まりだった。
バンドリは月明かりの晩、木々の間から顔を出したところを、懐中電灯で照らすと、目が金色に光るので、それを目標に狙って撃つのだ。
昭和9年生まれの山中求氏は当時営林署に勤めており、国有林内での狩猟で、しかも夜しか獲れないバンドリ撃ちでの体験を人に話す訳には行かず、人知れず自分の胸の中に収め続けていた。
国有林内の狩猟は勿論禁止であって、狩猟法上に於いても日の出から日没までと、時間の制限も受けていたのだ。
ともかく、その晩自宅を六時頃出発した二人は、一時間後車止めに着くと、さらに一時間程歩いた後、目的地である、十文字峠から派生する、なだらかな尾根のブナ林で獲物を探し始めた。
しかし、その日はいつに無く不猟で、何の手ごたえも無く、場所を変えて探そうと1KMばかり歩を進めた時、つい先ほど通ってきた白岩の付近から、サイレンが鳴り響いた・・・と思った。
そこは中津川の源流部に位置し、深い沢を挟んで、谷がV字型に切れ込んでいるため、音がこだまの様に反響する場所ではあったが、山中にサイレンが鳴り響いた数秒後、獣の咆哮に変わった。
腰が抜ける程と言っても良いくらい吃驚した二人は、顔を見合わせた。
お互い何も言わず声も出さなかったが、お互いが同じ事を思っているのが良くわかった。
湧き上がるような恐怖感に突き動かされて、何も云えない二人は、キビスを返して、走るように車まで戻った。
中津川耕地で名人と言われ、狩猟の武勇伝に事欠かない山中求氏であるが、それ以後白岩付近には近づいた事が無いと言う。
2月~3月の2ヶ月間山篭りをした岡田氏は、6ミリ×30メートルのザイルをザックに入れ、白岩近辺の岩場を丹念に探し廻った。
三十年前の痕跡があろうとは思わなかったが、動物が巣穴に使えそうな岩穴が、無数に散在していたと私に伝えた。
長い間秩父盆地のシンボルと言われ、そのシンボルの形が変わるほど石灰岩を掘り出してきた武甲山。
秩父山中には石灰岩で構成されている山が多いのである。