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Channel: ニホンオオカミを探す会の井戸端会議
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季節料理「ともん」にて

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連休の中日である319日、私が乗る車は入間市に向かっていました。
車中には4名のオオカミ体験者―
2016.10.04夜、奥志賀の岩菅山(2295m)で咆哮を聴いた三田村-川田両氏。
1993.07.11夜、奥利根、水長(みなが)沢文神(もんじん)沢源頭の南沢田代で咆哮を聴いた4名中の1人だった高桑信一氏、そして私。
その1時間前拙宅に集まり、パソコンに収められた多くのイヌ科動物の咆哮と、山中で聴いた自らの咆哮を比較して、来たる秋山郷での調査に思いを馳せていました。

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秋山郷の案内図
 
秋山郷での調査に参加して戴く事になった高桑氏・三田村氏・川田氏と私を含む4名の、顔合わせとして選んだ場所が入間市の季節料理「ともん」でした。
「ともん」の息子さんもオオカミ体験者(20161215日掲載・秩父夜祭の日にを参照)ですし、オヤジさんの秀雄氏は秋山郷に50年近く通っていますので各沢に精通しています。
そこで釣った魚が「ともん」のテーブルに載る訳ですので、遊びで渓流釣りをしている人達とは基本が違っています。
 
渓流歩きのエキスパートでライターの高桑氏・職漁師でライターの戸門氏はお互いの存在を意識していましたが、今回が初対面でした。
当日は息子の剛さんの釣果―31日に新潟の川で釣ってきた尺岩魚4尾―がそれぞれの胃袋に納まった次第ですが、そんなもてなし料理も手伝って話が盛り上がり、延々4時間の長時間滞在になってしまいました。
 
秋山郷での調査は4月中旬の、もう少し暖かくなったタイミングでスタートするべく準備中です。
具体的には、三田村氏聴いた時期・場所に数日間泊まり込み咆哮の収録を試み、また、34箇所に音声収録可能のトレイルカメラを都合10台位設置する予定です。
秩父山中に現在55台稼働中ですので、従来の3か月に1回のカメラメンテナンスは、物理的に不可能になります。
ですので当面4か月に1回の巡回として、出来るだけ秋山郷に足を向ける様にしたいと考えている処です。
4月末でカメラの設置は65台になり、その殆どが音声収録カメラとなります。

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昨年6月咆哮を発したと思われる谷

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昨年咆哮を発したと思われる沢

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昨年咆哮を聴いた処
 
323日には、昨年9月にこの欄で掲載した奥多摩の目撃現場を訪れました。
東京・埼玉県境の周辺で、ウグイスのさえずりを耳にしましたが、お世辞にも上手いと云えない代物は、今年最初の鳴き声だったからでしょうか。
 
現場到着後周辺を散策し、腕力に任せて崖を6070m位這い上がると、目撃者の渡辺さんが云う通りー
山の中腹には、多少広場みたいな所があり、一匹のイヌの様な動物がこちらを見ている。
(距離は、30メートル位じゃないかと思う)大きさは、大型犬位で痩せている。
その後ろを走り捲っているのが数匹(何匹いるのかはよくわからない・・・一匹~二匹じゃないことは確実)
なんだかわからないスピードで走り回っている。
大人しくしていれば可愛いのかもしれないが、吠え捲っている。
(痩せているのに、かなり元気一杯。) しかも、ずっと。≫―そんな状況にマッチしたスペースが在りました。
迷わず私はその場所にカメラを3台設置して来ました。

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奥多摩日原の見取り図

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耕作放棄された山葵田
 
カメラは撮影範囲で動く物が有ると感知して作動します。
それは動物だけでは無しに植物、水面に対しても同じです。
カメラが誤動作しない為、小枝・笹等の削除が大変なのですが、問題はそこが他人の所有地だと云う事です。
今回は運よく撮影範囲にそうした障害物が無かったので、無駄な心配をせずに済みましたが、オオカミ探しは皆さんが考えている以上に苦労が多いのです。

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カメラの前で抱き合う猿の親子

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車両通行止めの為自転車で向かう登山者

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車止めから3時間歩いた現場

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谷の奥に設置したカメラ
 
ニホンオオカミを語るとき、大陸オオカミの別種で有るか亜種で有るか、オオカミとヤマイヌは同じか別で有るか、生態はどうなのか・・・・等々、殆どが手探りの状態です。
今泉先生亡き後その研究の第一人者である小原巌先生でさえ、毛皮等の外部形態を語る事が出来ず、ニホンオオカミは頭骨でしか語れない・・・と仰っているのが現状です。
今私たちは、長年の活動の積み重ねの中で、生態的或る仮説を打ち立てています。
その仮説の証明が為されれば、それで決まりなのですが・・・・。

二ホンオオカミの巣穴

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昨年5月、埼玉県の教育行政に長年関わっていた吉川国男氏から、2017年に埼玉県立川の博物館でニホンオオカミ展を行うので協力して貰いたい旨の連絡が在りました。
手始めに、長瀞町岩根山神社近くの三ノ沢の「オオカミの巣穴」探しに加わって欲しいとの事でした。
この巣穴のオオカミは、作家の戸川幸夫氏も幾度か取り上げ文面として残しています。(狼の軌跡
(余談ですが「狼の軌跡」をご覧になると、かなりのオオカミ通になれると思います。)

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川の博物館パンフレット

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36年撮影・三ノ沢のオオカミ穴

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狼の軌跡が納められた全集12
 
直良信夫著―日本産狼の研究―から、かいつまんで記しますと、『明治43年頃炭焼きがオオカミの巣穴から子供1匹を連れ出し、三ノ沢近くの大沢家にあげたのだが、飼育していた大沢氏の話として、ワンワンと鳴かずオオカミ特有のウォーッ,連れてきた数日は親オオカミが毎晩泣き叫び、板戸をかじったりして大暴れした。
しかしその後はあきらめたのか、野ウサギ、キジ、ネズミ等を仔オオカミの餌にという事か毎晩運んで来たが、それも半月位で止まり、三ノ沢の巣穴からも姿を消した。
一方、大沢家では野生食から次第に飼犬の食生活へと馴らして行き、23年間は家犬同様首輪をはめ、時には散歩にも連れ出した。
成獣になって野生を取り戻し凶暴性を持つ様になった為飼いきれなくなって、同地風布植平の中川家(猟師)に譲った。
その後どうなったのか気にかかる処だが、多分銃殺されたのだろう‥…』としています。

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直良信夫著・日本産狼の研究
 
明治38年の鷲家口最後説を覆す事が出来る有力な情報として、20年以上前真剣に周辺調査をしていましたから、吉川氏の誘いを受け県立川の博物館・大久根茂氏と共に入山しました。
半日捜し歩いた結果、巣穴を探し出すことは叶わなかったのですが、その時様々な思いが駆け巡って来ました。

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三ノ沢源頭部に建つ表示
 
平岩米吉氏はその著書「狼―その生態と歴史―」に於いて、大沢家飼育の動物-オオカミ説-を否定しています。
その理由として『野生食から次第に飼犬の食生活へと馴らして行き…』とあるが、犬と同じ食物では狼の体はもたない!と結論付けをしています。
この事に疑問を持った私は、北海道でタイリクオオカミを飼育している知人の桑原氏に聞いて見た事が有ります。
鹿等の獣肉で飼育するのが最良かも知れないけれど、それでは飼育者の懐がもたないから、市販のドッグフードも混ぜている…。
桑原氏の答えはNoでした。
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平岩米吉著・狼-その生態と歴史

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桑原氏が飼育していたシンリンオオカミ
 
風布の地名は寄居町にも長瀞町にも存在し、地図上で辿ると風布集落は広範囲に人家が点在しています。
三ノ沢周辺を調査していたふた昔前から、風布集落の或る家にオオカミの骨が保存されている事を知っていた私は、その家が上記中川家だとばかり思い込んでいました。
中川家に在るべきものが見つかれば、明治38年のニホンオオカミ鷲家口最後説を覆す事が出来ると意気込み、且つ短絡的に考えていました。
実は「見狼記」に登場する坂本家がその家だったのですが、思い込みで動いていましたから、当然点と点が繋がり線になる事は有りませんでした。
探し歩いたオオカミの骨の所有者-坂本家-に行き着くまで15年の歳月が経っていました。
しかし、私が探し当てたかったのは、三ノ沢の「オオカミの巣穴」から大沢家経由で中川家に貰われていった動物の骨だったのです。

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風布で牙を所有している坂本さん
 
この事例は私が犯した失敗の中の一つでしたが、秩父山中で最もオオカミ事例が多い中の一つ、風布地域で有るが故の失敗だった様に思われます。
何より「見狼記」で紹介した釜山神社の所在地は風布ですし、講者の多くが風布集落の住民なのです。
ついでと言っては何ですが、NPOの理事を務めている岩本敬子さんのお婆さんは明治34年生まれで、埼玉県大里郡旧鉢形村(現寄居町)出身です。
小学校4年(明治44年頃)の遠足で釜伏山に登った際、「釜山神社の縁の下にオオカミが飼育されていたのを見た」と聞かされ、その話が縁で私との交流が始まったのです。
若しかしたら、釜山神社のオオカミは大沢家~中川家~岩松家(釜山神社の宮司)と辿った可能性も充分考えられるのです。
 
随分後の事になりますが、長瀞考古資料研究会主宰の広瀬為人氏から、中川家に、オオカミを飼育していた際の檻がまだ残っている(らしい)事を知らされたのですが、道路脇に放置されていた檻を、遠い記憶の中から呼び戻すだけで、改めて足を運ぶ気持ちは起こりませんでした。

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広瀬氏描・長瀞町井戸周辺のオオカミマップ

ちなみに、この山里ではオオカミと人との関わりも非常に深く、三ノ沢近く・井戸集落の民家にはニホンオオカミの頭骨標本が遺されていますし(下記展示資料一覧のNo10)、近くの蓑山にも、秩父市黒谷、皆野町皆野にもオオカミ穴が在ったと伝わっています。

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井戸の民家に伝わる頭骨標本
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
尚、本年715日(土)から93日(日)の51日間開かれる展示のコンセプトは「神になったオオカミ~秩父山地のオオカミとお犬様信仰~」です。
その趣旨を送られて来た書面から抜粋しますと、
『明治末期に絶滅したとされるオオカミですが、荒川上流に広がる秩父山地は、かってオオカミの生息地でした。
この地域には毛皮や頭骨を保存している家が何件も有り、全国的にも特異な状況を示しています。
江戸時代に始まったとされるお犬様信仰は、関東甲信地方への広がりをみせ、その信仰は現在もなお続いています。
今回の展示では、動物としてのオオカミとともに、神として崇められたオオカミを取り上げ、秩父山地における人と動物との関わりに触れてみたいと思います。
(注)ここで言うオオカミとはニホンオオカミを指し、秩父山地とは埼玉・群馬・長野・山梨・東京の各都県に広がる山地を指しています。
そして展示構成の概略は、『第1章―オオカミの絶滅・第2章―遺されたオオカミ・第3章―描かれたオオカミ・第4章―オオカミは神だった・第5章―オオカミ伝説・〈コラム1〉オオカミは生きている?・〈コラム2〉オオカミの復活・再導入』としていますが、別紙(写真)展示資料一覧をご覧下さい。
3ヶ月先の話になりますが、良かったら皆さんも一度足を運ばれたら如何でしょうか。

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展示資料一覧
    和歌山大学所蔵の剥製が展示される様子

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図版パネル一覧

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オオカミ関連の特別展

かわうそセンセ・町田 吉彦-1

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二ホンカワウソ研究の第一人者、町田吉彦高知大学名誉教授から、分類に関してのお手紙を戴いていますのでご紹介します。
少し専門的になりますが、ニホンオオカミを勉強する上で非常に重要な点が含まれていますので、最後まで読むことを希望します。

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町田吉彦高知大学名誉教授

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かわうそセンセの閑話帳
 
【宗像さんから本(ニホンオオカミは消えたか)を頂戴し,恥ずかしながらニホンオオカミを熱心に探している方々の存在を初めて知りました。
そこで,YouTubeを覗いたところ,貴兄の活動ぶりが紹介されており,まったく頭が下がりました。
松山市で開催される動物園関係者の集会でニホンカワウソの話をしてくれとの依頼があり,どんな内容にしようか悩んでいた処でしたが,本当に勇気づけられました。】で始まる文面の殆どは魚類の分類に関してでした。
 
【類型分類学(記載分類)は早い者勝ちの世界ですから,多くの標本を並べて典型的な標本を1つ選ぶという悠長な事はしません。
たとえば,西日本固有の海の魚であるアカメのホロタイプは高知市の浦戸湾で得られた個体で,全長(吻端から尾鰭の先まで)33cmしかありません(国立科学博物館にあります)。釣り人あこがれの魚です。

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西日本固有の海魚アカメ

が,今や1.2mの個体が釣れてもニュースにならないぐらいです。
こうなると体形もずいぶん違うので,見慣れない人は別種と思うでしょう。
アカメのホロタイプで役に立つ形質は,鰭を支えている骨の数,臀鰭を支えている骨で一番長いのが何番目にあるか,鱗の枚数ぐらいのものです。
魚類の分類の場合,計測形質はほとんど問題にしません。
多くの場合,稚魚から幼魚になる時と,幼魚から成魚になる時に体のプロポーションが大きく変化するためです。
そのため,計数形質を重視します。
本来であれば,種は繁殖集団なのですが,標本で繁殖させることはできないので,これらの計数形質(数えられる形質)が確実に遺伝しているとの暗黙の了解があるのです。
 
典型的な個体をタイプにする唯一のケースがネオタイプの指定です。
ホロタイプ,シンタイプ,レクトタイプのいずれもが消失した場合に限り,その種が属する属内のすべての種を再検討した上で,ある標本をネオタイプに指定できます。
そのチャンスは滅多になく,私の場合は幸運にも約30年間で1例のネオタイプの指定ができました。
 
哺乳類の場合は歯が残っていればその摩耗の程度で年齢がおよそ推定できるのではないでしょうか? 
確かに,写真を見る限りニホンオオカミは小さいという印象を受けます。
私は生きたニホンカワウソを見たことはありませんが,毛皮で見る限り,高知県の須崎市教育委員会が保管している個体が最大で,全長140cmはあります。
これは,中国・韓国・ヨーロッパのカワウソをはるかに凌ぐサイズです。
しかし,剥製では極めて貧弱な個体しかないのが本当に残念です。

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二ホンカワウソの剥製

「これは小さい!」という印象の剥製がほとんどであり,「大きい」という印象を受けるのは黒潮町佐賀の役場にある個体のみですが,
これは罠で捕まったものではなく,交通事故死した個体です。
実はこの個体を発見した人は黒潮町佐賀の漁師さんで,それを知った時は驚きでした。
 
やはり現場に出ないと何も分かりません。
地元の方々に教えを乞う,情報を提供してもらうのが一番です。
最近は釣り人からの有力な情報があり,心強い限りです。
1979年に須崎市の新荘川に出没したカワウソは、例外中の例外だという事がなぜ研究者に分からないのか不思議です。
 
ホロタイプは典型的あるいは標準的な個体ではありません。
典型的あるいは標準的な個体かどうかはたくさんの例が出て来て初めて明らかになるのです。
それと生物学で大切なことは,種内変異(個体変異)があるのが当然だという事です。
逆に言うと,変異があるからこそ種の解明に迫る楽しさがあるのです。
どれだけの変異があるかは分かりません。
 
逆に,変異の幅が予め分かっていたら生物学の楽しさは失われます。
ニホンオオカミの学名がどうであれ,日本に居るのがニホンオオカミであり,変異があって当たり前なのです。
変異の解釈は専門家でも誤ることがあります。
修正,また修正の繰り返しが分類学であり科学です(この心境に達するには修練が必要ですが)。
 
タイプ標本について
ニホンオオカミのタイプ標本の詳細について初めて知りました。(注1
 
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ニホンオオカミのホロタイプ

原記載にあたって複数の標本を一括して使うことが1900年代にはよくありました(現在は禁止です)。
仮に10標本を使ったとすると、それぞれがまったく等しい価値があるとみなし、一括してシンタイプと称されていました。
(古くは総模式標本:2000年に国際動物命名規約が大改訂され、日本語の規約も正本になり、用語も整理されました)
現在は、複数の標本に基づく原記載にあたっては、1標本をホロタイプ(古くは完模式標本、正基準標本など)に指定し、残りをパラタイプ(副模式標本)に指定するという決まりがあります。
この場合、ホロタイプが事故で失われた時、パラタイプの中から1標本を選んでホロタイプに指定し直すことはできません。
ホロタイプとパラタイプでは標本としての重さがまったく異なります。
 
シンタイプに複数の種が混在していた例は魚にもあります。
ファウナ・ヤポニカの魚類はテミンクとシュレーゲルが著者で、新学名が提唱された標本はすべて新タイプです。
後年その標本がM. Boeseman(オランダ人、ブスマンと発音します)により整理されました。
その際、1種の中で複数の標本がある場合、1標本をレクトタイプ(後模式標本:現在のホロタイプに相当する標本)に指定し、他をパラレクトタイプ(副後模式標本:現在のパラタイプに相当する標本)に指定し直しました。
これは、ルール上、認められた行為です。
ここで大切なのは、ホロタイプ、レクトタイプ、シンタイプは担名(たんめい)タイプと称され、学名に直接関与する標本であるということです。
極端な話、パラタイプ、パラレクトタイプはあってもなくても良いということです。
また、シンタイプが通用していた時代に1個体のみで記載された場合、その標本は自動的にホロタイプとみなします。
ニホンオオカミもレクトタイプ指定が必要なのは明らかですが、これが難問であることが「ニホンオオカミは消えたか?」でよく分かりました。
 
ホロタイプがその種の典型的な標本である保証はありません。
これが実は類型分類学(目で見える形質に基づく、伝統的分類学:新学名を提唱できる唯一の方法)の泣き所です。
私も(町田)1個体のみで新種を記載したことがあります。
ホロタイプがあれば良いので、ルール違反ではありません。
その際、他の種と比較してギャップのある形質が3ないし4つあれば「経験的に」未知の種であると判断します。
数えられる形質であれば然程問題になりませんが、連続した形質(例えば体長、鰭の長さなど)の場合は慎重にならざるを得ません。
複数の標本からホロタイプを選ぶ場合、オスの最大個体を指定する(雌雄差がなくて雄の標本が小さい場合は雌の最大個体)のが暗黙のルールです。
不連続な形質の場合、多くは正規分布となり、平均値が「典型的な値」となります。
また、数えられる形質の場合、最頻値が「典型的な値」となります。
 
しかし、命名にあたってはこの典型的値を考慮しません。
典型的値は、ホロタイプによく似た標本を多数検討した後に分かることなのです。
要するに、ホロタイプはその種の典型的な標本ではなく、ホロタイプが種全体のどのあたりに位置するかは後ほど分かるということを予め了解した上で命名しているのです。
ですから、学名は仮説でしかないのです。
 
ホロタイプを検討すれば疑問が氷解する訳ではありません。
ホロタイプとどの程度違うのかを統計処理する方法もよくあります。
それは、その形質に差がある、差がないを確認するだけで、繁殖集団としての種の判別にはなりません。
 
この例で、差があるとなれば、「学名の変更があり得る」、差がなければ「学名を変更する必要がない」という根拠にはなります。
これらは、新学名に関わる記載は標本(死んでいる!)に基づくという絶対的なルールがある以上、避けられないことなのです。
どの形質がどの程度ちがうと差があるとみなすのかは、明らかに主観に基づくことであり、生物学が「あいまい科学」であるという非難が集中する部分でもあります。
しかし、お分かりのように、類型分類学はまず区別するための学名を付けないと(仮説を立てないと)何も始まりませんよ、ホロタイプはその種の典型的な標本ではありませんよ、ということを理解した上で成り立っている学問なのです(そんなのは学問ではない、と断言する人もたくさんいますが)。
 
生殖的隔離機構という術語があるので、少し調べられる事を希望します。
(種が確立する過程生物獲得した生殖器の構造生殖行動違いなど、異種間の交雑を防ぐための様々な機構。)
野生動物がなぜ異種と交配しないのか、また、交配した場合、どうなるのかについての仮説です。
ただし、これだけで種が説明できるほど生物は簡単な存在ではありません。
いまだ「種」を一言で定義することは不可能です。】
 
1にて示したニホンオオカミ(Canis hodophilax)のホロタイプ(模式標本)ですが、ライデン国立自然史博物館に3個体分の標本があります。
ニホンオオカミ研究の第一人者である小原巌先生が2002年に発表した「ライデン国立自然史博物館所蔵のニホンオオカミ及び日本在来犬標本について」に依ると、
【この3個体は今泉(1970)の整理に従うと次のようになる。
L1:
頭骨(a)と体骨格(a,ad,日本,Burger採集.

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 L1: 頭骨(a

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L1: 頭骨(a
     A:側面、B:前面、C:上面、D:下面


L2: 頭骨(b)、性不明ad.,日本、Siebold採集

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L2: 頭骨(b

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L2: 頭骨(b
     A:側面、B:前面、C:上面、D:下面

L3: 頭骨(c)と本剥製(a,()old,日本、Burger採集.タイプ標本

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L3: 頭骨(c

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L3: 頭骨(c
     A:側面、B:前面、C:上面、D:下面
 
Jentink(1892)によりhodophilaxのタイプは、この標本のうちの本剥製の(a)と頭骨の(c)とされた(今泉、1970)。
また、この3標本の分類学的な固定は今泉(1970)に詳述されている。
その結果は、L1はイヌCanisfamiriaris, L2及びL3はニホンオオカミhodophilaxであった。】と記されています。
私は頭骨(C)の正体を「ヤマイヌ」ではないかと推察しているのですが、とすると、ニホンオオカミの模式標本3点は、それぞれ別の動物であったことになる訳です。
詳細をご覧になりたい方はhttp://www.geocities.jp/canisyagi/index.htmlのSCIENCEをご覧ください。

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  各々の頭骨を同一テーブルに並べ比較すると、
各頭骨の大きさや、下顎が接地する部分の違いが分かる。
hodophilaxL2(中)及びL3(左))では下顎角部が接地せずに静止するが、
famiriarisL1)(右)は下顎角部が接地している。

かわうそセンセ・町田 吉彦-2

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199432021日。
奈良県のナチュラリスト達が同県東吉野村で、二ホンオオカミフォーラムを開きました。
メディアに大きく扱われた訳では無かったのですが、全国紙の社会面に小さく『二ホンオオカミの剥製新発見?』として掲載され、「ニホンオオカミフォーラム」を行うと記されていたので、急いで問い合わせをし参加しました。
100名位の参加者が狭い部屋に詰め込まれ、そうした意味で熱気溢れる会場となったのですが、会の中身はサメザメした空気が流れていました。
二ホンオオカミは「紀伊半島の3大幻獣」としての位置づけで、イヌワシ・ニホンカワウソがそれに含まれ、サツキマス・ルーミスシジミ・オコジョ・岩魚・ヤマメの生息例まで披露された、費用対効果の悪さが目立った会となっていました。

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イヌだった剥製

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1994年フォーラムの式次第

そもそも主催者は知識が貧困で、フォーラムで何を為すか!と言うよりメディアに取り上げて貰い、名を挙げたい…そんな気持ちがありありの人でした。
 
何かが行われる時、そこには様々な思惑を持った人が集まります。
関東圏からも十指に余る人達が、大きなエネルギーを払って奈良まで足を運びました。
博物館の研究者、学者の卵、そして単なるマニア。
食事を兼ねたその夜の交流会、単なるマニアで同じ志を持つ者が、近未来での再会を約束し、その後の「探す会」の礎になったのです。
その中の一人に栃木県那須市在住の長岡郁生氏が居りました。

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20年前の長岡郁生氏
 
長岡氏は絶滅論者ですが、声を掛ければ会合に那須から車を走らせ、見つからなかった事に安堵する変わった研究者でした。
京都から50ccバイクで3日かけて駆け付ける岡田氏と共に、3人で一晩中火を囲み酒を飲みながらするオオカミ談義は至福そのもの。
最初大勢の仲間がキャンプを囲んでいるのですが、一人減り二人減りして、夜が明けた時には何時もこの3人が残ったのです。
 
そんなオオカミ談義の時だったと思います。
長岡氏から「ニホンカワウソ」の生存に関し、重要な証拠を持っていると1枚の写真を見せられました。
軽自動車で日本中何処にでも出かける氏は、198812月末、紀伊半島の或る林道にニホンオオカミ絶滅確認の為車を走らせ、偶然その写真を撮った訳です。
当時の私は二ホンカワウソに関し全く未知で、私淑していた今泉吉典博士に写真の所見を伺いました。

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今泉先生の追悼抄

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今泉先生からの書簡

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ニホンオオカミの神経孔

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神経孔のスケッチ

博士はカワウソの前足、後足である事を肯定し、その後吉行瑞子博士も同様の所見を述べられました。
 
その20年後になりましたが、念の為、町田先生にも写真の所見を伺う事に致しました。
 
Y)【書面等を御覧願えればと存じます。
私が私淑しています(いました)今泉、吉行両先生も二ホンカワウソの研究者である事はご承知の通りです。
両先生とも写真をニホンカワウソの足跡と認知されましたが、これは19881220日に紀伊半島の山中で研究仲間が撮影した物です。
数年前のカワウソ絶滅宣言に、今泉先生が存命でしたら、心中如何ばかりかと思う次第です。】
 
) 【昨日,論文のコピーと今泉博士の手紙のコピーを受け取りました。
ありがとう御座います。
この足跡の写真は未公表なのでしょうか? 
前後の足跡があるきわめて貴重な写真だと思います。
取り急ぎ御礼まで。】

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ニホンカワウソの足跡写真
 
そしてこんなやり取りを続けました、。
 
Y【昨年618日、奥秩父山中の沢筋で渓流釣りをしていた人たち(3~4人)から、「頭胴長1m位、全身黒毛だったが、胸周辺は白い、釣りの邪魔をする動物」を見つけた…と、連絡を戴きました。
私の知識の中ではカワウソ以外考えられませんので、カワウソの民間研究者で知人の「熊谷さとし」氏に問い合わせました。
氏はカワウソで有る事を否定しませんでしたが、情報提供者が信用できるかどうかに話が向けられ、前に進む事が出来ませんでした。
幸い私たちがニホンオオカミ探しをしている山域でしたので、その動物が何であるか解れば…とも考えトレイルカメラを10台設置して観察中です。
信じ難い事ですが、6/18の夜キャンプ中に、オオカミと思われる動物がキャンプサイト5mに現れたとも言っているのです。(詳細は当ブログ2016.08.12.オオカミが魅入った人に掲載)
山中のカメラでニホンオオカミらしきイヌ科動物を撮れても、生存の証明に漕ぎ着けるまで幾多の山を越えなければなりませんが、カワウソならば案外容易いのでは…との思惑も有りますし、奥秩父山中でのカワウソ目撃例が他にもあるのです。
映像として得られた暁には町田先生にお願いすることになるやも知れませんが、その節は宜しくお願い致します。】
 
M【ご連絡ありがとう御座います。お役に立てそうなことがありましたら,いつでもご連絡ください。
奥秩父の情報,大変興味があります。実はカワウソの絶滅宣言が出された時、確か中部地方か関東地方かのマスコミ関係者から電話があり、
秩父の方には居ないのかという電話での質問を受けたことがあります。
「土地の情報に不案内なので,居るとも居ないとも言えない」と対応した覚えがあります。
退職後に得られたこちらのカワウソの情報は驚くほど人家の近くです。
人気のない所に絞っていたのがよくなかったと思います。
現在、高知県レッドデータブックの改訂作業の終盤で、しばらくはこれに集中せねばなりません(委員長兼魚類分科会代表,甲殻類分科会委員です)。
何とか時間を見つけては無人カメラの設置(今、中断中です)を再開するつもりです。】
 
Y)【カワウソの足跡の写真は未発表です。
多くのメディアも欲しがった写真ですが、全て断りました。
今泉吉典・吉行瑞子両先生が認知した写真を、何時か町田先生と接触が叶った暁にお渡ししたいと考えていた次第です。
生存説の論文、講演等で自由にお使い願えればとも思う次第ですが、撮影者が私ではないので、筋として撮影者N氏の了解を得るべきと考えます。】
 
先日、秋山郷調査の件で高桑信一氏と季節料理「ともん」に出向いた際、氏に「イヌ科動物を撮れても、生存の証明に漕ぎ着けるまで幾多の山を越えなければならないが、カワウソならば案外容易いのでは!」と問いかけると、間髪入れずに同意の答えが返って来ました。

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高桑信一氏

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戸門剛(左)さんと秀雄(右)氏
 
毎週山中に足を運びカメラメンテナンスをしている私ですが、全山の笹枯れに比例した状態で、鹿・羚羊の個体数激減が著しい事はこのブログ上で幾度も記している処です。
にも拘らず、本年5月から再び奥秩父山中で鹿の駆除が予定されています。

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424日に見つけた表示

これ以上鹿の個体数が減ると、奥秩父山中でのオオカミの生息が難しくなりますので、早く駆除中止まで漕ぎつけなければ…その為にはカワウソでもオオカミでも良いから、何とか撮影を…と願っている私です

犬山黙れ!熊山騒げ!

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明治38年(1905)ニホンオオカミ絶滅説をどの時点で定説としたのか解りませんが、1905年以降の生存情報を収集した書籍としては、岸田日出男氏の「日本狼物語」松山氏の「狩りの語部」が出色しています。

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法政大学出版局刊「狩りの語部」

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岸田日出男著「日本狼物語」

狩りの語部は入手し難い書籍ですが市販本として認知されています。
が、日本狼物語は市販されておらず、入手はおろか読む事さえ難しいので、一念発起して三峯博物館で書籍化した次第です。
 
1910年生まれの松山氏は1935年頃から故郷伊那谷の民俗調査に従事し、その集大成として「狩りの語部」を著す訳ですが、この種の書籍としては俊逸だと私は考えます。
尚、この書籍は1977年度内閣総理大臣賞、レディ・ガスコイン賞を受賞しています。
松山義雄氏の名前を最初に知ったのは、平岩米吉氏が主催する「動物文学」中でした。

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「動物文学」の主要部をコピー
 
20年くらい前のことですが、図書館で貸し出し禁止の「動物文学」全巻を紐解き、掲載されている二ホンオオカミ関連記事をコピーした事が有ります。
一日がかりの作業でしたが、コピーを束ねると分厚い書籍と化していました。
松山氏の動物文学への投稿数は非常に多かったのですが、生存に関する情報はことごとく否定されました。
そうした積み重ねも「狩りの語部」執筆に繋がったのでは無いかと私は思っています。

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「狩りの語部」に掲載されている頭骨
 
全てと言う訳にはいきませんが、オオカミに関して注視すべき文面をここで紹介致します。
「病狼以外は人を襲わない」とする理論構築の方たちには、客観的な立場で是非ご覧戴きたいものです。
 
焼き畑にオオカミが多い  
人間のあとをつけてくる狼のことを伊那谷では"送り犬"と呼んできた。
犬と呼ぶのは、狼のことを別名"山犬"とも呼んでいるからである。
ところで一般に、焼畑農業地帯には狼が多かった。
三峰川谷(ミブガワダニ)も焼畑の盛んな山郷だったから狼が多く、送り犬の話など枚挙にいとまないほど多かった。
狼が人の後ろをつけてくるのは、動物学が認めている狼の習性の一つにはちがいないが、人を襲うのが目的ではなく、珍しいものに対する好奇心がそうさせるのだから、送り犬が人間に害を加えるようなことは、まずはありえないことである。
しかし、送られる側の人間にとっては、このくらい神経の疲れることはないから、そこでなんとかして一刻も早く、狼にお引き取りを願うため、種々と追い返し策が考えられてきた。
たとえば、三峰川谷の前浦あたりの人は、年の暮れの節季買いに高遠町へ出かけて行くと、その帰りは道のりの関係で夜になることが多かった。
すると浦地籍の三十三まがり(地名)のあたりから、山犬に送られたものだが、家の近くまで来たとき、「ごくろう」と、言ってやると、何事もなく狼は帰って行った。
このように"ごくろう"とか、"ありがとう"とか言って、送ってきてくれた労をねぎらってやるのも、その一方法であったし、また、「ここが俺の家だから、もう帰れよ。」と言って、身につけている品物を路上に投げて、狼に与えてやるのがよいとも言われてきたが、その根底には、狼の好奇心を利用する考えがあったようだ。

 
【ちなみに、秩父では山焼きをサスと呼んでいます。
谷の奥の耕地に、茗荷差(ミョウガザス)・白井差(シライザス)・大指(オオザス)・等のサスの名のついた所がありますが、山焼きで開いた山畑の名残りです。
古典用語で差すを「火をともす」とありますので、その辺からの引用だったのかも知れません。】

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焼き畑の風景(新潮社刊秩父路50年より)
 
犬山だまれ、熊山騒げ
三峰川谷の市野瀬には“大よけ”という所に「犬待ち場」があった。
犬待ち場というのは、狼がそこに犬つくばいなどして、ほとんど常時姿を見せている場所の事。
その前を通り抜けるとき「やあ、こんにちは。」くらいの言葉を狼にかけるのが、伊那谷では常識となっていた。
 
雪が積もって道が凍るようになると、村人は腰にカンジキを下げて歩いたものだが、そのカンジキが触れ合ってチャリン、チャリンと音が響くと、耳さとい狼たちが聞きつけあちこちで吠えだし、やがてそれが気味の悪い「モー・モー」という大きな合唱に変わるのだった。
このように、物音を聞きつけると音の正体を求めて活動する習性が狼にはあるので、伊那谷では「犬山だまれ、熊山騒げ」と昔から言われて来た。
 
【「山菜取りに行って熊に襲われる」と云ったニュースが流れる季節ですが、小屋番をしていた頃私は、下界の情報を得るためと熊よけ対策に、ラジオを掛けっぱなしで山頂小屋との往復をしていました。
そんな或る夏の深夜、オオカミの咆哮を聴き下の小屋に逃げ帰ったのですが、荷が重かった為ラジオは持参しませんでした。
あの時ラジオを掛けていたら、谷底に響くオオカミの大合唱が聴こえていたかも知れません・・・・・たら、れば、の世界ですが。
京都方面から届いた情報では「オオカミの咆哮は牛の鳴き声に似ている」と云うのが有りましたが、上記の件だったのかも・・・と思っています。
また私は、1998211日(建国記念日)AM1100に山中で、サイレンか牛の吠え声か間違う様な遠吠えの後、ウォーーーンと腹に響く咆哮を聴いたことが有ります。
今でもその周辺に、音声収録可のトレイルカメラが10台近く設置してあり、吉報を待っています。】
 
クダショウの話
遠山地方には、理由は解らないが、昔からクダショウ持ちという家があった。
クダショウはネズミのような形をしており、尾が平らで目は丸、ひげが長く、色はトチ、黒、白、ブチなどいろいろあるという。
家クダショウ、山クダショウ、沢クダショウの3種があり、家クダショウは山クダショウより体が大きく、脚に水かきがあり、尾は太く、丸顔であるという。
クダショウは生味噌が大好物で、クダショウに舐められた味噌は駄目になる。
彼らは一つの家に75匹おり、飼い主の心を読んで、他人に憑くなど様々な悪さをする。
クダショウを飼う家は、そのおかげで一時は裕福になるが、クダショウはネズミ算式に数が増えるので、いずれは財産を食いつぶされる。
熱でうなされた病人が、「俺はどこどこの家から来たクダショウだ」と口走ることがある。
そんなときは、禰宜を呼んで「送りたて」を行なう。
水窪の山住神社は狼がお使いなので、そこから箱に入った「お犬様」を迎えてくると、クダショウは怖がって離れる。

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水窪町・山住神社のお札

 
19616月に中立の老婆が熱病にかかって以来、遠山ではクダショウに憑かれた例はない。
このときは風折の禰宜が呼ばれ、不動経をあげてクダショウを落とした。
(狩りの語部にもクダショウ関連の文面が見られますが、この項は『山国の神と人』『南信濃村史 遠山』を参照しました。)
 
【クダショウは秩父で云う「オオサキ憑き」のことで、オオサキはオコジョのことです。
他地方でそれらを「キツネ憑き」と云いますが、遠山郷も秩父も山里で、多くが山から生活の糧を得ていた為貧しく、病にかかっても薬代に事欠き信仰にすがったのかも知れません。
通常、神社の発行するお札が、各家の魔除けとして効力を発揮していたのでしょうが、オオサキが憑いてしまうと、より効力のあるオイヌ様におすがりし、病人の枕元に頭骨等を置いて落ちるのを待つ訳です。
それで運よく病気が治れば良いのですが、そうでない場合骨等を削って飲み、憑き物を体外に追い出す・・・。
秩父地方に現存するニホンオオカミの頭骨標本は3点で、その全てに薬物として用いられた形跡が見られます。
都下旧日の出町に在る、井上家の標本を私が調査したのは20年前の事ですが、その10年前「憑き物落としで貸し出した」と云ってたのを思い出しました。】

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秩父市内多比羅家の頭骨

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長瀞町井戸・井上家の頭骨

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小鹿野町常木家の根付け

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都下旧日の出町井上家の標本

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 御嶽神社片桐家の頭骨
 御師である当家にすがった人の多さが判る
 
その他にも、「転倒すると何故オオカミに食われるか」、「地上に横たわるものは命生なきものと見做す」P126、「人間を襲って来ないオオカミを射殺すると祟りがある」P135
「値打ちの無いオオカミ」P149.150.152.153、「狼の牙は博打打の必需品」P152,等、興味深い話が盛り沢山の書物です。
長野県内でも伊那谷は民有林率の高い地域(全体の80%)でしたから、日常生活で自由に山奥に分け入って行けました。
その為、動物たちとの接点も昔から豊富だったのでしょう。
しかし遠山谷のように、明治12年以来、広大な共有林が外部資本に売却されて製紙会社のものとなってからは、山林伐採も大乱伐となって森林は丸裸になったそうです。
狼もそのころから生息数を減らして行ったのかも知れません。

送りオオカミに遭った人

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前号「犬山黙れ!熊山騒げ!」で、伝えられているニホンオオカミの生態を紹介しましたが、実は「送りオオカミ」の経験をされた方からお話を聞いたことが有ります。
お話を伺ったのは今から112年前の夏のことで、文面として残したのもお話を聞いて興奮冷めやらぬ頃のことです。
尚「送りオオカミ」に遭った体験は太平洋戦争真っ只中の時のことですので、その辺をお含み置き戴ければと考えます。
 
旧秩父郡荒川村在住の千島久幸氏は大正15年生まれ。
荒川村に移る前は、生まれ育った大滝村強石で長い間暮らしていた。
ロープウェイ駅の近く、三峰山頂に神社の建物が有り、その上に監視台を作り、敵機襲来に備え1班8人体制、5~6班交替で24時間張り付いての監視で、当時青年学校に通っていた千島久幸氏も加わっていた。
 
夜の監視に立つと、周りの山から・・・あるときは和名倉山の方面から、あるときは妙法ヶ岳方面から、明らかに犬の遠吠えとは違う・・・腹の底から響くような、地響きがするような咆哮を、繰り返し聞いていた。
監視に立った50人以上の人たち全てが例外無く耳にし、耳にした全ての人達が、ニホンオオカミの遠吠えである事を疑わなかった。
(その中の一人として宮川淳一氏も居たのですが、宮川氏の関しては201692日のこの欄「神領・三峯の猟師―2」をご覧ください。)
大都会に住む学者、知識人が、ニホンオオカミ絶滅をしたり顔で語っていた頃、埼玉県最深部三峰山頂の、夜の監視に立つ若者たちは、存在していない筈のニホンオオカミの咆哮を聞いていた。

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三峰から臨む和名倉山

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和名倉山から臨む三峰神社・集落・奥宮
 
ガソリン・石油・石炭はその殆どが軍需品とされ、庶民の生活から姿を消し、それらに代わる木炭の増産が求められ、秩父の各町村にも供出割り当てが課せられるようになっていた。
そして戦争の長期化に伴い、米・みそ・酒・マッチなどと同様に、家庭で使う木炭も切符配給制になった。

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裸足で炭俵を背負う戦時中の女学生

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炭俵を負い延々と続く学生の列

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山を開墾し食料増産に励む学生達
 
戦争が激化した、そうした頃、千島久幸氏は同じ三峰山中で、もっと不思議な体験をしている。
昭和17or8年夏の深夜、半鐘が鳴り警戒警報が発令された為、カーバイトのカンテラ頼りに、麓から山頂の監視台まで歩く羽目に陥った。
日中ならロープウェイに乗って苦も無く行けるのだが、非常事態発令中のことで真夜中だったが、一人神社への参道を登って行ったのだ。

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三峰表参道登山口
 
ロープウェイ山麓駅を過ぎ暫くすると、清浄の滝が懸かっているが、そこまでは広く整備され月の明かりも手伝って、難なく歩く事が出来た。
滝に架かった橋を渡ると、途端に道幅が狭くなり、参道として整備されてはいても、鬱蒼とした林の中を歩く状態で、道の左右は熊笹が山頂まで続いていた。
千島氏が異変に気がついたのは、滝を越えて間もなくだった。

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清浄の滝全景
 
千島氏の後を追うがごとく、歩く度熊笹の中を何かが「ガサガサ」と音を立て、歩を休めると音は止み、歩き始めると再び音も始まる。
風も無いのに不思議な事だと思っていられたのも、道半ばの薬師堂位までで、そこを過ぎ山頂までは恐怖との闘いだった。
山頂まで10分位の所に位置する、代々の宮司宅である宮沢、広瀬家に余程逃げ込もうと考えたが、それも思い留まってどうにか監視台まで辿りつき、事の仔細を神社に勤めている仲間の監視員に話すと、「送りオオカミ」だと教えてくれたと言う。

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薬師堂跡

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山頂直下にある代々の宮司宅

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遥拝殿から臨む奥宮
 
その話を伺いに出向いた暑い夏のある日、話す千島氏の横で私と共に耳を傾けていた氏の奥さんは、連れ添った長い生活の中、繰り返し繰り返し聞かされていた話の注釈を、まるで当事者の様に、時々氏から話を奪って私に聞かせてくれた。
話が終わってから奥さんが一言ポツリと呟いた。
「平平凡々な80年のお父さんの人生!この事だけは余程のことだったんでしょうね!」・・・と。

秋山郷にて

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当ブログ上で2度紹介した三田村孝さんの秋山郷でのオオカミ体験。
1度目は昨年610日、2度目は同じく104日で、いずれも同行者共々の体験でした。
三田村さんの体験場所は同じルート上で、周辺調査は昨年10月下旬に行いましたので、本年522日・29日の両日、カメラ設置に行って来ました。
 
切明からの奥志賀林道は未開通ですので、522日は上信越道・信州中野インター経由で奥志賀入山でしたが、生憎目的箇所8km手前のゲートで止められ、炎天下の舗装道路を延々歩く事になったのです。
暑さと重い荷物でくじけてしまい、設置が調査に変わり、散々な気持ちで帰宅となった次第です。

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奥志賀高原・岩魚天然産卵場の河原

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雑魚川の河原に咲く山桜

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昔懐かしい籠乗りの渡し

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志賀高原漁業協同組合の看板

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道路上の車止め
 
翌週29日新潟県津南町のセブンイレブンで昼飯の御握りを買い山中に向かったのですが、AM330自宅出発の努力に報いられる、近来に無い楽しい山歩きになりました。

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秋山郷の案内標
 
数日前開通した奥志賀林道は、今まさに春真っ盛りと云った感じですが、所々雪渓が押し寄せ、山深さ満杯の風情です。
半世紀前経験し、この道に入るきっかけとなった思い出の苗場山も姿を現し、ルンルン気分での入山ですが、如何せん林道は車の通行が予想以上で、講冷めの感がする程です。
カメラ片手の人、渓流釣りの人、山菜採りの人、名古屋ナンバー、岡山ナンバー、遠く福岡ナンバーの車も通り過ぎました。
先週は山桜の出迎えでしたが、今週は三つ葉ツツジになっていました。

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秋山郷からの苗場山

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到る所にこんな雪渓が

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雑魚川河原の三つ葉ツツジ
 
トレイルカメラ9台を設置する為若い会員さん同行でしたが、平日こんな処に他の人間が来る筈無いって場所で休憩していたら、筈が無い事が起こりました。
同じ思いの知らない同士で話をしていると、同郷で、共通の友人のいる事が判明し、10kmの帰り道、車に乗せて貰える事になったのです。
なぜだかその時、「具体的に動いてみるんだね。具体的に動けば具体的な答えが出るから」“あいだみつを“のこんな言葉が頭を過りました。

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カメラの設置風景

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雑魚川支流に掛かる吊り橋

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雑魚川の清流―1

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雑魚川の清流―2
 
山中深く、昼食を摂っていた際、同行者共々感じた事です。
どうも、新潟県下のセブンイレブンで販売している御握りは、他県の御握りとは別物みたいです。
埼玉県下と比べて、値段は同じでも、米も具も大きさも、グレードアップした代物なんです。
新潟県下の友人はその事を知っていました。
ダイエット中の方にはお勧めしませんが、宜しかったら皆さん、新潟方面に出かけた際試してみませんか。

雲取山のニホンオオカミ-1

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居住地の上尾から新潟の実家に帰る途中、臨める山々の中で百名山は、丹沢山・富士山・大菩薩嶺・雲取山・両神山・筑波山・男体山・皇海山・日光白根山・赤城山・浅間山・武尊山・谷川岳・苗場山・巻機山・魚沼駒ケ岳の16座を数えられます。
私としては、実家から見え小さい頃から親しんだ魚沼駒ケ岳が一番立派に感じ、玄関に飾ってある早津剛画伯が描いた魚沼三山は、来宅する山岳関係者の全てが称賛する風景です。
16座中でも多くの山でオオカミ体験者が有り、私の下に届いていないのは筑波山だけです。
当然魚沼駒ケ岳もその中の一つですが、今回は東京都の最高峰として毎年多くの登山者が目指す、雲取山(2.017m)でのオオカミ体験を紹介します。

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早津剛の描く魚沼三山
   左から駒ケ岳・中の岳・八海山
 
山登りを続け経験を積んで、百名山を目指す様になる方が結構いるんですが、そんな中に石川県加賀市の沢喜代美さんがいます。
多くの事例がそうである様に、沢さんと私は全く面識が無く、メディアで私が紹介された際存在を知り、情報提供に至った典型的な例の一つです。
 
19928月のある夜、山仲間と連れ立って石川県加賀市を出発した沢さんは、関越自動車道路経由で奥秩父まで来たのですが、長旅に加え深夜三峰神社への山道を走る不安を感じ、国道140号線沿いの駐車スペースで仮眠を取りました。
翌早朝神社の駐車場を後に雲取山へ向かいましたが、20数年の山暦を数える沢さんは、これから始まる長い道のりを考え少しでも早く出発したかったので、下山後神社の参拝をしようと考えました。
参拝は兎も角、事前にガイドブックか何かで予備知識を得ていたなら、その後の展開が大きく変わっていたのでしょうが。

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三峰神社境内から雲取山を望む
 
一般的には6時間のコースタイムを要する行程ですが、石川県からの長旅が重なってか、沢さんには辛い雲取登山になりました。
ただ、道中には慰められることもあり、白岩小屋付近で雌鹿にバナナをやったり、写真を撮ったり、それはそれで想い出を一杯作る事の出来た山旅でした。
山頂直下30分位の所にある雲取山荘にその日の宿を取り、空身で頂上まで往復しようと小屋の外に出た時でした。
高床になっている箇所から小屋の裏手に眼を向けると、「こういう山中には不釣合いな立派なイヌ」が居るのに気付きました。

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神社から90分で霧藻ヶ峰に着く

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沢さんが鹿と遊んだ白岩小屋

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オオカミと遭遇した雲取山荘
 
その“イヌ”は獲物を追っているのか、他の“イヌ”の痕跡を求めているのか、頭を下げて匂いを嗅ぐ様子を見せながら、立ち止まらずに小屋の裏手を抜けて、沢さんの視界から消えました。
白岩小屋で鹿と遊んだ時使ったコンパクトカメラを右手に持っていたのですが、『誰が連れて来たんだろう!側に来たらウエストバックの中の食べ物でもあげよう』と、イヌとの接触だけを考えていた為、写真撮影は全く考えませんでした。
加賀市から常に一緒の行動をしながら、その時も側にいた沢さんの連れは、この時、すぐ目の前にいた“そのイヌ”には「全く気が付かなかった」そうです。
 
体の左側面を見せながら視界に入った動物は、小型のシェパード位で耳は立ち、尻尾は垂れ、意に反し、林の奥へと消えて行ったのですが、その間45秒の出来事だったと云います。
カメラの用意はあったのですから、その気になれば写す事も可能だったのですが、『立派なイヌがこんな山中に』と云う感覚ばかりで、撮影には至らなかったのでした。

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沢さんが良く似ていると云った動物
    九州の祖母山にて撮影
 
30分後雲取山頂に立ったのですが、あいにく霧が立ち込めて視界が利かずガッカリの状態でした。
が、“東京都の最高峰に立ってみたい”という願いは叶い、その事に満足しながら小屋に戻りました。
その日雲取山荘は夏の登山シーズンにもかかわらず、20人程しか宿泊者が居らず全員に聞きましたが、イヌを連れてきた人はいなかったし、小屋でイヌを飼っている事もありませんでした。

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雲取山(2.017m)山頂

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雲取山頂近くに在る狼平

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雲取山近くに在る七ツ石神社

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社殿の中の壊れそうなオオカミ像
 
翌日、三峰神社の宿坊の大浴場で汗を流した後土産物を見ていると、ニホンオオカミのロゴがやけに目に付いたので、若しかしてと思い参道を回って見ると、狛犬の代わりにお犬様像ばかりで、ニホンオオカミが神社の御眷族である事を知りました。
そこで初めて、昨日見た動物が「ニホンオオカミだったかも知れない」と、思いを巡らせたのです。
そうであるなら、何を差し置いても写真を撮っていたのに・・・と仰っていましたが、全ては後の祭りでした。

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三峰神社境内のお犬さま

私が沢さんから体験談を聞いた数年後、私の運転する車の前に秩父野犬が現れるのですが、その時は動物の特徴を聞くだけで、比較する材料を持ち合わせていませんでした。
ただ、同時期埼玉県の山岳救助隊の4人が、同じ山域で遭遇していたので、それぞれの体験が繋がり、私の中で太い線になったのです。

雲取山のニホンオオカミー2

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秩父の山中に分け入ってみると、よくもこんな所まで・・・と思えるほど林道が奥深く延びているのが解ります。
もっともそれは秩父に限ったことでは無く、日本中の山という山に林道が張り巡らされていると言って差し支えないと思います。
飛行機に乗って上空から山々を眺めた時に、より一層,事の深刻さに気が付くのですが時すでに遅し。
 
山中での営みを続ける動物たちの意思に関係なく、林道により森林は分断され、バイク等に依る奥地までの侵入を許してしまっているのが現状です。
ただ、高度経済成長期に建設が進み、張り巡らされた感のある林道ですが、林道から外れて一歩藪の中に入ってしまうと、自分の居る現在置が判らず、GPSでも持っていない限り山深さに圧倒されてしまう奥深さもまだ残されているのです。
20168月の台風10号で遮断され、人間の侵入を断った中津川林道の深部は、野生動物の格好の遊び場になって、イヌ科動物を始め多くの動物達の痕跡を探す事が容易です。

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崩壊された中津川林道
    回復の見込みは無い
 
旧大滝村を含む奥秩父では、資源のほとんどと言っても過言で無い木材の搬出は、川の流れを利用する方法、木馬に依る搬出等が主流でした。
しかし、時代の波で、ディーゼルエンジンでのトロッコ軌道が山中深く迄伸ばし、鉄砲堰も木馬での搬送も姿を消してしまいました。
ちなみに、明治381月に奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された最後(?)のニホンオオカミは、木材搬出用に作ったダムに落ち捕獲されたと言われています。

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川の流れで木材を運ぶ為の鉄砲堰

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木馬による木材の運搬

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奈良県東吉野村の堰

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奥秩父山中に残るトロッコのレール

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大洞林道上の山小屋跡
    山中栄吉氏経営だったと聞く
 
現在1.000人前後と云われている旧大滝村ですが、戦後の復興期には67.000人が木材関連で生活を営んでいました。
やがて木材産業が斜陽化となり、トロッコ軌道跡地は自動車道として使用されて行くのですが、その代表的な例が大洞川に沿って奥へ十数キロも伸びている大洞林道(ガイドブック等では雲取林道)です。
大洞林道が、大洞川を渡る手前に雲取山頂近辺を源頭とする荒沢谷(地元ではアラザワと呼ぶ)が合流しています。
勿論、沢登りの熟達者にしか許されない難コースですが、その荒沢を登り詰め上流に近づくと沢は二分し、左が大雲取沢、右が狼谷となります。
その狼谷を詰めて奥秩父主脈の分水嶺に出たところが狼平なのです。

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荒沢谷に掛かる橋

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狼谷の全景

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荒沢谷の源流近くに狼平が
 
沢さんが見たイヌ科動物が、雲取山荘の裏に広がる林から、荒沢谷の方向に消えた事は、多くの状況から鑑みて確かだと考えています。
私の活動が読売新聞の日曜版に紹介されたのは、沢さんの体験から4~5年経った3月の事でした。
記事を目にした沢さんは矢も立てもたまらず、私に電話をかけて来て、自宅に帰ってからも記憶の外に抜け出ることが無かった、雲取山中の出来事を堰を切ったように話し続けました。
加賀市内の山仲間に雲取山の出来事を話しても、軽くいなされて居ましたから、やっと話せる相手が見つかった・・・そんな喜びが電話の向こうから伝わって来ました。
 
それからまた56年後、九州で撮影された動物が新聞紙上に載った日、私がかけた電話の向こうで、初めて私と話したときと同じ感じで、雲取山中の出来事を繰り返し話してくれました。
そして最後に「九州にも居るんですね」と言ったのです。
埼玉県の山岳救助隊員4名が和名倉山で見た動物。
石川県加賀市の沢喜代美さんが雲取山で見た動物。
全く無関係の2組のパーティーが、同年頃の同時期、ほとんど同じ山域で、新聞の写真を媒介としてではありますが、ほとんど同じと思われるイヌ科動物を見た事実。
私の仲間がふと「ニホンの自然も、満更捨てたもんじゃないですね!」って呟きました。

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大分県祖母山麓で撮られた動物

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埼玉県山救隊長だった茂木章氏
 
 
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先日の新聞に「自然環境保護の象徴的な存在であるオオタカについて、環境省は22日、種の保存法に基づく国内希少野生動物種(希少種)から外す。」の記事が載りました。

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希少種から外されそうなオオタカ

猛禽類の生態写真家として高名な、宮崎学氏と、以前ツキノワグマに関しやり取りをした事があります。
氏のブログ「ツキノワグマ事件簿」にこんな記述が有りますので、宜しかったらご覧下さい。
 
【マイナス的悲観論ばかりを展開して、何もしないより、プラス的発想による努力も必要かと思います。
ボクは、もう30数年も前に日本中のワシとタカをたった一人で調査してきましたが、当時全ての人たちが悲観論で「ワシ、タカは滅びる」といい続けていました。
しかし、たくさん生息して現在に至っています。
(中略)
悲観して何もしないより、希望をもって少しでも動いてみる人をボクは支持します。
だからボクは、すべて身銭を切って、全国各地を歩き回って自分の技術に裏打ちした感覚的アンテナを張り巡らせて判断しているのです。
「予算が付かなければ調査しない」というようなたかり精神だけの甘い姿勢の人は、技術レベルや精神面でも相当に低いのではないかとボクは思っています。
ですから「悲観論」だけを展開して、そこへ逃げてしまうのです。

十文字峠の咆哮-1

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浦和東ロータリークラブの事務局長と名乗る人から私に講演依頼があったのは、1998年2月のある朝でした。
京都在住の岡田氏が山に籠ってオオカミ探しをしている最中で、私自身も後方支援のエネルギーを費やしている中、どうしようか迷ったのですが話を聞いてみる事にしました。
ロータリークラブの例会がある毎週木曜日の昼、会員同士の交流を深めつつ、各方面から色々な人を招いて話を聞いているのだそうですが、「なぜニホンオオカミなのか?」と問いますと、浦和で獣医院を開業している事務局長の窪川氏は、半年前友人夫婦とで山登りをした際、それと思われる咆哮を聴いていて、非常に興味を持っているからとの事でした。
 
1997年6月の日曜日。
早朝5時に浦和市を出発した一行は、2.000メートルの峠に咲くツツジの写真を撮りに、快適な舗装道路上のドライブを3時間続けた後、落石に気を配りながら1時間以上悪路の林道を走り、ようやく9時過ぎ登山口の毛木平に辿り着きました。
近辺に知れ渡ったツツジの名所でシーズン真っ盛りの日曜日。
登山口から目的地の十文字峠まで2時間のハイキングと言う事で、広い年齢層の人達が押し寄せ、それ程広い駐車スペースを持たない登山口では、それを確保するのは容易なことで有りませんでした。
目的地の峠に予定通り着き、思うまま写真を撮ったり、山小屋で食事をしたりで時間を過ごし、午後2時頃登山口へ帰ればと言う感じで、のんびりのんびりの山歩きでした。

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十文字峠のツツジ

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十文字小屋の玄関

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現在の毛木平駐車場
 
秩父鉄道の終着駅である三峰口に山荘を持つ獣医は、雪の中から顔を出す節分草から始まり、厳冬期の滝の氷結まで四季折々の奥秩父を楽しんでおり、今回は長い交友を持つ初老の夫婦を交えてのツツジ見物でした。
老主人は何か注視しながら歩いているのか少し遅れがちでしたが、登った道を帰るだけで迷う事の無い一本道のこと。
奥さんと談笑しながら思い思いに足を進めて、残り半分と言う処に差し掛かった時でした。
 
登山口に向かって左手・千曲川の源流方向から突然獣の咆哮が、一声二声三声・・・・はっきり聞こえて来たと云います。
思わず立ち尽くしている二人の下へ遅れていた老主人がやって来たので、今起こったことを話すと何も聞こえなかったとの返事。
深い森の中の事で、少しの距離で有っても角度に依ってはあの咆哮が木々に吸収されてしまうのか、と、自らを納得させてはみたものの、記憶に記してしまった獣の鳴き声が獣医の脳裏から離れる事は有りませんでした。

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窪川獣医
(幻のニホンオオカミを追い続ける男より)

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千曲川源流域の鳥観図
 
それからも山荘をベースに、事有るごとに奥秩父の自然と親しむべく山に入るのですが、十文字峠からの帰路に聴いた獣の咆哮を再び聞く事は無かったのです。
そんな折、私達の活動を新聞記事で知り、ロータリークラブに招いて話を聞いてみたくなったとの事でしたが、獣医から再度電話が入ったのは、講演依頼の電話の数日後で、奥秩父山中の氷瀑撮影への誘いでした。
 
1998211日の建国記念日は、凍える寒さの中で夜が明けました。
国道299号の正丸峠を越え、車を大滝村に向けると氷の世界で、幾度もスリップをしながら、目的地大徐ヶ沢の登山口に着くことが出来たのですが、四駆車を運転する獣医の顔は引きつっていました。
しかし、引きつった顔は30分後には一転し、見事に氷結した不動滝の撮影に夢中になっていたのは云うまでも有りません。

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大徐ヶ沢に掛かる不動滝

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大徐不動尊

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かって存在した大徐ヶ集落跡(ⅹ

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不動滝周辺図
     1が咆哮を聴いた地点・
xⅡが咆哮を発したと思われる地点
 
氷瀑に興味を持たない私は周辺探索に時間をかけましたが、車に向かう帰りの山道、荒川本流に掛かる吊り橋を渡った私の背後から、突然サイレンが響いて来たのです。
前を歩く獣医に時間を問うと、「11時ちょうど」の声。
12時だったら兎も角、可笑しいな?と首を傾ける私でしたが、今歩いて来た滝近くの尾根筋から、「ウオーン」「ウオーン」と獣の咆哮が続いて来ました。
最初感じたサイレンの響きと「ウオーン」「ウオーン」の咆哮は一連の流れで、獣医と私は尾根筋を眺めているだけでした。
半年振りに獣医の耳に届いた咆哮は、私にとっては30年振りで、お互い2度目の咆哮体験となったのです。

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不動滝近くに在る栃本の関所跡
     最初、栃本集落のサイレンかと思った
 
奥秩父山中で調査を続けている私ですが、不動滝での咆哮体験はその後の方向性を決める事にもなりました。
大徐ヶ沢の源流は和名倉山(2.036m)のヒルメシ尾根上部ですが、そこでもオオカミ体験者が居たりで、情報収集をすればするほど核心の山域となったのです。
現在70台近くのカメラが山中で稼働していますが、一番長きにわたって調査を続けているのはこの山域で、得られた野生動物の映像は膨大な数に上っています。
 
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山中で見つけたイヌ科動物の足跡

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大徐ヶ沢に掛かる丸太橋

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標高1.830m地点の現場と旧式カメラ

メディア関係者のオオカミ体験-1

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浦和東ロータリークラブの事務局長が、十文字峠からの帰路獣の咆哮を聴き、ニホンオオカミの話を聞きたくなったのと同様、遭遇体験をしたメディアの方に招かれた事が2度ほど有りました。
最近ではNHKのETVで放映された「見狼記」。
番組制作会社「うぇいくあっぷらんど」の制作プロデューサー金尾礼仁さんがその当人ですが、その辺の経緯はInterview】ETV特集『見狼記』スタッフ・インタビュー】の中で紹介されていますので、前振りを含めそれをご紹介します。
 
Interview】ETV特集『見狼記』スタッフ・インタビュー
« PreviousNext »「見えないものを見ようとした人々の、ものがたり。」
明治末期に絶滅したといわれるニホンオオカミ。
この幻の獣に酷似した動物を目撃して以来、もう一度出会う悲願のため情熱を燃やし続ける男性がいる。
『見狼記~神獣ニホンオオカミ~』は今年(2012)年2月にNHK Eテレの「ETV特集」枠で放送されて大きな反響を呼び、5月には異例の2週連続アンコール放送を果たした。
“見えないもの”を主人公にした異色ドキュメンタリーを、スタッフはどのように育て、題材と格闘したのか。
制作スタッフの2人とプロデューサー、3人の証言から『見狼記』の世界を探る。

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インタビュー中の新倉・金尾(右)さん
 
新倉 NHKBSの『熱中人』に(社外ディレクターとして)一緒に参加していました。
『熱中スタジアム』のなかの、毎回なにかに熱中している人に密着する
コーナーで、後に15分番組として独立したものです。
ここでニホンオオカミを探し続けている八木さんと会ったんです。
この時、『熱中人』のプロデューサーから「この題材は膨らませられる。1時
間枠にできるのでは」とアドバイスを受けたのが『見狼記』のはじまりです。
八木さんのエピソードのOAは2010年11月でしたが、その頃にはEテレ向
の提案書を練っていました。

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熱中人ロケ時・大徐ヶ沢不動尊にて

――1996年に奥秩父の林道でニホンオオカミらしき動物を偶然目撃し、その時
       撮った写真が全国紙に掲載されて話題となった八木博さん。
『見狼記』でも憑かれたような情熱でニホンオオカミを探し続ける中心人物
ですが、八木さんと会ってニホンオオカミの存在に興味を?
金尾 もともとは私自身の体験なんです。
1993年頃、ある番組のロケハンで秩父の秘湯を探していて、夕暮れ時にあ
る峠を車で越えたら、右手の沢からチョコチョコッと上がって来たんです
よ。
それを見た瞬間まず脳裏を走ったのが、(あ……これはイヌじゃない)。 
――……はい。
           ――え? それは番組で語られる八木さんの目撃談でしょう。
金尾 だから、八木さんとそっくりな体験を私もしたんですよ! イヌ科の動物
     だけどキツネでもタヌキでもない。
本当に分からなかった。
3年後に八木さんの写真が新聞に載った時は、オレが見たのと一緒だと仰
天しました。
でも、その時点では世間話のレベルでしたね。
すぐに信じてくれる人なんていないから。
それが、『熱中人』のネタ打ち合わせでなにか無いかと考えている時、急に
思い出した。
「オレはニホンオオカミ(らしき動物)を見たことがあるんだ!」(笑)。
そこから八木さんにアプローチして始まった話です。

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金尾さんも遭遇した秩父野犬
     
   ――八木さんの調査に同行し、一緒に山に上りながら、思いは共有してい
   ましたか。 
新倉 もちろんです。
作り手が題材に溺れてしまわないよう一定の距離を保つことは大事です
が、取材対象者の気持ちに寄り添ってこそ引き出せることも大きい。
八木さんに対してもそれは同じです。
八木さんの96年の写真の力はやはり大きいし、金尾さんも似た動物を見
ている。
その上でいつも八木さんの話を聞いていれば、制作中はニホンオオカミ
の存在を信じますよ。
いないわけがないだろうと。
奥秩父の山は少しでも入ったら、もう自分がどこにいるのか分からなくな
ります。
自然の力強さに圧倒されて、なぜ自分みたいなちっぽけな存在がこの山
にニホンオオカミがいないと否定することができるか。
そこまでの気持ちになります。

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見狼記、ロケ中の一コマ

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飛龍山頂で咆哮収録を試みた

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飛龍山への山道の風景
 
金尾 私は八木さんの気持は最初からよく分かったけど、当初はやはり自分たち
     の身が可愛いし、ロケでケガをしてもいけない。
奥秩父には本州で見られる大型哺乳類の全てが生息しています。
特に(八木さんの監視カメラにも写っている)クマは怖かった。
飛龍山の第1回の撮影の時は、鈴を服に付けたり笛を持って山に入ったん
です。
そうしたらクマどころか、シカ一匹出てこない。
動物の気配は微かに感じるんだけど、絶対に我々の前に姿を現さない。
よく考えたら、そんなチャラチャラと音を立てるところに野性動物が出て
来るわけがないよね(笑)。
「探そうと思う気持ちがあると出会えない。気配が伝わる」というナレー
ションは、番組に登場した山岳救助隊の方に教わった言葉であり(実は八木
の発言)、我々の実感でもあります。 
新倉 それなりの装備をしてスタッフ7、8人で行き、すごく寒い、辛い思いをして
     シカ一匹出てこなかった。
これは悔やまれました。
これは絶対に私たちのほうが悪い、少人数でもう一回上ろうと、下山の途
中で決めました。
2回目の撮影はもう入山ギリギリのタイミングだったから、寒くて寒くて生
きた心地がしなかったけど。

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飛龍山頂でキャンプ

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キャンプ時のK氏

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飛龍山禿岩から和名倉山を臨む

金尾 本当に険しい自然林の山で、新倉の足の親指の爪は両方とも割れてしま
    いましたからね。
2回目は機材を運んでくれるウチのスタッフと二手に分かれて、私がカメラ
を持ってまず1人で歩いていた。
疲れて頭の中は真っ白ですよ。
すると50mぐらい先でカサカサッと音がして、初めてシカが顔を出した。
それを番組で使っています。
色気が少しでもある時はダメだったのに。
(オレたちをどうこうする気は無いな)と分かってくれれば、出て来てくれ
る。
不思議でした。
皮肉な話でもあります。
ニホンオオカミが見たいと情熱を燃やせば燃やすほど、出て来てくれなく
なる。
 新倉 「私が死んだら山の中に浅く土葬してほしい。ニホンオオカミがほじくり返
    して食べてくれたら本望」と八木さんが言っているのは、本心なんですよ。
クライマーで心から山を愛してもいるから、火葬されて二酸化炭素を増
やすよりは浅く土に埋められて、死後でもいいからオオカミと出会いた
い。そういう方でした。 
 
ところで、見狼記のロケは6か月間を要し、私は月の半分休職し撮影に協力しました。
その頃既に私の下には70例以上の体験談が届いていましたが、誰の体験を撮影に使うか相談を受けました。
最終的には、「飛龍山(2.077m)で2度咆哮を聴き、下山中の前飛龍で遭遇した」とするK氏の体験を採用し飛龍山ロケとなったのですが、その後遭遇現場にカメラを設置し、動物観察を1年間続けました。
そして見事、幾度もイヌ科動物の映像を撮影する事に成功しましたが、それはキツネの映像でした。

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飛龍・目撃現場のカメラに映った動物
 
K氏の体験は、「20101120日過ぎ14時頃・飛龍山頂にて昼食中咆哮を聴き、飛龍権現への下山途中もう一度聴く。
前飛龍の急坂の途中、登山道を横切る動物を目撃。
恐ろしさの余り、下山道を変更し先ほど来た道を引き返し、三条の湯経由で帰宅。」でした。

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飛龍権現の道しるべ
 
その後「仲間と渓流釣りで山中に入り(2016618日)、林道脇でキャンプをしていた際近くの林の中で、複数の獣が威嚇しあっている(感じの)唸り声がした。
21時30分頃、体高50cm位、頭胴長120cm、立耳、差尾、でシェパード位の大きさ、タイプ標本に似ている感じのイヌ科動物が、流木を燃やしキャンプをしている処5m近くに現れた。
その夜食料その他をテントの外に出して寝たのだが、朝起きたら、それらの殆ど全てを持って行かれ、近くの藪中に残骸が散らかされていた。」
と、する体験をされましたので、飛龍山で遭遇した動物との比較を聞きましたら、「前飛龍の動物はとても小さかった」と仰っていました。
 
前々から、「2度も咆哮した動物がK氏の前をあわてて横切った」事に疑問を感じていた私は、「前飛龍の急坂で見た動物は、Kさんが聴いた2度の咆哮におびえて、逃げ出した動物だった可能性も有りますね」と問うと、Kさんは否定をしませんでした。
私の設置したカメラに映った動物と、上記K氏の発言を鑑みると、「前飛龍の急坂で見た動物はキツネだった」とするのが、正解の様です

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飛龍山に向かう私(前)とK氏

メディア関係者のオオカミ体験-2

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1997年は非常に忙しい年でした。
前年10月秩父野犬の撮影に成功し、今泉博士の所見を得てその存在を公にすると、嵐の様にメディアから取材依頼が殺到したのです。
限られた時間の中で取材を受ける訳ですから、ロケ現場への行きと帰りに乗る車は違うメディア・・・そんな事が幾度も有ったように記憶しています。
 
多くのメディアが1回限りの放送でしたが、前回記した「うぇいくあっぷらんど」ともう1社、TBSTV「世界ふしぎ発見!」を制作する「テレビマンユニオン」からは再度の取材依頼がありました。
本年71日(土)で1.439回を数える長寿番組ですが、最初に私が関わったのは1997年で20年前の事になります。
 
番組のその時のテーマはオランダの国立ライデン自然史博物館並びにシーボルトで、ニホンオオカミのタイプ標本は幕末に、シーボルトが集してライデン自然史博物館に展示して有りますから、私達の活動に大いに関連が有るのですが、何故か制作担当者のニホンオオカミへの思い入れが強く感じられました。

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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

山中のロケは1日掛かりで自然との闘いの中でしたが、その合間担当ディレクターから思いもかけない事を聞かされるのです。
全く違う場所では有りましたが、私が撮影した秩父野犬と非常に良く似た動物と遭遇した事が有ると!
 
2014年秋に行ったフォーラムで参加者に配ったレジュメに、
4.大塚 修一・・・・・見た・・・・・・・・・・・・・・富士山麓
   日時は不明(1996年以前)だが、TVのロケに向かう途中富士山麓で遭遇。
    後日撮影・発表された秩父野犬にそっくりだった為、プロデュースするTBST
       V「世界不思議発見」シーボルト編で八木を起用する。
   撮影後その事を打ち明けられたのだが、それらは見狼記の際の金尾氏
   と 同じ。】と記されています。
 
撮影が終わった帰りの車中で、「来年もう1回オランダをテーマにやりますので、八木さんお願いします」と云われ、約束通り1998112123の連休に三峰山中で撮影が行われました。
放送は翌年116日でしたが、ディレクターの大塚氏はシーボルト及びニホンオオカミに関し丁寧に取材され、番組中で二人のナビゲータにこう語らせています。
 
ここはライデン国立自然史博物館です。
シーボルトがオランダに送った日本コレクションの内、貴重な動植物の標本はここにおさめられています。

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中でも未だに大きな謎になっている動物が有ります。
それは今から90年前に絶滅したと考えられているニホンオオカミなんです。
その謎のニホンオオカミの剥製がこちらなんですが、小さくてオオカミらしくないですね。

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実はシーボルトはこの標本をオランダに送るまでの事情をこう書き残しているんです。
「私は牝のヤマイヌを大阪で買った。」
「私はヤマイヌを数年間出島で飼った。」

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「その皮は今ライデンの博物館にある。」

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「私は生きているオオカミも二頭見て両方を購入した。」

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「頭の形を見ればヤマイヌとオオカミは直ぐに見分けがつく。」
何と、シーボルトが買ったのはヤマイヌとオオカミと言う別々の動物だったのだ。
そして、何年も生きた状態で観察した後、別種の動物としてライデンに送ったのである。

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ところが、受け入れた博物館の手違いから、ヤマイヌとオオカミの標本が一緒にされ、Canis hodophilax(ニホンオオカミ) と名付けられたところから混乱が始まったのである。
(受け入れた際の博物館の初代館長は、コンラート・ヤコブ・テミンクで、ニホンオオカミの学名はCanis hodophilax Temminck,1839 となっている。)

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コンラート・ヤコブ・テミンク

因みに、ニホンオオカミの標本として最も有名な剥製の台の裏側には Jamainu (ヤマイヌ)と書いてあります。

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やっぱりこれはオオカミでは無かったのでしょうか?
この剥製にして言えば、これはニホンオオカミでは無くて、違う生き物だと思います。
考えられる可能性としては、飼い犬つまり日本在来種のイヌが野生化した物か、或いは恐らく、ニホンオオカミと野生イヌとの間に出来た新種だと思います。】

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皆さんお気づきの事と思いますが、番組ナビゲーターが語っている内容は、20年前に新潮社のシンラ「山根一真の動物事件簿・狼」で記されている内容とほぼ同じです。
それは、「世界ふしぎ発見!」も「山根一真の動物事件簿・狼」もオランダまで足を運び、シーボルトに関わる書物「FAUNA JAPONICA」「江戸参府紀行等を綿密に調べ上げているからこそなのです。

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 FAUNA JAPONICA (日本動物誌)
 
私たちの理論構築もそこから始まっていますので、「ニホンオオカミとヤマイヌは違う動物」として、研究している訳です。
シーボルトが言う様に、「頭の形を見ればヤマイヌとオオカミは直ぐに見分けがつく。」・・・・・国内外に遺された頭骨標本を数多く調査すると、そうなるのです。
Jamainu」の標本を手にして、ライデン博の哺乳動物部門学芸員スミンク博士が「ニホンオオカミと野生イヌとの交雑種がヤマイヌ(だろう)」と語る件に関しては、正確な事は解りませんが。
 
2回目の放送は仲間と山中でオオカミ探しをしている様を紹介して貰いまして、雪の中でしたが非常に楽しい時間を過ごす事が出来ました。
オランダロケに際しては、私の為にタイプ標本の写真、VTR映像その他諸々を撮って戴きました。
それらは、標本比較の資料等で現在も活躍中ですが、大塚氏が富士山麓で遭遇した動物に思いを込めているが故の事だったと感謝しています。

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ニホンオオカミの爪は黒?で論争した事が有った

和名倉山での遭難

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長い間山と関わっていますと色々な事が起きます。
私自身、一昨年の4月に山岳救助隊のお世話になりましたし、同年9月初めにも仲間がお手を煩わせました。
そして、20年近く経った今だからこそ話せるのですが、実は私達、死と隣あわせの大きな事故を起こしています。
 
TBSの「世界ふしぎ発見!」1.999116日放送分の撮影は、前年112223日の両日三峰山中で行われました。
三峰神社奥宮からの帰り、登山者が複数のオオカミの呼び交わしを30分近く聴いていたとされる、表参道の薬師堂跡で咆哮の収録を試みるべく、キャンプを張っていたのです。
21日(土)には同じ場所で関西TV(確か?)のロケが翌日22日午前中まで行われていたのですが、午後からはTBSと約束していましたので、私は神社境内まで戻っていました。
その頃は未だ、博物館の客員研究員を受けて居らず単なる参拝者の一人でしたが、そんな私の携帯が鳴りました。

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咆哮の収録を試みた薬師堂跡

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アンテナが重くバテた、三村マサカズさん

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奥宮の上に掛かる月

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奥宮が闇に包まれるまで啼いていた
 
全く知らない人からだったのですが、仲間(岡田氏)が大怪我を負い、秩父市内の病院に送って行く・・・との事でした。
岡田氏は前日朝、共に我が家を出て、大洞川支流の市ノ沢から和名倉山に向かった筈なのですが、市内の病院に向かっていると云うのです。
急遽私は予定を変更し、秩父の病院に向かおうとしたのですが、沢筋に置いてあるザックの中の保険証を持ってきて欲しいとの伝言で、それを果たし病院に行きました。

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皆さんご存知の岡田さん

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市ノ沢全景
 
登山中バランスを崩しダムに転落したのですが、「1回バウンドした処が岩場で、右足の大腿骨複雑骨折の大怪我を負った」と伝える岡田氏は、“痛さをこらえ申し訳なさが先に立って”の表情でした。
ただ事故は、不幸中の幸いと云って良いもので、歩き始めて間もない場所だった為、下半身が全く使えない中長時間の匍匐前進で近くの作業小屋に辿り着き、その夜を過ごし、翌日道路に辿り着いたら車が来て助かったのですが、生への執着と体力が有ったからこその賜物でした。
助けてくれた運転手はハンターで、前年谷の奥でクマを撃ったので若しかしたら今年もクマが・・・と、二匹目のドジョウ狙いだったそうです。
ダムに転落した岡田氏は、当然ずぶぬれ状態で一夜を過ごしたのですが、翌日の夕方からは冬将軍の到来となり、一日ずれていたら凍死していた処でした。
病院で緊急治療を受けたのですが、長期入院を強いられる症状のため、京都の生家に連絡し迎えを呼んでいるとの事でした。

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岡田氏が転落した大洞ダム湖

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22日夜雪の中キャンプに向かう私
 
山中には事情を全く知らない仲間達が待っていましたから、岡田氏に了解を求めて病院を離れました。
神社に向かう道路は、最後の三連休で大渋滞でしたので、TBSのクルーに連絡しますと、未だ市内に着いていない様子でした。
待ち合わせして三峰山中のベースキャンプに向かったのですが、仲間と合流したのは陽が落ち長い時間が経ってからで、案の定、心配と非難の声の中でした。
今思い起こすとこの日の行動は、20年前の気力体力だったからこその為せる技でした。

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雪の中キャンプに着いた私

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キャンプで待っていた仲間(右)と三村さん
 
 
山中に置き去りにされた岡田氏のザック回収に向かったのは年末30日の事でした。
登山口には数台の車が止められていて、何事か?と不安を抱きながらの入山でしたが、ダム湖の水が赤く染まっていたので、状況は間も無く理解出来ました。
日曜ハンターが鹿の解体をしていたのです。

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登山口にはこんなリフトがある
 
関わりたくないので素通りしたのですが、帰りに大きなザックを背負った私を見つけ、何かを察したハンターの一人が、
「お宅等この山の中でオオカミだオオカミだと騒いでいるけど、そんなの居る訳無いだろう!居たとしても、イヌだと思って撃ち殺し埋めてしまった!って云えば、それで済むんだからな!お宅等は遊びで山に入っているんだろうが、遭難騒ぎでも起こされたら、迷惑するのは地元の人間なんだからな!」って云うのです。
ハンターの云う状態そのままだったので、口答えせず大人しく聞いていましたが、猟銃を抱えた人に文句を云われるのって、不気味なものでした。
 
そして、ついでにだったのでしょうがハンター氏は「オオカミなんて居る訳無いが、この谷には(山を越えた)一之瀬の方から良いイヌが来るんだよな!」
「俺も2回見た事が有って、あのイヌが猟に使えればナア・・・」とも、云ったのです。
この谷でハンターからこの手の話を聞くのは2度目でした。
199511月にこの地で、オオカミフォーラムとオオカミの誘い出しを行ったのですが、場所をここに決めたのは、小鹿野町のハンターから同様の話を聞いていた為でした。
その後、この谷に足げく通い、求める動物と思われる足跡を2度見つけ、また、昨年8月26日この欄で記した様に、三峰集落の猟師宮川淳一さんの遭遇現場確認の帰り、岡田氏が事故った沢近くからの咆哮を聴いたのです。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以前お知らせしました、埼玉県立川の博物館でのオオカミ展のパンフレットが届きました。
タイトルは「神になったオオカミ」で、期間は715日から93日まで、無休での開催です。
興味のある方はお出でになったら如何でしょうか。

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和大の剥製は7/22~8/22に展示です
 
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詳細は 0485817333まで

ニホンオオカミの剥製標本

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ニホンオオカミを研究している(と云う)70歳代の方から(O氏)時々連絡を戴きます。
この方は以前出版社に勤めていたと云うだけあって中々多才で、絶滅危惧種の動物を研究する方々ニホンオオカミも・・・と仰っています。
私としては、過去の経験上ニホンオオカミは非常に難しい動物ですので、“様々な動物をやる中でニホンオオカミを研究する”のは難しいと思っていますが。
 
数か月前の事ですが、山梨県博の頭骨と、三峰博の毛皮を調べたいと云う事で協力を求められました。
山梨県博は担当者の名前を教えましたが、三峰の毛皮は私が論文として発表しているので、論文をご覧戴く様お願いしました。
三峰博の毛皮標本は現在御眷属としての扱いで、貸し出しは勿論のこと写真撮影も出来ない状態なのです。
そうした状況を知ってか知らずかO氏は、三峰の毛皮標本を剥製にすべきだと言い出したのです。
 
20年前この標本は、毛皮の裏打ちをすべく草加市の尼崎剥製社にお願いしたのですが、最初私が見つけた状態からは、全く違った形になっていました。
所有者の内田さんから三峯神社に寄贈された際、今泉博士と相談の上尼崎剥製社に裏打ち作業を依頼したのですが、帰って来た姿を見て吃驚した記憶が有ります。
国立科学博物館の剥製制作、毛皮の裏打ち等を手掛けていましたので、間違いないと考えての依頼でした。
ただ、元の姿からかけ離れた姿であっても、立派な仕事をして戴いたとの気持ちはあったのですが。
こうした事例でも解る通り、人の手を経れば経る程、元の形からは離れてしまうのです。

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内田家に保管されていた毛皮

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尼崎剥製社でリニュアルされた毛皮
 
ニホンオオカミ(Canis hodophilax)の剥製標本は、国内外に4体確認されていますが、(ライデン国立民族学博物館・国立科学博物館・東京大学・和歌山大学)制作者の創造力で、それぞれが個性を持った剥製になっています。
と云うより、制作者がニホンオオカミの生態実像を見ていないで創る訳で、それぞれが個性を持った剥製となるのは已むを得ないのです。
それでも、科博と東大の物は同じ感じになっていますが、和歌山大学の物は1983年頃頭骨を取り出した際剥製を作り直し、原形を留めない形になってしまっています。

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ライデン国立民俗学博物館蔵の剥製

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福島県産国立科学博物館蔵の剥製

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岩手県産東京大学蔵の剥製

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紀伊半島産和歌山大学蔵の剥製

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リニュアル前の和歌山大学蔵剥製
 
それらを踏まえ今泉吉典博士から、一番大切なニホンオオカミの標本は、大英自然史博物館の仮剥製だと教えられました。
奈良県東吉野村で明治381月に捕獲され、それを買い受けたマルコム・アンダーソンが時を経ず解体した標本で、原形を留めている唯一と云える標本なのです。
1つの毛皮の、商品価値を高める手段として剥製化するのは理解できますが、学術的な意味では全く違ってきます。
パンダ等の誰もが認知している動物ならいざ知れず、ニホンオオカミに関してはそうでないのです。

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大英自然史博物館蔵の仮剥製

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仮剥製の裏面と山根一眞さん
 
O氏はその際、遺伝子レベルでの解析に関しても認識違いの持論を述べられたのですが、ニホンオオカミの毛皮からのDNA解析は未だ為されていないのです。
岐阜大学の石黒直隆教授が時折発表しているニホンオオカミの遺伝子解析は、ミトコンドリアDNAに関してで、骨にドリルで穴をあけ骨片を取り出しての解析ですので、皆さんもお間違い無い様に願います。

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岐阜大学石黒直隆教授
 
ところで、ヒトではDNA(ねじれたひも状で二重らせん構造)の長さは約二メートルにもなります。
きわめて細長い生命の設計図です。
ヒトの全身の細胞数は約六十兆個ですが、その全てに同じ構造の、二メートルのDNAが入っています。
よって、、血痕、精液や毛髪も含めた体のどの部分でも、ごくわずかな細胞片さえあれば、その人の固有の情報を読みとることができるので、この原理を用いて殺人や強姦事件の解明を行う科学的捜査方法が「DNA鑑定」なのです。

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DNAデオキシリボ核酸)の構造
 
そうした識別方法をヒト以外の動物(ここではニホンオオカミ)にも応用して、謎の解明を試みたのが京都大学霊長類研究所の相見満助教授と竹中修教授でした。
1996年に発売された新潮社のシンラ3月号・11月号に、その辺の事も含め詳しく掲載されていますが、『和歌山大学の剥製標本からの遺伝子解析は成功せず、人間の遺伝子が出てきた』等、とんでもない結果が生じてもいます。
原因として「標本は人が触りますよね。そのため標本には人の指先の脂や皮膚の破片、ふけが微量に付着するものなんです。魚類の標本と同じ部屋に格納されていれば、その遺伝子の断片が飛んできて付着している可能性もあるわけです。」
「毛皮からのミトコンドリアDNAは何度やっても採れなかったんです。DNAが変性しているのではないか、という話です。剥製を作るときには、なめすためには亜硫酸などの薬品処理をしているんですね。皮をキュッと縮め、また殺虫効果という目的もあって。それが、DNAを壊しているのかも知れません。」と、語ってもいます。

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相見満助教授と竹中修教授(左)

そうした事例を踏まえて石黒教授は、骨に穴を開け、人間の手が触れていない箇所からサンプルを採取している訳です。
 
以上記した様に、ニホンオオカミの毛皮からの細胞核DNA解析は未だ為されていません。
つまり、山中でニホンオオカミと思われる動物が捕獲されたとしても、基礎データーが存在しませんから、遺伝子レベルでの同定は現在の処不可能なのです。
但し、死後に頭骨を取り出して比較検討するか、頭骨に穴をあけサンプル採取し、ミトコンドリアDNAにて遺伝子解析すれば可能ですが、細胞核DNA解析とは違う話になってしまうのです。

2017盛夏・三峰神社境内にて

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茹だる様な毎日が続いていますが、湯気が立ち昇る様なこんな体験談が届きました。
一服の清涼剤になりますかどうか。
 
【八木さま、初めてお手紙致します。
遠い九州の地から突然のお手紙驚かれたことと推察致しますが、非礼、どうかお許しください。
私は現在福岡県筑後市に仕事の関係で住んでおりまして(出身は大阪ですが)、10年前西田智氏の著書「ニホンオオカミは生きている」を手にし、同書の中で隣町の上陽町や星野村で、オオカミらしき動物の目撃情報があるのを知ったことから、ニホンオオカミに関心を持つに至り、その生存を信じる様になったのですが、八木様のご活動やご活躍についても本やインターネットを通じて常々目にしておりますことから、何時かオオカミの姿やその咆哮を見聞きでき、情報提供出来る機会があればと考えていたのでございます。
 
つい先日712日から13日まで秩父の三峰神社を訪れる機会がありました。
同神社周辺はオオカミの目撃や遠吠えの情報が多い事から、あわよくばそれに遭遇できればとの期待も有ったのですが、夜間は特に何か聞こえるといったこともなく、温泉に浸かりゆったりと過ごしておりました。
 
翌朝早朝5時に目が覚め、5時半頃より朝霧の立ち込める中を境内の散歩をする中、(深山の霊気を吸い込みながらの散歩は心地よいもので「来て良かった。」との感慨に浸りながら)随身門を過ぎ、日本武尊像のある高台に向かっていた時、何処からともなく「ワオ、ワァ―オン、ワァ―オーン!」との声が聞こえて来たのです。
最初は「猫か何かいるのかな?」と思い周囲を見回しましたがそれらしき姿は見えず、空耳かと、そのまま像への階段を昇り、歩いて行く途中で再び同じ声。
「これはおかしい。まさかオオカミの遠吠えだろうか?しかし話に聞く「ウオーやウオーン!では無いな。
他の動物だろうか?」と考えつつ像まで辿り着いて携帯のカメラで写そうとした時またも「ワオ、ワァ―オン、ワァ―オーン!」。

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宿坊から霧に包まれた山々を望む

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最初に咆哮を聴いた随身門
 
ビデオカメラも持っていたので声を周囲の風景と共に録音録画してやろうとその場で10分ほど待機していましたが、何も聞こえないのであきらめそのまま奥宮の遥拝殿に向かい、
妙法ヶ岳や眼下の雲海を眺めていると同じ声が聞こえて来ました。
妙法ヶ岳の中腹よりやや下方方面から響いてくるのに気付き、友人にオオカミの遠吠えらしきものを聞いた旨のメールを送り、今度こそ録音してやろうとカメラの電源を入れたままにしておいたのですが、その後もう一度聞こえた時、少し離れた場所に置いていたカメラに慌てて走り寄り、構えた時にはすでに遅く、時刻も6時半を過ぎ、7時からの早朝祈願をお願いしていた関係から、急いで宿坊に戻らねばならず、まさに後ろ髪引かれる思いでその場を去った次第です。
あと30分その場に留まっていれば絶対に録れていたものをと、残念、後悔しきりといったところです。
今回このお手紙を差し上げたのは、記憶が鮮明なうちにお知らせしたかったことと、オオカミあるいはヤマイヌの類の可能性があるか否かのご判断を戴きたかったからです。

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奥宮を臨める遥拝殿

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遥拝殿からの雲海

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田ノ上さんが記した記録

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咆哮が聴こえて来たと思われる処
 
 
この程度の情報ではご判断もつきかねる事と存じますが、私自身帰宅後、You Tube にて鹿やカモシカ、クマ、キツネ、タヌキ、ハクビシン、アオバト等の声を聞いてみたのですが違っており、謎は深まる一方です。
「ワオ、ワァ―オン、ワァ―オーン!」最初の「ワオ」は鳥のかん高い声のような感じなのですが、「ワァ―オン、ワァ―オーン!」と伸びる声が遠吠えの一種にも思え気になっております。
あるいは一帯に生息する鹿の声だったのかも知れませんが、オオカミの気配を感じる事が出来たのは非常に稀有な、貴重な体験でした。
ニホンオオカミは必ず生存しているものと確信しております。
突然の手紙、お忙しい中、申し訳ありませんでした。
暑い日が続いておりますが、どうかお身体を大切に。
今後の益々のご活躍を祈っております。
拙い文章でしたが、眼をお通し下さり、誠にありがとうございました。
 
(遠い九州の地で何も出来ないかも知れませんが「ニホンオオカミを探す会」にも関心を持っております。
近辺の山野でもしそれらしき動物の姿や声を見聞きしましたらまた情報提供させて戴きます。)
福岡県筑後市 田ノ上浩一 】

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オオカミ体験をした田ノ上さん
 
こうした最新情報は、NPOの会員有志にもお知らせするのですが、世田谷区の横山さんがこんなメッセージを返してくれました。
「今年一番の良い知らせです。近々行きたいと思いますが、仕事も忙しく、合間を見つけて行って来ます。
横浜市のKさんも同じ場所で遠吠えを聴いていますよね?ご連絡有り難う御座います」
 
横山さんからのご指摘を受け、“1年前にKさんから確か同様の連絡を受けていた”と思い、メモ等を必死に探しましたら、20168/19(金)のコメントに関連の文面が記されていました。
「暑い日が続きますね。お身体如何でしょうか?
 (中略)
三峯地域で、未だ確証がない故に報告に到れないことが二件ほどあります。」
この件に関しKさんと電話で話しメモをしたと記憶していますが、多忙の中で見落としていた様です。
 
ただ、1年前のKさんに限らず、神社周辺での体験談は多くの方から届けられています。
2014年のフォーラムのレジュメに記された神社境内での体験は「199712xx・須田 真明・聴いた・20071108柏木侑作・他1・見た・20101026百留マリー和子・他1・聴いた・
20121208吉川 裕樹・聴いた・20121227板垣 卓郎・見た・. 20130216矢口 益男・聴いた・20130506寺崎 美紅・他1・見た・20141018阿部 峻吾・他1・見た」の8件にも上ります。

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柏木祐作さんの遭遇場所

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柏木祐作さんの遭遇場所

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板垣卓郎さんの遭遇場所
    板垣さんは神社の神主だった

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遭遇体験を語る寺崎・中丸さん

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阿部峻吾さん等の遭遇場所

フォーラム後も三峯山での体験情報が幾つか届いた中での、田ノ上さんからの体験情報だったのです。

ニホンオオカミ探索隊

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最近奇妙な噂が私の耳に届きました。
大学のサークル活動的な感じで複数の「ニホンオオカミ探索隊」なる人たちが秩父の山中に入っている・・・らしいと。
オオカミ体験者で三峰神社大好き人間のKさんからの情報ですが、若しかしたらそうした人達から・・・と思われる目撃情報がそれ以前(5/21)に届いていたのです。
 
Q「突然メールしてすみません。
これはお探しの狼に関係ある可能性ありますか? なお、場所は旧荒川村上〇野です。
Google ドライブのリンクですが、動画もあります。     東京在住 〇島兼隆」

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〇島兼隆さんが送ってくれた写真

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〇島兼隆さんのビデオから

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疥癬病のタヌキ-1

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疥癬病のタヌキ-2

A「送付戴いた写真の動物、非常に興味ありますが、映像が不鮮明でして、動画も存在するとの事ですので、それを拝見希望する次第です。」
 
撮影現場とKさん情報は同地域ですし、〇島兼隆さんが捜索に出かけ、件の撮影をしたとするなら、真贋は別にして称賛に値する行為です。
そうした意味も込め返事をすると、間も無くこんなメールも届いたのですが、二股を掛けられていた訳で、心中複雑な思いにとらわれました。
 
Q「ごめんなさい、まちがえました。埼玉自然博物館にも聞いて、そちらからタヌキだとお答えいただいたので混同しました。」
 
1番上が最初に届いた写真で、2番目は動画からの添付、3.4番目は以前私に届いたタヌキの写真です。
いずれの場合も「疥癬病」に罹った動物ですが、3.4の写真と比較すると件の動物は、体長・体高・尾の形態等からタヌキとは違うのでは・・・と私は考えています。
 
612日付けのメールに、
Q「山口県で偶然撮った写真なのですが、これがニホンオオカミの可能性はありますか?」
氏、素性を名乗らず、たったこれだけの文面、写真添付だけで届いたのが下の写真です。

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山口県下で偶然撮られた写真

A「写真の動物。イヌ科であることは間違いないと思いますが、全体のプロフィールから考えますと、「ニホンオオカミ」では無いと思います。
“疥癬病か何かで毛が抜けたイヌ科動物”と考えるのが一般的ですが、写真の様に、全く毛が無いイヌの種類=種名は忘れましたが=が存在していますので、それかも知れません。
 
届いた文面から予想はしていましたが、私が返事してから現在に至るまで全く音沙汰無し、梨の礫です。
 
74日には本州オオカミ?の毛皮につきお尋ね・・・として、3枚の写真と共にこんなメールが届きました。
『突然のメール、失礼いたします。山〇理奈子と申します。貴会のサイトを拝見しました。
ニュージーランド人の友人、バネッサ・マップよりの依頼を受けて代わりにご連絡差し上げます。
 
バネッサはニュージーランド在住で写真の毛皮を所有していますが、もしニホンオオカミのものでしたら日本の研究者にとって貴重なサンプルとなるのではと考えています。
当初本人は英語で書かれた論文等を拝見したようで、国立科学博物館の吉行瑞子先生にご連絡差し上げようとしていたのですが、メールアドレスがわからず博物館のウェブサイトも日本語で読むことができないため、先生か他の知見のある方に連絡できないか、と私に依頼が来た次第です。
 
購入元から聞いた由来ではおそらく1900年頃の本州オオカミであるとのことですが、もしかしたら犬との混血か、エゾオオカミまたはチベットオオカミかもしれないとのことです。
バネッサは、できればこれがどのようなものか知りたいのと、またもし日本の研究者の方にとって貴重なものであれば、DNAサンプルの提供など研究への協力をしたいとの希望があります。
不躾なお願いとは存じますが、もし八木様から上記の希望につきご意見やアドバイスが頂けましたら大変幸いです。
なおバネッサの連絡先ですが、私にご返信下されば、英訳して本人に転送します。
ご多忙の折申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願い申し上げます。山〇理奈子』

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山〇理奈子さんから送られて来た写真

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送られて来た尾の写真

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送られて来た写真の右前肢
 
山〇  さま
大変申し訳ありませんが、氏・素性をはっきり名乗らない方への対応は行っておりません。
また、毛皮・頭骨標本で一番大切なものはその標本の「謂れ」でして、件の毛皮はそうした物が無い上、サイズ等も不明です。
吉行先生は私の師でもありますが、同じ対応をされると思います。
 
数年前から「種の保存法」に関連して、毛皮等の扱いが難しくなり、私の下に同様の毛皮が送られて来ています。
そして、DNAサンプルとして・・・等の申し入れもありますが、ニホンオオカミに関しては、毛皮での遺伝子解析が行われていないため、基礎データーが有りません。
その為バネッサ・マップ氏所有の標本を遺伝子解析しても、比較対象が無い為ニホンオオカミであるかどうかを知る事は出来ないと云う事です。
720日にUPする当ブログに関連を掲載しますので、良ろしかったらご覧ください。  八木
 
67年前がピークでしたが、この類の毛皮及び根付け等が、ネットを中心に相当出回りました。
そして、可成りの範囲で私は見解を求められ、それが煩わしくなって「オークションに出たニホンオオカミ」のコーナーを設けたのです。
コーナーで記した『某財閥の親族の蔵出し品に「二ホンオオカミの毛皮等が十例近く有り、当代は興味無いので無償で譲り受けた」』標本と思われる物と、無償で譲り受けた者を中心としたグループが、当時のニホンオオカミのオークションを動かしていたのは間違いありませんでした。

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山口県産ニホンオオカミの毛皮

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オークションに出たオオカミの毛皮

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無償で譲り受けたオオカミの毛皮
 
今回私の識見を求めた、山〇理奈子さん提示の標本は、ある特徴を有していますが、ここでは申しません。
前肢の黒斑をご存知でしたので、ある程度の知識は有している上でのアクセスだったと考えられます。
が、今ブログの3名は、期せずして氏素性を名乗らない人たちでしたので、私としては大変残念な思いでした。

わらしべ長者

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今、私たちは体験情報が寄せられた山域に70台近くのトレイルカメラを設置しています。
1年前は50台だったのですが、咆哮をしている姿を捕らえられれば結論を導きやすい・・・との思いの中、音声収録可能カメラに交換している訳ですが、
かと言って、音声無しのカメラを使わない訳にも行かないので、段々設置台数が増えてしまった次第です。
現在音声収録可能カメラが50台、それ以外が20台となっていますが、今まで3か月ごとにカメラメンテナンスをしていたのが、4か月のサイクルに変わっています。
ただ、収録された情報量は1ヶ月分増加する訳で、その内容分析が思いのほか大変なのです。
 
誕生日が来る度私の年齢も増える訳で、“早朝家を出て山に登ってカメラメンテナンスをし、帰宅後数日かけてSDカードを分析する“のが辛く思える日が有るのも事実です。
何かの際、山中のカメラが放置されたままになっては不味い訳で、5月に入ってからですが志の高い会員に、捜索方法等のknow-how、カメラの設置位置を教えるべく、山行を共にする様心掛けています。
ぶっちゃけ、一人で山に入っていて、何時も家族が心配していた事の裏返しでもあるのですが・・・。
 
7月末の過日、秋山郷でのカメラメンテナンスを予定したのですが、生憎の悪天候だったので、作業地域を変更しました。
偶々、夏休みの自由研究を「ニホンオオカミ」とした、小学校4年になる同行者の息子さんも1日ご一緒しました。
「鉄は熱いうちに打て」なる諺もありますし、私のknow-howが父から息子に伝われば、云う事無い訳です。

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カメラの前で未来のオオカミ研究者と

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山中のカメラに映ったアライグマ

秩父多摩山中の山葵田の多くは耕作放棄されていまして、カメラメンテナンス後そんな山葵田に寄り、一抱え採集したのですが、時間も早い上自由研究の中身をより充実させる為、奥多摩経由で三峰博物館を廻る事にしました。

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耕作放棄された山葵田

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急斜面で山葵を掘る私
 
青梅街道を奥多摩湖・一之瀬高原・大菩薩嶺の登山口・経由で国道140号を埼玉方面に走らせたのですが、140号沿い山梨県側はフルーツ街道の別名がある通り、多くの農園が店舗を構え桃の販売中でした。

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道の駅たばやまで販売中の手ぬぐい

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手ぬぐいの説明

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目撃事例が多い一之瀬高原作場平

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以前犬切峠で見つけた毛糞

我が家は全員桃が好物で、自分が食べたいのも手伝い1軒の農園に立ち寄りましたら、少々傷物ですが信じられない値段で販売していました。
大枚¥500-を叩いて食べ切れないほどの桃を購入し、一つ食べますとこれが吃驚・・・昼飯代わりに桃を食べる事になりました。
とても幸せな気分になったので、山で採った山葵を差し上げましたら、今度は持ちきれないほどの桃が車に乗る事になったのです。

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腹一杯桃をご馳走になった販売所

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藁の代わりの山葵
 
月曜日でしたが、三峰神社には多くの参拝者が居て、これまた吃驚の世界でした。
博物館の受付の木村さんは、以前の様に本を読む様な事も出来ず忙しくしていましたので、桃をお裾分けしましたら喜んで、有る物を戴く事になりました。

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秩父宮記念三峯山博物館

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博物館内で2ショット

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販売中の「日本狼物語」
 
帰宅後、事の顛末を妻に話すと、家で食べ切れない桃を、お世話になっている人に分けたいと云うので、その様になったのは当然のことです。
その夜はお刺身が出たのですが、残念ながら刺身は山葵に負けていました。
途中同行者が「今日は、まるでわらしべ長者みたいですね」と云ったのですが、毎週山に向かっていると、こんな楽しい1日も有るんです。
 
【わらしべ長者の昔話。
思いがけない交換によって利益を得ることを主題にした致富譚(ちふたん)の一つ。
兄が遺産を相続し、弟はわらしべ(藁(わら)の茎)3本をもらう。
弟は旅に出て、下駄(げた)の緒を切って困っている女に藁をやり、三年味噌(みそ)をもらう。
刀鍛冶(かじ)が刀をつくるのに必要だというので、三年味噌をやり刀をもらう。
その刀でオオカミを防ぐ。
それを見ていた男に雇われ、のちに長者になる。】

十文字峠の咆哮ー2

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21世紀に入って4年目、確か6月の事だったと思います。
朝日新聞の天声人語に私達の活動が取上げられ、末尾にこう記されていました。
『オオカミは「いまの日本が失ったものの象徴」であると同時に、現代社会を「再生」させる生命力を示してもいる』
ニホンオオカミの生存は環境問題のシンボル的位置付けとされ、この記事以後一般の人達のニホンオオカミへの考えも、ほんの少しですが違って来た様に感じています。

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朝日新聞の天声人語欄
 
それ以前は「(北海道を除く)日本列島に於ける食物連鎖の頂点で、絶滅したニホンオオカミ」程度の捉えかたであって、大多数の人達には受け入れる事の出来ない動物でした。
云わば“赤頭巾ちゃんの中の狼”、“可愛い子鹿を食べる狼”から逃れる事が出来ないでいたのです。
興味を持っている人達にしても、他の動物に比べてマニアック的な存在で、犬好き、狼好きな人達のとどのつまり的な動物にしか過ぎませんでした。
さもなければ私と共通な体験をしていたとか、未確認生物の探求者等であったのです。
 
ロータリークラブでの講演の後(本年622日欄参照)、共通の認識を持っている事が判った私と窪川獣医は、山篭り中の岡田氏に差し入れをしたり、捕獲後の動物を傷つけ無いような処置の仕方を教えて貰ったりと、周辺協力者として大変お世話になりました。
具体的に言うと、睡眠薬を吹き矢で動物に注入し、眠らせて里まで運ぼうとしたのですが、勿論今だからこそ云える話で、私たちが薬を使う事も、それ以前に捕獲する事自体違法だったのです。
ある動物学者が、「ニホンオオカミに関しては、写真でもって断定する事は、科学的な考え方ではない。捕獲し飼育状態の中、分類学者が見れる状態になって居なければ覆る事は無い。」
そんな言葉を発していたのが、私たちにそうした行動を起こさせる一つのきっかけで有った事は否めません。

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吹き矢の使い方を示す窪川獣医

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捕獲後この橇を使うつもりだった

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音声収録の為こんな事も
 
十文字峠への登山口毛木平へと車を走らせたのは、獣医達が咆哮を聴いた1年後、1998年6月の日曜日でした。
浦和市を5時に出発し目的地に9時到着すべく順調に車を走らせ、8時前には中津川集落へ入る事が出来たのでしたが、しばらくすると休憩中の私達を追い抜いて行った後続車が、全てUターンして帰って来ました。
聞いてみると、川上村から三国峠越えで大滝村に抜けようとしたトレーラーが、トンネルにつかえてしまって通行止めだと云うのです。
この林道上で数少ないトンネルなので場所の特定はすぐ出来ましたが、すれ違いもままならぬ林道にトレーラー車が走行する等とても信じ難く、何かの間違いではとの思いも手伝って、現場まで行ってみる事にしました。

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トレーラーが通れなかったトンネル

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中津川の河川には無残な乗用車が
 
私が窪川獣医の誘いを受けて十文字峠行きを決めたのは、単に獣医の体験談だけで無く、それなりの根拠を持っての事でした。
三国峠から甲武信岳(2475m)へ向った登山者がニホンオオカミと思われる動物の咆哮を聞いたとの情報を得ていたし、何より特別国家公務員の人達が、日本航空機事故現場の捜索時、その動物と思われる集団に遭遇したと云う確かな情報も得ていたのです。
又、事故当時、現場周辺の山々から動物の咆哮が合唱となり、それに応えた里のイヌ達が呼び返しをした・・・そんな話を聞いたのは後の事ですが、情報提供者は川上犬の研究に長く携わっていて、現在「NPO法人梓山犬血統保存会」を運営している、高橋はるみさんでした。(本年220日欄参照)
そんな幾多の事例が交差する中、捜索重点地域と考えていた私にとって、獣医の誘いは渡りに舟でした。

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高橋はるみさん
 
そして何より体験談は最新の事例で有り、本人から直接聞いた点、その他を加味した時、非常に信憑性が高いと考えていました。
峠を越えた長野県川上村は高原レタスの生産地で、当時から村にとっては基幹産業そのものです。
冬、山に篭る予定の岡田氏は仏師の仕事をなげうって、夏の調査を兼ね川上村でレタス収穫の手伝いをしていたのですが、予想以上に作業が繁忙で山中の探索が進んでおらず、
そんな調査の遅れをカバーするには大変タイミングの良い誘いでも有りました。
 
普通車が交差する事さえ困難な場所が多いこの林道上で、もしかしてUターンする場所を探しながら此処まで来たのかも知れなかったのですが、現場では運転手と助手が必死の思いで車高を低くする作業をしていました。
当事者達が必死で有るほど私達傍観者には其れが滑稽・哀れに映り、遠くから車を走らせて来た人達から、批難の声が挙がる事は全く有りませんでした。
十文字峠への登山をあきらめた私達が秩父市内に戻って間もなく、ラジオで中津川林道が通行止めで有る事を告げていました。
林道に「大型車通行止め」の看板が立てられたのはトレーラー事故後間も無くの事で、20年後の今もその看板は当時のまま風雨に晒されています。

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現在の三国峠埼玉県側

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昨年の崩壊現場は今も

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この先通行止めの中津川林道

対馬で見つかったカワウソ

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皆さんにご存じでしょうが、長崎県の対馬でカワウソの生息が確認されました。
琉球大学の井沢教授等が、ツシマヤマネコ生態調査の際設置したカメラに、2,カワウソの映像が撮れ、これを受けた環境省の追跡調査で7月に糞を採集し、DNA解析でユーラシアカワウソ2匹分の物と判明した・・・と云うものです。
因みに、作家の山根一眞さんは、井沢教授とチームを組んで、イリオモテヤマネコの生態調査に当たっていましたが、対馬のカワウソには吃驚の様子でした。
最初にこのニュースが流れたのは817日ですが、前日、山根さんとご一緒してましたから、1日早く報道されていたら井沢教授等の事も、ここで詳しくお知らせ出来たか知れません。

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対馬でカワウソを撮影したっ研究グループ

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撮影されたカワウソの映像

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ツシマヤマネコ(写真)が研究対象だった

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817日朝日新聞の掲載欄

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対馬のカワウソに吃驚の山根さん
 
フジTVで、主として動物関連の番組を手掛けている松尾知明さんは、私達NPOの理事でもありますが、取材先での様々な情報を提供して貰っています。
仕事がら日本全国を飛び回っていて、今回の対馬にもヤマネコ調査に行っているのですが、「カワウソを見た」と証言する、村人数人と会っていますので、
今回の発表に於いても冷静で、「撮れるべき物が撮れた」とするスタンスです。

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当NPOの理事を務める松尾知明さん
 
TVの画面で井沢教授は、①「対馬で延々命を繋いで来た」②「時期は不明だが、韓国から渡って来た」③「飼育下から逃げ出した」、と、3通りの可能性を示しました。
そして③に関しては可能性がゼロに近いとしています。
メディアに流れた多くの情報から考えますと、心情的に①の、「対馬で延々命を繋いで来た個体」であるのが一番望ましいようですが、現実的には②の「韓国から渡って来た個体」と考えるのが一般的の様です。
 
友人の熊谷さとしさんはカワウソ研究家でもあり、カワウソとヤマネコの関係として、「カワウソは獺祭をするし、川原には食べ残しがある。これをヤマネコが食いに来るという共生関係(片利共生)にあるのだ。」
と記していますので、映像は教授等のヤマネコ研究へのご褒美だったかも知れません。

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熊谷さとしさんのカワウソ本

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熊谷さん提供のニホンカワウソ全身骨格

今回の報道に対し否定的な意見は皆無ですが、それに付いてニホンオオカミ体験者の知人が、こんなふうに述べています。
「琉球大学が撮影したところに大きな意義がある。
たいてい研究者以外が撮影するとSNSやマスコミに袋叩きにあう。
面白おかしくUMA的に、視聴率欲しさに報道されるのが関の山。
なんといっても琉球大学の印籠はこれ以上ないものだ。」
 
因みに2012年の絶滅宣言に大きな影響を及ぼしたとされる、ヤマザキ学園大学の安藤教授は、「今回の発見は非常に驚くべきことだが、韓国から流れ着いた個体で有るかも知れない」としています。
「韓国から渡って来たユーラシアカワウソ」であるなら、撮影個体がいつ来たのか不明ですので、2012年絶滅宣言に影響が出る事も無いですし、“国内へのユーラシアカワウソ導入論”の後押しになるかも知れません。
1979年にニホンカワウソを最後に撮影した高橋誠一(69)さんは、「韓国のカワウソが来たのなら大したもん。ニホンカワウソだとしたら大変なこと」と話しています。
12秒の映像と12ケ月経った古い少量の糞が存在するだけですから、対馬に人々が殺到しないよう、静かに次報を待つのが正解の様です。

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山崎学園大学安藤元一教授

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私の友人が19881220日に
紀伊半島で撮影したニホンカワウソの足跡 
 
17日の発表以降は多くのメディアで取り上げられています。
関連で、この欄の注目度も増し、その後吃驚吃驚のアクセス数を繰り返しています。
ニホンオオカミ発見となったらどうなってしまうのか、心配と楽しみが混ぜ合わせの状態です。
 
「居る物は啼く・啼く物は居る・」であるならば、「居る物は撮れる・撮れた物は居る」で、今回幸いにして環境省の追跡調査に到り、糞のDNAで牡牝生存している…処まで判明した訳です。
しかし、ニホンオオカミの場合それほど簡単でないのは、皆さんご承知の通りです。
ニホンオオカミの咆哮が録れても、比較確認する対象が無い訳ですし、映像に関しても、外部形態で識別できる研究者は居らず、糞等を採集して遺伝子レベルで調べても、比較確認する対象が無いのです。
仮に、録れても、撮れても、それがニホンオオカミであったとしても、その証明に導く為には、生け捕らなければならないのかも知れません。

秋山郷でのオオカミ探し

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雨続きの中、3週間遅れでようやく、秋山郷のカメラメンテナンスに行って来ました。
Yahooの天気予報を参考に数日前から準備していたのですが、満足出来ない予報が続く中、台風襲来の1日前、目的地周辺は午前中だけ晴天の予報でしたので、不安を抱えつつ思い切って出かけてみました。

 
関越~上信越高速道を通過中、雨が降ったり止んだりの繰り返しで、心中イライラが募りましたが、一般道に出てから青空に変わりました。
そんな空模様の為か志賀高原は下より、秋山郷周辺にも人影はまばらで、絶好のカメラメンテナンス日和となった次第です。
早朝4時に埼玉を出発し、8時には作業開始となったのですが、これは往復の高速代を別にすると、奥秩父での作業と変わらない感じで、短時間のうちに作業終了する事となりました。
9台のカメラの7台まで、SDカードが収納オーバーの状態で、いったい何事かと期待を持ったのですが、途中の山道に環境省が取り付けた入山者数調査のセンサーを目にし、悪い予感が過りました。

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山中に環境省が付けたセンサー

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奥志賀の川の流れ

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山中にはこんな景勝地が

 
カメラを設置した山道は、昨年6月に“咆哮を聴いた”と連絡を受けた場所周辺で、5月に行った時は藪交じりで、カメラの撮影ポイントは刈払いに充分時間を割いています。
ところがこの度は、山道が十分整備されているのです。
持ち帰ったSDカードを開いて、収納オーバーの原因は一目瞭然でした。 
釣り人と、山道の散策者が列を成しているのです。
私は唖然としました。

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鑑札を背に付けた釣り人

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撮れた映像の多くは散策者

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山道の整備をしている人達

 
①クマ6shot・②羚羊8shot・③鹿6shot・④テン9shot・⑤ウサギ3shot・⑥タヌキ4shot・⑦ハクビシン9shot・⑧サルの集団4shot・合計49shot以外は、ヒト、ヒト、ヒトだったのです。
ヒトの多くは周辺の散策者ですが、彼らは志賀高原での宿泊者と思われ、レンジャーの人達が道案内をし、その為に道路整備の人達が幾度も登場していました。
71日間稼働で9台のカメラの合計1557shotのうち野生動物は49shot
どうやら今回は、設置場所を間違えた様でしたが、数年前まで秋山郷には居ないとされていた鹿を含め、8種の野生動物が撮れたのは収穫でした。

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カメラの前に現れたカモシカ

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他では珍しくもない鹿だが

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一寸見には猫の様なハクビシン

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この周辺を徘徊しているサル達
 

 
過去に於いて、私は山中で幾度もクマの気配を感じ、1度だけでしたがクマに襲われました。
今回撮影した6shotの、クマと散策者達の時空間を調べると、その半分は24時間以上で、残りは12時間の時間差でした。
経験上申すなら、ヒト達はクマの気配を感じていないのでしょうが、クマは藪の中で人の気配が無くなるのを、ジッと待っていたのだと思います。
秋田の山中でタケノコ採りをしていて、クマに襲われる事例が春先伝えられますが、タケノコはクマの大好物です。
ヒトもクマも周りを気にすることなく必死になっていれば、そうしたニュースに繋がるのだと、映像を見ながら感じましたし、秋山郷でそうした事故が起きない事を祈るばかりです。

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このカメラの前にクマとヒト達が

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今年、親から離れたクマ
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