私の故郷は新潟県魚沼市です。
魚沼地方は我が国有数の豪雪地帯で、それゆえお米、日本酒の産地として名を知られているのですが、中学高校時代の冬の休日は毎日が除雪で,卒業したら何とか雪の無い所で生活したいと考えたものでした。
そんな魚沼地方の果ての果て旧入広瀬村大白川五味沢から、更に8キロも山中に入った営林署の飯場が今回の舞台です。
飯場の除雪作業を任されていた昭和35年1月末の出来事で、撃った人は浅井利友さんです。
「二ホンオオカミを追い続ける男」画面上の 浅井利友さん
営林署の仕事を長くしていた志田さんを親方に、1歳上の従兄弟浅井光二さんと3人で飯場生活をしていたのですが、貴重な蛋白源である兎が全く獲れなくなって、得体の知れない動物の存在をなんとなく感じていたそうです。
兎が居るべきはずの処に、犬科動物の足跡がいつも付いていたからです。
雪の止んだ午後、何とか得体の知れない動物を捕まえないと、自分たちが参ってしまうと考え、3人はそれぞれに銃を持って腰までの新雪を掻き分けながら小屋の奥山へ向かいました。
1時間近く歩いて尾根の上から下方を見ると、得体の知れない動物が、丸まって寝ているのが見えたので、光二さんと利友さんが50メートル位の間隔を置いて待ち伏せし、親方の志田さんがグルッと回って上に追っていく事にしました。
10メートル以上の積雪の上に新雪が腰まで埋もれるのですから、動物は如何するかと見ていたら、深雪を物ともせずに、一跳び5~6メートルで余裕を持って飛び跳ねながら、雪煙を上げて利友さんの方に近づいて来たそうです。
予想していたよりはるかに大きいので、散弾銃では無理かなとも思ったのですが、引き寄せられるだけ引き寄せて撃ったら、旨くいい所に当たって、雪の中に倒れ3分~5分位だったそうですが、人の喉笛をひと咥えするような大きな口をパクンパクンしながら、ついに息絶えたそうです。
持ち上げて見ると大きい割りに案外軽く、猟の時いつも使う、兎が3匹位はいる網様の背嚢に入れてみると、難なく入ったので吃驚したと言います。
小型のシェパード犬位の大きさだったのですが、毛がバサバサで長かった為、思ったより小さかったのでしょう。
利友さんは獲った動物を、大きいキツネだと思っていました。
その当時新潟福島境の浅草岳界隈にキツネは生息しておらず、書物以外で見るのは,この時が最初だったのです(?)。
山を越えた福島県只見町入叶津の猟師、佐藤泉さんも私に「キツネは居なかった」と話しています。
飯場に帰って毛皮を剥がした後、肉を味噌汁の中に入れ、骨はマサカリで砕いてやはり味噌汁の中に入れて、ガラにして啜った後、ストーブにくべた(燃やした)そうです。
―15~6年前テレビの撮影で利友さんに現場同行した私は、飯場跡を持参したスコップで掘って見ましたが、骨の欠片も見つける事が出来ませんでした。―
油がノッテイテ旨いのは判るが、そうでないのに旨かったし、匂いもしなかったと利友さんは私に教えてくれましたが、従兄弟の光二さんも同じ答えを私に返してくれました。
「浅草岳周辺に生息する動物は全てといって良いほど食べているが、キツネもタヌキ同様匂いがひどいと聞いていたのに、変だな?」
3人でそんな話をしながら食べたのですが、その時はその程度にしか感じていなかったそうです。
利友さんは旧入広瀬村五味沢集落の出身で、実家は浅草岳登山のベースでも有る【音松荘】を経営し、10歳年長の乙一さんが家を継いでいました。
乙一さんは、利友さんが山奥から持ち帰った毛皮を見て、すぐにピンと来たそうです。
昭和2年生まれの乙一さんですが、猟師としてまだ駆け出しだった50年前、勢子として参加した春の熊狩りの時見慣れぬ足跡に出会い、父から『オオカミの足跡だ』と教えられたのを皮切りに、幾度と無くその足跡に出会っていたので、利友さんが山奥から持ち帰った毛皮を、半ば強引に譲り受けたのは必然的だったのです。
そしてその毛皮は、昭和30年代の終わりまで音松荘の宿泊者の皆さんに「二ホンオオカミの毛皮」として受け入れられて居たのです。