前号「犬山黙れ!熊山騒げ!」で、伝えられているニホンオオカミの生態を紹介しましたが、実は「送りオオカミ」の経験をされた方からお話を聞いたことが有ります。
お話を伺ったのは今から11~2年前の夏のことで、文面として残したのもお話を聞いて興奮冷めやらぬ頃のことです。
尚「送りオオカミ」に遭った体験は太平洋戦争真っ只中の時のことですので、その辺をお含み置き戴ければと考えます。
旧秩父郡荒川村在住の千島久幸氏は大正15年生まれ。
荒川村に移る前は、生まれ育った大滝村強石で長い間暮らしていた。
ロープウェイ駅の近く、三峰山頂に神社の建物が有り、その上に監視台を作り、敵機襲来に備え1班8人体制、5~6班交替で24時間張り付いての監視で、当時青年学校に通っていた千島久幸氏も加わっていた。
夜の監視に立つと、周りの山から・・・あるときは和名倉山の方面から、あるときは妙法ヶ岳方面から、明らかに犬の遠吠えとは違う・・・腹の底から響くような、地響きがするような咆哮を、繰り返し聞いていた。
監視に立った50人以上の人たち全てが例外無く耳にし、耳にした全ての人達が、ニホンオオカミの遠吠えである事を疑わなかった。
(その中の一人として宮川淳一氏も居たのですが、宮川氏の関しては2016年9月2日のこの欄「神領・三峯の猟師―2」をご覧ください。)
大都会に住む学者、知識人が、ニホンオオカミ絶滅をしたり顔で語っていた頃、埼玉県最深部三峰山頂の、夜の監視に立つ若者たちは、存在していない筈のニホンオオカミの咆哮を聞いていた。
三峰から臨む和名倉山
和名倉山から臨む三峰神社・集落・奥宮
ガソリン・石油・石炭はその殆どが軍需品とされ、庶民の生活から姿を消し、それらに代わる木炭の増産が求められ、秩父の各町村にも供出割り当てが課せられるようになっていた。
そして戦争の長期化に伴い、米・みそ・酒・マッチなどと同様に、家庭で使う木炭も切符配給制になった。
裸足で炭俵を背負う戦時中の女学生
炭俵を負い延々と続く学生の列
山を開墾し食料増産に励む学生達
戦争が激化した、そうした頃、千島久幸氏は同じ三峰山中で、もっと不思議な体験をしている。
昭和17or8年夏の深夜、半鐘が鳴り警戒警報が発令された為、カーバイトのカンテラ頼りに、麓から山頂の監視台まで歩く羽目に陥った。
日中ならロープウェイに乗って苦も無く行けるのだが、非常事態発令中のことで真夜中だったが、一人神社への参道を登って行ったのだ。
三峰表参道登山口
ロープウェイ山麓駅を過ぎ暫くすると、清浄の滝が懸かっているが、そこまでは広く整備され月の明かりも手伝って、難なく歩く事が出来た。
滝に架かった橋を渡ると、途端に道幅が狭くなり、参道として整備されてはいても、鬱蒼とした林の中を歩く状態で、道の左右は熊笹が山頂まで続いていた。
千島氏が異変に気がついたのは、滝を越えて間もなくだった。
清浄の滝全景
千島氏の後を追うがごとく、歩く度熊笹の中を何かが「ガサガサ」と音を立て、歩を休めると音は止み、歩き始めると再び音も始まる。
風も無いのに不思議な事だと思っていられたのも、道半ばの薬師堂位までで、そこを過ぎ山頂までは恐怖との闘いだった。
山頂まで10分位の所に位置する、代々の宮司宅である宮沢、広瀬家に余程逃げ込もうと考えたが、それも思い留まってどうにか監視台まで辿りつき、事の仔細を神社に勤めている仲間の監視員に話すと、「送りオオカミ」だと教えてくれたと言う。
薬師堂跡
山頂直下にある代々の宮司宅
遥拝殿から臨む奥宮
その話を伺いに出向いた暑い夏のある日、話す千島氏の横で私と共に耳を傾けていた氏の奥さんは、連れ添った長い生活の中、繰り返し繰り返し聞かされていた話の注釈を、まるで当事者の様に、時々氏から話を奪って私に聞かせてくれた。
話が終わってから奥さんが一言ポツリと呟いた。
「平平凡々な80年のお父さんの人生!この事だけは余程のことだったんでしょうね!」・・・と。