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Channel: ニホンオオカミを探す会の井戸端会議
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秩父夜祭の日に

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現在奥秩父山中に設置されているカメラは50台です。
10箇所に分けての設置ですが、その中の2箇所が東京大学の演習林でして、演習林利用者は毎年12月に発表会を行っています。
私も「絶滅したとされるCanis hodophilaxの生存を確認する作業」の演題で参加したのですが、秩父夜祭の当日でしたので、混雑を避けて早々に秩父を後にしました。
 
昼食をどこで摂ろうか少し考えましたが、前々から考えていて中々行けなかった入間市の「郷土料理ともん」に電話をかけて見ました。
昼の部の終了が1330となっていましたから、ギリギリの時間になることを知らせ、閉めない様お願いした次第です。
急かせられるまま車を走らせ10分前に辿りつきましたが、料理が用意されていましたので、挨拶もそこそこ箸を進める事にしました。
訪問の主たる目的は川魚料理-特に鮎の塩焼き-を食べる為でしたが、それ以上に店主から山の話-新潟・群馬・長野県境の秋山郷-を伺いたかったのです。
 
入間市の入間川豊水橋たもとの、川魚・「郷土料理店ともん」。

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入間市の「郷土料理ともん」

知る人ぞ知る、渓流釣りのパイオニア、山菜・きのこの達人、戸門秀雄さんのお店です。
しかし私は、正直言って2ケ月前まで戸門さんの事は全く知りませんでした。
渓流釣りも山菜採りも嫌いではないのですが、ニホンオオカミ一筋の私としては守備範囲としなかったのです。
 
このサイト、20167/30掲載の「渓流釣り師からの情報」、11/10掲載の「秋山郷からの便り」で紹介した、三田村さんからの情報で戸門さんの存在を知り訪問したのですが、ネット上の噂に違わず料理は天下一品、ご飯も絶品でした。

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「郷土料理ともん」のお献立

私の田舎の味が漂いましたので「このご飯は何処産ですか」と伺いますと、予想通り「魚沼産コシヒカリ」の答えが返って来ました。
長年釣り及び山野に親しんだ生活を送っている為、戸門さんは10点近い著作物が有ります。
その中に新潟県内でのレポートも多く含まれ、魚沼コシヒカリの入手も可能だったわけです。

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戸門秀雄氏

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戸門氏の著作「職猟師伝」
 
戸門さんと名刺の交換をしている際、息子の剛さんが話に入って来て「今朝、見狼記を見たばかりですが、あの八木さんですよね」と云って来たのには吃驚でした。
戸門さんも剛さんも行動範囲は似ている様でしたが、剛さんはここ数年奥秩父への入山が主と云う事で、話が弾み過ぎて折角の料理も冷め加減になりました。
そんな中、料理のこと等どうでも良くなる様な話を始めたのです。
岩魚釣りの最中「オオカミの咆哮を聴いた」と云うのです。
 
私は間髪入れず何時何処での質問をしたのですが、釣果を纏めた分厚いアルバムを取り出し、正確な日時と場所を教えてくれるのでした。
2014.06.13.中津川の某沢で釣りをしている最中との事で、8/12に掲載した「オオカミが魅入った人」のKさんが教えたく無い現場(と思われる場所)に直近の沢で、少し古い話になりますが、2014.9.19の「ニホンオオカミは生きているような気がする」の高橋隆介氏の現場と一致します。

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高橋隆介さんの目撃現場
 
613日として考えると、Kさんの体験は6/18ですし、2016.09.09.の「奥多摩・日原川支流倉沢にて」の渡辺さんの体験もその頃になります。

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渡辺公一郎さん

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渡辺さんの目撃現場

中津川流域での体験者が一人増えるだけではなく、絡み合った糸が一つ一つ解れて来ている・・・そんな気持ちにさせてくれる体験談です。
話が余りにも盛り上がって咆哮を聴いた際の詳細を聞き逃しましたが、山行への同行も希望されましたし、自宅からそれ程遠距離でもないので、時折伺う事となりそうです。
いずれ、生々しい体験談をお知らせしたいと思います。
 
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*幾度もこのブログに登場しているルポライターの宗像 充が、『ニホンオオカミは消えたか?』のタイトルで1227日に出版します。
2年前東海大学出版部の【望星】で、【オオカミが来た】なるタイトルで6回連載した事はすでにご紹介済みですが、これを大幅に改定しての出版です。
本人曰く「ニホンオオカミに関する議論をなんとか整理しようと思ったんのですが、なかなか困難でした。議論の試金石になればと思っております。」
・・・だそうで、出版社は旬報社、1400円です。
費用対効果は得られそうな価格ですので、皆さんお手元に1冊如何でしょうか。

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宗像 充 さん

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【オオカミが来た】が掲載された「望星」
 
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私事で恐縮ですが、去る127日、義母 小山あい が94歳で、天の国の人、最愛の夫小太郎 のもとへと旅立ちました。
つきましては新年のご挨拶を失礼させて戴きます。
本年中のご厚情を深謝いたしますと共に、明年も変わらぬご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。
また、寒さに向かう折からご自愛致す事お祈り申し上げます。
                             201612
 
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ニホンオオカミは消えたか?

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1日の24時間が早く過ぎる様に、2016年も間も無く過ぎ去ってしまいます。
若いときは感じなかったのですが、こうして歳を重ねますと、全く年月の経過は早いものです。
そしてブログUPも、年初めの挨拶から数えて、今回で本年48回目となりました。
 
改めて見返しますと、
1-1/10掲載の澤田教則さん2-1/15望月照子さん・3-1/29の岩崎魚成さん・4-2/6の柳賢治さん・5-429圓谷秀幸さん6-5/14の藤平達夫さん・7-5/20永嶋敏さん8-5/27松岡磐夫さん9-6/4の前進一郎さん・10-7/8の小山勇吉さん・11-7/15の加藤恒彦さん・12-7/22の高橋隆介さん・13-7/30の三田村孝さん・14-8/5田島佳和さん・15-8/12Kさん・16-8/19の瀬川きりさん・17-8/26の私・18-9/2宮川淳一さん・19-9/9渡辺公一郎さん・20-9/1623の上原悟さん・21-9/30の山崎浩希さん・22-10/7の吉田道昌さん・23-11/10の三田村さんと井野俊男さん・24-12/15の戸門剛さん】・・・と多くの方の体験談を掲載することが出来ました。
 
その中には1/15の様にニホンオオカミではないと思われる体験談も有りましたが、殆どの体験がニホンオオカミと信ずるに足る情報です。
当ブログ「11/20のお門違いのコメント」「12/5の謎に満ちたニホンオオカミ」を熟読すれば大凡はご理解戴けるものと思っています。
 
「前号で宗像 充さんが、【ニホンオオカミは消えたか?】のタイトルで1227日に出版します。」と記しましたが、出版社の都合で2017111日に変更されました。
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旬報社刊・宗像 充著 
   「ニホンオオカミは消えたか?」

その内容ですが、下記が主な目次で、当ブログで発進した記事を参考にした部分も多々見受けられます。
56年前「岳人」編集部古庄氏から「ニホンオオカミを勉強したい人物を紹介する」との電話が著者との出会いの始まりでした。
著者紹介の部分で触れている様に大学山岳部出身と言う事で、宗像氏は今まで私が接した多くのメディアの方の中で、一番山行を供にしています。
著作物は届いていませんが、山行中に多くの話を交わしたり、密接に交流して大体解かりますので説明してみます。

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著者の 宗像 充 さん

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熊本県下球泉洞の調査時の様子
 
主な目次
. オオカミを探す?
『・オオカミが出た・「オオカミ探し」と「オオカミ再導入」・幻のニホンオオカミ・オオカミを復活させよう・写真に写ったニホンオオカミ・「祖母野犬」の撮影
・ニホンオオカミか否か・「ニホンオオカミは生きている」・祖母野犬の故郷・二つの絶滅宣言・「最後」のニホンオオカミ』

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西田 智氏撮影の祖母野犬

. ニホンオオカミとは何か
『・どうやって見分けるか・二つの学名、二つの名前・「オオカミは出ますか」・分子生物学と分類・「最後のオオカミ」はいったいどれだ
・どうなったら絶滅か、も変わる・やっぱり別種?・タイリクオオカミも消えた・ニホンオオカミは本当に小さいか』
 *私としては「分子生物学と分類」を注視願いたいと思っています。(20149/9のブログ形態による分類・遺伝子による分類」を参照下さい。)

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飯田美博の日本最古のオオカミ化石
(白い部分はレプリカ)

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東吉野村産アンダーソンのオオカミ
 
. どこからどこまでがニホンオオカミか?
『・ニホンオオカミが亜種とされてきたわけ・芝増上寺に現れたエゾオオカミ・Canis lupusに統合・「ニホンオオカミ」は本当に一種類?
・タイプ標本は一種じゃない?・「取り違え」の背景―シーボルトとテミンクの確執・ロンドン動物園のオオカミとヤマイヌ』
*「ニホンオオカミ」は本当に一種類?・・・私たちの本当の主題はこれです。

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宮本典子和歌山大学名誉教授らと


. 人生をかけたオオカミ探し
『・オオカミ追跡四七年・点が線に、そして面に・肉薄・六九人目のオオカミ体験
・スーパーインポーズ・情報センター・遠吠えは響いているか?』
*ここは私のコーナーかも知れません。69人目のオオカミ体験者は著者。

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スーパーインポーズされた秩父野犬

. ニホンオオカミはなぜ生き残ったか?
『・タイリクオオカミもいた・いつどこから来たか・亜種・別種論争にピリオドは打たれるか・「オオカミ」はどんな動物か?
・「戻り狼」を放つ?・オオカミとイヌの交雑のストーリー・個体群の危機と雑種化』

. 行方知れずのオオカミ捜索
『・日本の森に何が起きているのか・オオカミがいた・オオカミの故郷秩父にあるもの
・息づく信仰・東北にオオカミ現る・オオカミを消せ・行方をくらましたオオカミ』

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宮城県村田町歴史みらい館の「オオカミ現る」
展に提示されていた木造のオオカミ
 
著者紹介
宗像 充(むなかたみつる)
『1975年、大分県犬飼町生まれ。一橋大学卒業。ジャーナリスト。大学時代は山岳部に所属。登山、環境、平和、家族の問題などテーマに執筆をおこなう。
ニホンオオカミのほか、ニホンカワウソや九州のツキノワグマなど、絶滅したとされる動物の生存について検証したルポを雑誌に発表。
現在は長野県大鹿村に在住、リニア中央新幹線の反対運動についての取材を続けている。』
 
私の下にも数社から出版の打診が来ていますが、毎週山に足を運んでいる現在それを受けるのは、フィールドから外れる事を意味しています。
年初めにもそれが有りましたが、受けなくて正解でした。
受けていたら宗像氏とダブってしまった訳ですし、多くの点で重なった内容になった事が予想されます。
それより何より身近に迫る「老い」が、フィールドから離れた私を襲って来ることが目に見えています。
未だ「大願成就」とならない中、緩やかであっても確実に前へと向かっている歩みを止めるのが怖いのです。

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2017年度の調査予定地点
121524の体験地点
 
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2017年の最重要調査地点
13.23の体験地点

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2017年度の調査予定地点
19の体験地点

2017.01.11に発売される「二ホンオオカミは消えたか?」は、私の心中を代弁してくれる書籍と信じています。
今回で都合200回目のブログ発信ですが、それを読み返すのが煩わしい人にお勧めの書籍が「二ホンオオカミは消えたか?」だとも思っています。

狼 翔

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慌ただしい年末が過ぎれば、新しい歳が否応なく訪れます。

 
昨年末、義母が手の届かない世界に旅立ちましたので、新年のご挨拶は欠礼させて戴きますが、私の心中は書に示す通りです。
 此の度の「狼翔」も一昨年の「狼魂」同様、活動を応援いただいている書家の平山遊季さんからのものです。

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平山遊季さん書「狼 翔」


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                     平山遊季さんとその作品
   【ミツバチは仲間とともに生き一生のあいだにわずかスプーン一杯の蜂蜜をつくります。
    一さじをすくう時どうか1匹のミツバチの命に思いを馳せてください。】

書に恥じない様、今年は調査地域を他方面にも向けようと、現在準備中です。 

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2014年のフォーラムで基調講演をお願いした山根一眞さんからこんなメールを頂戴しました。



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山根一眞さん


【八木さま お花、喜んでいただき嬉しいです。
> 一介の「ヤマや」だった私をここまで世間に知らしめてくれたのは、「シンラで山根さんが私を必要以上に取り立てた」からこそだと考えています。
いやいや、私こそ八木さんのエネルギーに敬服、感化したことで、「シンラ」が続けられたのですから、むしろお礼を言わねばならないのは私の方です。
いずれによせ、来年には本をまとめたいです。どうぞ、よいお年を。】
山根さんの出版に関しては、フィールド活動同様、二ホンオオカミ本の決定版になるべく全力投球で応援したいと考えています。

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昨年も多くのメディアからお話を戴き、映像で、活字で皆さんの下にメッセージをお届けした訳ですが、昨年から取材を続けていた「テレビ和歌山」報道部の佐藤瑞穂さんの作品が19日(月)「ニュース&情報 5チャンDO!」にて夕方6時~放送されます。
ただ、残念ながら独立放送局の為、和歌山県内のみの放送となります。
徳島県東部や三重県の南部では見られるところも多いそうですが、大阪では、南の方にアンテナを向けなければ見られないということです。
私のHPからも数枚写真をお貸ししています。
佐藤さんからの文面には「南方熊楠は、2度オオカミの糞を見つけたと記していて、2回目は最後のオオカミ確認後の明治43年でした。」とか、私的立場で和歌山から車で三峰神社に10時間かけて出向き、応対した神官から「江戸時代、江戸詰めの紀州藩士が三峰神社に足を運んでいた」事を聞き、「その時代の紀州からは中々行く機会がない場所に紀州人の足跡を見つけたことが嬉しく感じられました。…」そんな文面も届けられています。

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南方熊楠の研究書


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旧大塔村の歴史民俗資料館

放送(電波)エリアの方、是非ご覧ください。ご覧になれない方は、そのエリアの親戚、友人を思い出して、DVDの提供をお願いしては如何でしょうか。

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本年1/11に発売される「ニホンオオカミは消えたか?」が私の下に先日届きましたので目を通しましたら、注視して戴きたい文面が有りましたので一足先に提示します。
【越滅の定義も変わる】
2001年、国際自然保護連合(IUCA)は「レッドリスト カテゴリーと基準」において、絶滅の定義を以下のようにした。
疑いなく最後の一個体が死亡した場合、その分野群は「絶滅」である。
既知の、あるいは期待される生息環境において、適切な時期に(昼と夜、季節、年間を通じて)、かっての分布域全域にわたって徹底して行われた調査にもかかわらず、一個体も発見できなかったとき、その分類群は「絶滅」とみなされる。
判定を行うための調査は、分類群の生活環と生活形に照らして、十分な期間にわたって実施するべきである。
環境省のレッドリストは、IUCNの定義を反映させて独自のものを定めているとされる。
しかしニホンカワウソや九州のツキノワグマが絶滅したとされた2012年のレッドリストでは、ここまで厳密な認定がなされたとはとても言えない。
IUCNでは撤廃された50年というルールも環境省の基準では残っている。
ニホンカワウソの絶滅がIUCNの定義に当てはまらないどころか、50年という期間も満たさないことは明らかだ。
二ホンオオカミとなるとその認定はもっとずさんだ。
「疑いなく最後の一個体」がどれかなど、いまもって明らかではないし、そもそもニホンカワウソと違って、行政が関与してのニホンオオカミの生息調査など現在まで一度もされたことがない。
IUCNの定義に基づけば、いまだに「ニホンオオカミが絶滅した」とは言えないことにもなりかねない。
行政や学者の怠慢を正当化するのに絶滅認定は都合がいい。
だけど、現実に野山に正体不明の動物が行き交っている場合、その態度は誠実なものと言えるだろうか。
先述したように、そもそも「いる」ことの証明はできたとしても、「いない」ことの証明はとても困難だ。
「いない」という常識を守るために生息情報を否定する以外に、その証明に積極的な意味はない。
開発予定地域のイヌワシの営巣のように、いては困るからと生息情報を否定するなら、それはサイエンスではなくポリティクスだろう。
覚えていていいのは、IUCNも環境省も、野生動物の保護を目的に掲げている機関だということだ。
100年も生息情報がないわけだから常識的に考えて絶滅だろう、と役人が安易に言いたがる気持ちはわからないでもない。
その常識を裏付けてくれる学者にも事欠かない。
しかし野生動物の保護という面から見ると、その態度は本筋とは言えない。
環境省のニホンカワウソの絶滅宣言に対して、県獣にニホンカワウソを据える愛媛県は反旗を翻した。
愛媛県のレッドリストでは、ニホンカワウソは絶滅種ではないのだ。


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愛媛県産ニホンカワウソの全身骨格

それは生息を願う県民感情に沿った政治判断かもしれないけれど、一方で調査に予算を付けた愛媛県の態度は、少なくとも少なくとも野生動物の保護という領分を踏み外してはいない。
ニホンオオカミでは一度も行政がかかわった生息調査がなされていない。
それどころか、保護の基礎となる研究が始まったのは、二ホンオオカミの「信頼できる生息の情報」を学者たちが得られなくなってからのことなのだ。


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秩父市浦山集落に遺るオオカミ落しの穴


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                   オオカミ除けはじき垣(秩父郡小鹿野町)
                  昔はオオカミが新墓を掘り返す事があった

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会員の皆さんにお届けしている「NPO法人ニホンオオカミを探す会」の卓上カレンダーと手帳です。
昨年12月に網膜剥離の手術を乗り越えた、吉村理事が毎年制作しています。
上記の通り、ニホンオオカミでは一度も行政がかかわった生息調査がなされていないのです。
オオカミ生存確認まであと一歩。
山に入って、私たちと一緒にオオカミ探しをやりませんか。


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2017年度のカレンダーです



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同じく手帳です
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種の保存法違反

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今年の初山行は15日でした。
まずまずの天候でしたが強風で、体に堪えますので楽をしようと、瓦礫を徐けつつ林道の奥まで車を走らせていたら、一面の氷上に乗り入れてしまいました。
焦れば焦るほどドツボにはまってしまい、アクセルを踏めば踏むほど溝が深くなり・・・と。
年金生活者に適した車という事で一昨年軽車両を購入したのですが、燃費効率は良くてもこんな時には非力が目立つばかりです。
狭い林道上ですから、変にスリップすると数十メートル下の河原に墜落です。
何とか窮地を脱したのですが、その晩、車もろ共河原に落下する夢でうなされ、階下で寝ている妻が心配する事となりました。
昨年暮れ、義母と山仲間が逝ってしまい、死への恐れがそうさせたのか、はたまた歳を重ねて生への執着心が増したのか・・・兎も角、大願成就まで生きて居たいのです。
 
三峯博物館の館長から電話が入ったのは昨年の11月下旬、秋の繁忙期が終わって一息ついた頃でした。
数日後に長野県警の係官が2名、「種の保存法違反」で展示中の毛皮について話を聞きに来る…と云う事したが、全く要領が得られませんでした。
ただ、最近博物館に展示した毛皮標本が関係有るらしいと想像出来たのですが、法律違反とは程遠いと考えていましたので、県警の扱いには唖然とする思いでした。
 
問題の標本はニホンオオカミコーナーに「参考展示」として提示中で、キャプションは下記の通りです。
【インターネットのオークションで落札した毛皮だが、二ホンオオカミの毛皮に類似している。
 個人所蔵とするより、多くの方に見て戴きたいとの思いの中、当館に寄贈された。
 頭胴長90cm・尾長30cmは二ホンオオカミとしての範囲だが、体高が40cm±で範囲から外れ、爪も小さい。
ただ、顔面は当館にて展示中(向かって右側)の標本に、その他のプロフィールは、山口県産の標本(写真展示)に類似している。
謂れも不明で、実態を探る事は困難を極めるが、毛皮のDNA鑑定が確立出来た時、この標本の正体が明らかになるのだと考える。】    
       横浜市 小林直人氏 寄贈

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小林直人さんが寄贈したイヌ科動物毛皮

 
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想像以上に小さかったその動物の爪

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国内外8例目のニホンオオカミ頭部

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寄贈された毛皮の頭部

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                                       三峰博で写真展示されているニホンオオカミ
                            個人所有・国内外9例目の標本

これは横浜市の小林さんが「商品:狼 毛皮 敷物 山犬 オオカミ 剥製 ツメ有り」と提示された毛皮をオークションで落札し、私に見て欲しいとメールが有り、その後以下のようなやり取りを交わしたものでした。

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三峰神社奥宮での小林さん

K)≪先日、ひょんなことからイヌ科動物の毛皮をオークションで手に入れました。
ノイヌかタヌキか程度に思っていたのですが、実物を見てライデンや科学博物館の標本に似ているように思えてなりません。
添付した写真を見ていただけますか。
鼻と耳が欠損しておりますが、全長は120cmほど、体長は90cm位です。
大きさ、全体の毛並み、四肢の短さ、背の黒帯、マント、スミレ腺を示す班、前肢前面の暗色班などいわゆるニホンオオカミの特徴を揃えているように見えるのですが。
右前肢上部に銃痕のような穴が三つほどあります。
それほど古いものとも思われず、キツネかノイヌと思って狩猟したものではないかと夢想していまいます。
八木様はどう思われますか。
長野県下の出品者に問い合わせたのですが、十年前位からあり、持ち主の旦那さんが亡くなってしまって、奥さんには入手先等わからないとのことでした。
毛皮だけでは何ともいえないことは承知しておりますが、ご参考まで情報提供いたします。≫
 
Y)≪写真を見て気付いた点を列記します。
・尾長30cm・頭胴長90cm・ですのでCanis hodophilax の範囲だと思います。
・前肢前面の暗色班・スミレ腺を示す班・は送付頂いた写真からでは確かな確認ができませんでした。
・体高―IMG1777の写真でー(爪先から爪先の長さ÷2)はどのくらいでしょうか。(正確な体高ではないのですが)IMG1792から推測すると、4041cmにしかならないと思います。(この毛皮標本は4足ともに爪が確認できるよう思えます。)

・仰る通り状態から察して左程古い標本とは思えない感がします。
Canis hodophilaxとして同定されている国内外9例の標本と比較して、一番違和感を覚えるのが毛の質です。(あくまでも写真上からですが)
7月か8月に三峰博の展示替えが有りまして行きますので、毛皮持参でお出でになったら如何でしょうか。
率直に言って、写真で見るのと実物を見るのでは違うと言う事です。
そして、ご承知の通り「謂れ」が重要な役目を果たします。   八木 博≫
 
20168/5のこの欄「渓流釣り師からの情報(2)山犬の段」の末尾に記した通り、8/4の展示替えを行っていた博物館に、小林さんは毛皮持参で現れました。

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昨年8月の展示替えの様子

K)皆様にそれらしさを感じていただけて、ほっとしました。
最近「渓流」や「Star People]を読んだためでしょうか。
山でオオカミらしき動物に会う夢を見ました。
その数日後、たまたまオークションで手に入れたのが、あの毛皮です。
自分でも競り合うこともなく、すっと手に入って不思議な出会いだなと思いました。
三峰博で保管されることがあの毛皮にふさわしいと思います。
毛皮を見た方たちが、毛色や毛並みのイメージを持って山に入ることによって、新たな発見情報がもたらされることを期待しております。
自分も期待を持って山歩きをしたいのは、山々ですが、お話しした通り体力に自信がないため、断念しております。
八木様や横山・林様達が発見されることを期待しています。≫

K)最近のブログを見て、いよいよ実物との接触が実現するような期待感を抱いています。
オオカミを探している方たちの中には、自分だけのものにしていたい方や自分が発見したいという野心のある方がおられるようですね。
そうした方たちには関わらず、八木様とお仲間の皆様は地道な探索を続けられ、成果が現れますことを祈念しております。≫
 
展示替えの手伝いにNPOの横山・林さんが居りまして、両人が都内の最寄り駅まで小林さんと同乗した・・・と云う事ですが、偶々、戯れに入札した毛皮が落札出来て、入札者が善意で博物館に寄付した物が法に触れ、関わった人たちが振り回された・・・そんなドタバタ劇でした。
(オークション出品者が売り価格を高くしたいと思い、種の保存法に触れる「狼・オオカミ」の文字を入れた為)
今までの様に、「面白い毛皮」的興味の中でオークションに参加すると大変な事になる・・・そんな戒めとも思われます。

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種の保存法関連の新聞記事

因みに「種の保存法違反」としてネット上に、
絶滅の恐れのある野生動植物種を保護するため、1992年に制定。
国際的な保護対象の動植物688種と、環境省が指定する国内の175種について許可を受けた場合などを除き、捕獲や売買などを禁止している。
20136月の改正でネット上の広告が規制され、罰則も強化された・・・と記されています。

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                                            オークションで購入されたイヌ科動物の毛皮
                                これらも扱い次第では法に触れる事となる
 
長野県警に参考品として持ち帰られたイヌ科動物の毛皮は、1月末には返却されるそうですので、4月から博物館でご覧になれると思いますが、今後、動植物の標本関係を安易に入手すると、厄介な事に巻き込まれる恐れが有りますので、繰り返しますが注意が肝要です。

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フンボルト大学(独)に所蔵されている毛皮標本

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三峰博に展示されているニホンオオカミの毛皮

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                                                          上記毛皮のリニュアル前の写真
                                              同じ毛皮でも、手の入れ加減で全く違って見える

相模原市明日原からの情報

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ニホンオオカミに興味を持つ人の中で、実体験を持つ人とそうでない人、2つのグループに分ける事が出来ます。
実体験を持たない人たちの中でも、山に触れていれば何時か・・・と考え、山歩き・魚釣り・等で山に向かいます。
そして志なかばで気持ちが折れ、何時か方向転換をし違った道を歩く・・・。
見狼記の中でも語りましたが、それを目的にした邪まな気持ちをオオカミ達は感知するのでしょうか、中々都合の良い様に事が運ばないのが現実です。
オオカミ体験を得るべく山に向かって、それが見事に為される人の数は極々僅かですが、山に向かわなければ何も始まらない事だけは確かなのです。
 
かっての私がそうであった様に、無の状態で山に触れていて体験をすると、その正体を知ろうと夢中になって・・・。
そうした中の一人上野裕人さんの体験を紹介します。
 
【私がその咆哮を聞いたのは1995年(平成7年)9月中旬の、晴れた午後4時ころ、2分間くらいの間でした。
現在は相模原市緑区となりましたが、当時の地名は神奈川県津久井町鳥屋で、水沢林道入口手前の山中です。
その時私は景色を眺めていたのですが、私の西方約100m先くらいで吠えている様でした。
近くに水場(水沢川)がある針葉・広葉の混合樹林内で、最寄りの鳥屋集落まで約2kmの距離でした。
咆哮ははっきり聴きとれ、カタカナで書くと、ウオオーオオオーンンンン ンンンンンン。
声が空気を振動させ、遠くからなのに近くで啼いている様に聴こえ、周りにいた家族連れも大変気味悪がっていました。
お互い「これ、きっとオオカミだね」と確認しあったのですが、麓のイヌも遠吠えに反応していました。
その後幾度も周辺を歩きましたが、咆哮を聴いたのはその時1回きりです。】

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上野裕人さんが体験した周辺の地図
                                           
一昨年秋から昨年春にかけOutlookが故障し、3.000件ものメールが滞りましたが、2015/12/26 () 14:50付けでAkichika Inoueさんからこんな情報が届いていました。
 
【拝啓 はじめまして 私 神奈川県相模原市緑区在住のAと申します。
目撃情報といっても昭和20年頃の話だと思いますので・・・たいしてお役にはたたないと思いますが・・・
私の父親M(7年ほど前に他界いたしましたが)ニホンオオカミ捜索のテレビ番組を見ていたら妙な事を言い出しまして・・・
これも20年以上前の話なので・・私自身も記憶があやふやなのですが・・・。
その時の会話
父 「こんな物よう~俺が若い頃、明日原(あしたっぱら)になんぼもいた~ぞ
  ~」
私 「そんなわけね~だろう~学問的には明治38年頃に絶滅したって学者が
  言ってんだからよ~普通の野良犬とかと 間違えてるだけじゃねーの?」
父 「そんな事はね~あきらかにこいつ等(ちょうどテレビに写真が出ていた)
  だった・・・」

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オオカミ捜索番組に出ていた秩父野犬

私 「お父ちゃんだけでなく他の人も見てたのか?」
父 「一緒に山仕事をやってた連中も・・・地元の連中も・・・当時は、そんな珍しいも
   んだとは誰も知らねえから・・・
   あ~また山犬(オオカミではなく山犬と呼んでいたらしい)が吼えてら~く
  らいにしかおもってなかったんだよ~」
私 「・・・・・」
その後・・山の中で昼飯を食べてると離れた所にいるのでオカズを投げてやったら、嬉しそうに持ってった・・・みたいな事を話していた記憶もあります・・・
場所は神奈川県、相模原市、根小屋、明日原(地元ではアシタッパラ)あたりらしいです・・・情報といってもこの程度のものですが・・・
仮に事実だとしても今現在生き残っているとはとうてい思えませんしね・・・何かの参考になればと思いメールさせていただきました。】 
 
「明日原」と云えば、在野のニホンオオカミオオカミ研究家の一人小川さんから、こんなお手紙も届いています。
 
【お世話になります。
先日相模原市根小屋明日原に行って来ました。
30戸ほどの昔からの山中の集落でした。
菊地原家の「狼さま」と呼ばれている頭骨を見せてもらいましたところ、山梨県立博物館から「キツネらしい」との鑑定を受けたとの事です。
頭骨長15.5cmでキツネに似ていました。
明治時代に捕獲され、昭和初期、狼頭骨との認識で、「キツネオトシ」の効果が2回も有ったとの事です。 2016.6.07. 小川路人】

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小川さんが調査したキツネの頭骨

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「ニホンオオカミ頭骨発見」の新聞記事

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新聞記事の頭骨・実はキツネの頭骨
 
相模原市緑区明日原周辺に私は幾度も通いました。
何れも20年ほど前の事になりますが、宮ケ瀬湖近く清川村煤ヶ谷の民家に保管されている頭骨標本調査の為や、秦野市・山北町での頭骨調査の帰りに山越えで寄ったり・・・。
登山者からイヌ科動物の遺体を見つけたとの知らせを得て、道志川を辿った上流域の長者舎から犬越路の谷筋で、遺骸発見の為飽きずに探し続けたり・・・。
上野さんがオオカミ体験をした頃それとは知らず、一生懸命になって現在の相模原市緑区域でオオカミ探しをしていたのです。

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20年前幾度も通った山域の地図

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秦野市栗原家のニホンオオカミ頭骨

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見狼記でも登場した中村家の頭骨

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煤ヶ谷集落で一番立派な岩沢家の頭骨

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煤ヶ谷集落井上家の頭骨・現在行方不明

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井上家頭骨と同体の山田家所蔵左前肢

柳田國男「山の人生」

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1月最後の山行きは26()でした。

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中津川集落入口の氷壁

20146月に咆哮を聴いたとの情報が有った沢筋へのカメラ設置でしたが、先行者が2名いる事に気が付いたのは、1つ目のゲートを越えてから30分後位でしたでしょうか・・・。
マウンテンバイクを押して歩く若者たちは、林道終点までが目的らしかったのですが、雪が予想以上に深く2つ目のゲートを越えて進むことは有りませんでした。
歩くだけでも大変な行程ですので彼らの考え方は正しく、私も一瞬心がくじけそうになったのですが、雪上のフィールドサインを追って歩くのは楽しいもので、気が付くと目的の沢の入り口に達していました。

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体験者から届いた周辺の略図

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林道から沢への分岐地点

沢伝いに4050分歩き当該地に着いたのですが、何処かから咆哮が聴こえて来るのでは・・・そんな気持ちにさせる絶好のロケーションでした。

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遠方に見える山並みの先は長野・群馬県

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略図上の「北向きの滝」

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周辺随一の名所「大カツラ」
 
2日前の24日(火)NHKBSで放送された「ニホンオオカミ伝説の地を歩く」なるトレッキング番組を見ましたから、一層そんな気持ちにさせたのでしょうが、番組中で、『御眷属子を産まんとする時は かならず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみ これを聴くことを得べし』・・・と示されていましたから、聴く事を許されなかった私はその時「心直ぐならざる者」だったのかも・・・知れません。
さもなくば、御眷属が子を産まんとする時で無かったのでしょう。
 
『御眷属子を産まんとする時…云々の一文は、柳田國男の「山の人生」中に記されていますので、関連ある部分を少し紹介します。
 
【山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族に対しては、〈産見舞い〉という慣習が近頃まであった。
遠江・三河に限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場所があった。
いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。
ただし果たして狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。
津久井の内郷などでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎や雉子の類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、
 
秩父の三峯山では今もって厳重の作法があって、これを〈御産立(おこだて)の神事〉というそうである。
『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属を産まんとする時は、かならず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみ これを聴くことを得べし。
これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎衣冠して、〈御炊上げ〉と称して小豆豆三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。
その地に注連を巡らし飲酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。

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三峰神社本殿

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北村西望作「神犬産立」
 
しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。
狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるを得なかったことを意味するかと思う。
狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を脅かしたという話は西洋にも広く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。
ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持ちの女房がにわかに産を催し、夫が水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬み殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や巌があって、しばしば祟りを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。
ただし実際この問題は難しくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。
山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって広くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵ではなかったかということである。】
 
御覧の様に≪三峯山では今もって厳重の作法があって≫・・・とあるのに対し≪御産立の神事が年を隔てて稀に行われていた≫・・・とする他神社との想いの相違・・・。
オオカミ探しを続けている私の下に届く生存に関する情報が、奥秩父山中で圧倒的に多い事と若しかしたら関係あるのかも知れません。
 
因みに「ニホンオオカミ伝説の地を歩く」なるトレッキング番組ですが、1日目、三峯博物館での取材から神社奥宮への登山、そして車移動で奥多摩の一之瀬高原での取材、2日目将監峠(出発地不明)を経て和名倉山(2.036m)手前の東仙波(2.003m)でのロケでした。


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東仙波(2.003m)頂


三峯神社奥宮から一之瀬高原経由東仙波のトレッキングとは、何て無茶振りなんだろうと首を傾げて見ていたのですが、東仙波からの景観が素晴らしいと語った映像は、飛龍権現近くの禿岩からの景色で、東仙波からは絶対見える筈のない一之瀬集落が映っている酷い物でした。

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写真中央部白い部分が一之瀬集落

この番組とは無関係だった私としては、胸をなでおろした次第です。

福井城址のニホンオオカミ

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20年前の私はフットワークだけが取り柄の人間で、各地をニホンオオカミとの遭遇を夢見て歩き廻り、未知の標本と巡り合うと今泉吉典博士に教示戴いていました。
秩父市内の民家に所蔵されていたニホンオオカミの毛皮の写真を持参したか何かの時、博士の机の上に在った書籍(1996.7/20.に晶文社から発売された『鳥を書き続けた男―鳥類画家 小林重三』)が目に留まり、福井城址のニホンオオカミに関する文面が載っている事を教えて戴きました。
今泉博士は福井城址のオオカミをニホンオオカミと考えていましたが、1962年.(昭和37年)1月19日開催の第61回日本哺乳動物学会例会に於いてそれを否定されていたので、同書から何かの手掛かりが得られないかと思案している処に、タイミング良く私が伺った・・・と云う事でした。

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国松俊英著「鳥を書き続けた男」

民家の毛皮は昭和の初め、三峯の奥裏で獲れたとされていたので、私はそれを証明する手段を探っていたのですが、それより何より福井城址の件が、鷲家口の明治38年絶滅説を崩せれば、無し崩し的に生存説に結び付けることも出来ると考え、博士の情報を胸に刻む事としました。
 
19978年だったと思います。
12年前に撮影した秩父野犬を題材に、TV局から「1時間番組を制作したい」旨の話が持ち込まれ、半年間掛けての撮影が始まったのですが、山中でのロケ中に突然ディレクターが書類を持ち出しました。
それが松平試農場の雑日記(1910年)でした。

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明治43年の松平試農場の雑日記

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雑日記の内容・狼捕Xの文字が・・・

ディレクターは半年間苦楽を共にした私に論文作成を望んだ様でしたが、学識経験者の今泉、吉行先生に作成して貰ってこそ論文が生きると考え、私は吉行先生に資料をお渡ししたのです。

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吉行・今泉博士の論文

(その辺の事はユーチューブ幻のニホンオオカミを追い続ける男-で見る事が出来ます)
番組制作はディレクター田中重幸氏とカメラマンの元吉修氏そして私、3人の合議で進められたのですが、非常に大きな意義を持つ作品となりました。
何より私にとって大きな転換点となったのは、番組で取り入れた自動撮影カメラでした。
このカメラは元吉氏のハンドメイドでしたので、これ以降私たちのオオカミ探しのスタイルが全く変わったのです。
現在山中に50台のセンサーカメラが稼働中ですが、元はと云えばこの番組が契機でした。
 
松平試農場の雑日記ですが、少ない予算の中で如何に内容ある番組を作るか・・・と、知恵を絞った末の顛末が此処だったのですが、田中氏が苦労の末入手した資料が、後にニホンオオカミ研究に於いて大きな波紋を広げる訳です。

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小原巌先生に説明を受ける田中氏

田中氏の言に依りますと、松平試農場誌は福井新聞経由で入手し、雑日記は都内在住の福井城主末裔から直接入手したとの事です。
因みに、私も松平試農場誌を福井新聞経由で入手したのですが、その流れで後日、ニホンオオカミの頭骨を福井県内で発見・調査することが出来ました。

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福井県鯖江市内で発見した標本
 
【友永富氏(福井県農業試験場長)執筆の「松平試農場誌()」・関連のある処のみ原文のまま以下に記載します。

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友永富氏執筆の「松平試農場誌」

1910年(明治43年)8月3日には野犬が福井城内に潜入したとの情報が伝わり、伝習生が総出動して捜索したが発見されなかった。
ところが夕方になって寄習舎付近に現れたため、ちょうど現場付近にいあわせた奥谷奥之助助手が銃で射止め佐竹正継助手、稲垣正夫研究生の両名がこん棒でうちたたき捕殺した。
7月30日小浜で興行中の矢野動物館が汽車で小松に向う途中満州産と称する灰色のオオカミ1頭が今庄---鯖江間で逃亡した事件があり、このことがあってから舟津村小黒町、有定、福井市西端小山谷村等で子ども数名が傷つけられ大騒ぎしていた時期でもあり、4日朝、福井中学動物学教諭羽金準一郎の鑑定を求めた。
その結果は純粋の日本オオカミであるが矢野動物館のものかどうかは不明であった。
一方同日午後矢野動物館員の松尾嘉蔵が来福し、調査の結果同館所有のオオカミでないことが明らかとなった。
当時このニュースは「オオカミ城内を荒らす」と題し大々的に扱われた。

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                                                      捕獲されたオオカミのスケッチ
                                      福井風物(明治大正)三田村保正とある

写真は第十八代福井藩主松平康荘(まつだいらやすたか)の撮影した福井県最後のオオカミである。

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                                          第十八代福井藩主松平康荘撮影のオオカミ

これについて試農場は奥谷奥之助に柳行り一組と園芸調査書一冊を、佐竹正継、稲垣正夫氏の両名には柳行り一組ずつをあたえて賞し松平邸からも三名に対し賞賜があった。
日本では三十八(1905)年一月二十三日に大和鷲家口でアメリカの探検家マルコルム、プレイヤ.アンダソン一行がオオカミ一頭を八円五十銭で買い求めたのがこの絶滅種の最後の個体として著名のもので、わが国では三十八年前後にオオカミが絶滅したとされている。
もし今日まで福井のオオカミの標本が保存されていれば、貴重な学術的資料になったであろうと思われる。】

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福井城址で捕獲されたオオカミの剥製写真
 
1月前に発売された「ニホンオオカミは消えたか?」皆さんご覧になりましたでしょうか。
多くの方から読後の感想が私の下に届いていまして、おおむね好評の様子です。
研究仲間の森田氏曰く“シンラの山根一眞さんを越えましたね!”ですが、概略だけですと“そんな気も無きにしも非ず“かも知れません。
消費税込み¥1.512‐ですので費用対効果は満たしていると思えますが、如何せん、つまらない誤字、誤植等の間違いが多すぎる書籍です。
多分原稿校正がなされていなかった為だと思いますが、それ以外にも私に関する記述、違った解釈をしている部分が何ヵ所か見受けられます。
私に対し好意的に捉えた文面だとしても、相手の名誉に関る事も有り得ますので、そうした2点の正確な顛末を述べたいと思います。
 
1.≪福井城址で捕獲されたニホンオオカミに関する論文を今泉吉典・吉行瑞子博士が2003年に発表した件で、私がその資料を福井まで足を運び発掘したかの如く記されていますが、資料を発掘したのは「幻のニホンオオカミを追い続ける男」のディレクター田中重幸氏です。≫
 
前述の通り私は、タイプ標本の存在も知らず、頭骨の見方も知らない、フットワークだけが取り柄の人間でした。
ニホンオオカミの、動物学のイロハから手に取って教えてくれたのは、早稲田大学で考古学を学んだ井上百合子氏です。
その井上氏からシーボルトの江戸参府紀行を読むよう勧められ、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」の存在を教えられました。
それ以降、頭骨標本を手にする際の心構えと観察部位が変わって来たのです。

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シーボルト著・江戸参府紀行

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            1996年に発行されたシーボルトの80円切手
 
 
山根一眞氏がシンラ誌上で「動物事件簿 狼」の連載を始めたのは19961月からです。
記念すべき第1回目は奈良県下の取材から始まりましたが、取材先での情報量が乏しく、2回目以降の記事にも困窮していた様子が感じられる中での拙宅訪問でした。
天理市をベースにオオカミ探しをしているグループは、「紀伊半島の幻3大獣(オオカミ・カワウソ・イヌワシ)」の位置づけでのニホンオオカミだった為、山根氏の欲求が満たされなかったのです。
その事を知った私は、山根氏に「ドライブインに行けば、和食でも中華でも洋食でも手軽に食べれますが、美味しいものが欲しいならば専門店に行きますよね!」と云ったのですが、やればやる程謎が深まるニホンオオカミは、片手間で出来る研究では無いことを知らせたかったのです。
 
6回連載の予定で始まった狼シリーズですが、次から次へ情報を提供する事により、延々19回も続いたのは皆さんご承知の通りです。
ただ前述通り、オオカミとヤマイヌは地方での呼称が違う・・・とした従来の考え方から、違った動物だとする思考になったのは、井上氏の指摘と頭骨標本を密に観察し始めたからで、その考え方は今も変わりません。
そうした中、動物事件簿17回目で「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」の記載を見て、自分たちの思考が間違った方向では無いと確信を持った次第です。
山根氏を始めとするスタッフは、遠くオランダのライデン博・イギリスの大英自然史博まで足を延ばし、多くの新しい発見をした末の記載だったからです。
余談ですが、「TBSテレビ・世界不思議発見」中で、ライデン博のスミンク博士は「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」の発言をしています。

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            タイプ標本を手に持つスミンク博士
            台裏にはJamainu(ヤマイヌ)とある

2005年に行われた愛知万博で、タイプ標本が愛知県パビリオンで展示される事になったのも、動物事件簿の取材で山根氏とスミンク博士の信頼関係が培われたからこそだったのです。
 
2.≪「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」理論は山根氏の探求心の為せる技で、「ニホンオオカミは消えたか?」に記されている様な、“八木の主張を「動物事件簿狼」の1章分のタイトルに当て、オランダのライデンに出向いて、この問題を追及した”。・・・・・・のでは無いのです。
 
昨年、ニホンオオカミ関連の書物が多く世に出ましたが、その全てでゲラ刷りのチェックに関わりました。
思い起こすと、「ニホンオオカミは消えたか?」に関して、ゲラ刷りのチェックは1回も求められませんでした。
左程出来の悪い書物で無いだけに、最後の詰めが甘かったのでしょうか。
やるべき作業をチャンと行っていれば、私の居住地が三郷市と記される事など無かった筈ですから。
何時か自ら出版した際の反面教師として、「ニホンオオカミは消えたか?」の過ちを受け止めたいと考えています。

梓山犬血統保存会

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ニホンオオカミ研究の祖とされる斉藤弘吉氏は、西洋化される在来日本犬保存と並行してのオオカミ研究でした。
昭和3年頃からの事ですから、かれこれ90年前のことになります。
斉藤氏は日本全国に足を運びその足跡を残しているのですが、そうした行動は私の原点ともなっています。
現在弘前市に遺された頭骨は、斉藤氏が昭和115月に発見した物で、その60年後私が調査に赴くまで、所蔵家以外の誰にも手が触れる事がなかった標本です。

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弘前市中畑家所蔵の頭骨
 
そうした斉藤氏の足跡の中に、利根川の支流神流川沿いを上野村まで辿る昭和3年秋の旅が有り、日本犬保存会創立五十周年史(上巻)に群馬県多野郡上野村調査雑記として、記中に以下の文面が見受けられます。
「差尾茶褐色肩高一尺三寸五分、三匁位の牡犬、体形よろしきを発見して遂に譲り受け、十石号と名をつけ愛育す。
この上野村附近の犬は、長野県南佐久郡川上村と同系統のもの多し。
十石号は仔犬の時長野県南佐久郡川上村字梓山集落から、山越にて連れ来たったもので、今日、俗に柴犬と称される小型日本犬の流行の魁をなした犬である。」

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斉藤氏の愛育犬「十石号」
 
このサイトをご覧になる皆さんは川上犬なるイヌをご承知の方も多いと思います。

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十石犬の兄(写真左)妹

現在長野県の天然記念物にも指定されている川上犬ですが、上記の通りルーツを辿ると梓山集落で飼育されていたイヌがその根源だと判ります。
川上村の企画課が発信しているホームページの中で、十年近く川上犬の部分を担当していた高橋はるみさんは、現在「NPO法人梓山犬血統保存会」を立ち上げ運営していますが、私達「探す会」とも浅からぬ縁があります。

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2002年のフォーラムで高橋さん

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梓山犬血統保存会Facebookの表紙

京都在住の岡田氏が奥秩父山中に籠ってオオカミ探しをした際、その資金を得るべく高原野菜収穫のアルバイト先を紹介してくれたのが高橋さんでしたし、神奈川県内の頭骨標本調査に同行頂いたりもしています。

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箱根山中の山棲犬頭骨

今回の話は、こうした繋がりが出来る前、2001年5月中旬のお話です。
2002年に行われた三峯神社でのフォーラムに高橋さんも参加し発表していますので、先ずはその際の発表要旨をご覧ください。
 
【今現在、この地球上に生存している川上犬というものが大体、200頭前後ではないかと言われている。
川上村と言うのは標高が役場のある所でも1400メートルあり、日本で一番高い所に役場がある村で、本当に僻地だった村である。
戦後に高原野菜というものが栽培可能になり、だいぶ裕福にはなったのだが、それ以前は、全て農作物は無理だというので、猟に頼っていたと言われている。
カモシカ猟と言うことで、毛皮を本当に古くから、江戸時代は徳川家に奉納したりと言う状況が村自体の歴史は古いのであったそうだ。
そこで、この秩父の山もそうだけれども、川上村の周辺の山と言うのは、例えば廻り目平という有名なところがあるが、非常に険しい岩場だ。
その岩場でカモシカを追う猟をするということで、野生動物の敏捷なものを追いかける。
それだけの敏捷性とそれから脚の裏が非常に丈夫でないと岩場で流血をしてとてもじゃないけれど動けない。
その2点から昔の人達が、川上村にいたイヌと、ニホンオオカミあるいはヤマイヌとされる動物との、混血を作ったという謂れがある。
 
そんな状況で私も取材をしているから本当に色々な話を聞けて、たまたま、川上犬と山梨の甲斐犬ですね、この甲斐犬について、体型が似ているものが有ったので、少しルーツが探れるかなと思って、それで櫛形山という所へ分け入った。
本来、芦安村と言う所だが、芦安村には殆ど甲斐犬は居ないので、あちこち歩いている時にたまたま、櫛形山の、山の中の一軒宿にたどり着き、そこで、本当に偶然なのだが、イヌの頭骨が転がっていたのだが、それは単なるノライヌだった。
 
ただ、何か気になる、地形的なものや、オオカミの好きな人間の触手が動くと言うか何かがあって、そこのご主人に「この頭骨何のですか?」と聞いたら、
「それはノライヌので、家に来て、野垂れ死んじゃったので、そのまま埋めてないんだよ」と言う話だったが、「何か興味があるの?」と聞かれたんで、いや実はねと言うことで自分の活動の話をしたら、「あのね、私は櫛形山の麓で温泉旅館を営んで、子供のときから何十年と暮らしているのだけれども・・・」、これまだ、去年(2001年)の5月の話だ。
「自分は鉄砲が好きで猟もやっているんだけれど、実は数年前に、ライデンのタイプ標本に似たオオカミみたいなものに遭遇したんだよ」って。
その時はライデンみたいなと言う表現はされていなかったが、「それが多分ニホンオオカ ミだと思うんだよね。 」とその方の口から出まして、ええ!と言ったら、ちょうどビートたけしの「万物創世紀」と言う番組でやったばかりで、実はあれにそっくりだった、という話になって、ちょっと待って!と言って、それでもう大至急、その場から、八木さんに電話しちゃったんです。
 
その時が八木さんとは、実は初対面どころか何の話も無いのに、これはもう八木さんに連絡しなければいけないと、それで大至急八木さんと連絡を取り、一日、二日のうちにもう一回そこへ行こうということになって、八木さんにもそこへ、お出で願って、そこのオーナーの方に、それを見た場所はどこなんだと、言うことで、その場所の紹介をして頂いて、これはあくまでも、拾い話のようなもので、写真に撮れたとか、そういうことではないので、それが本当にライデンのタイプ標本に近いものだったのか、あるいは同じものだったのかはわからないけれども、ただ、本当にこの界隈には居るんじゃないかなと言うことはすごく判るというか、そういう感じがする。

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山梨県富士川町の赤石温泉

で、何故それを感じるのかというと私は野生動物の仕事もしていて、ちょっと、話が逸れるが、先ほどご挨拶頂いた先生方の中に、教科書はそうなんだけれども、とか、一般的にはこうなんだけれども、と言うお話があったが、教科書の話と言うのは全然当てになんないなと思って来ている。
というのが、私のごく身近な人間にも環境庁の仕事をしていたり、非常に有名な野鳥の研究をしている方がいらっしゃって、オーストラリアとか、あっちこっち飛び歩いている方がいらっしゃるのだが、その方に、実はうちの裏山にオオタカが巣を作っているんだと言ったんだけれども、「そんな、高橋さんね、 民家のすぐそばにオオタカなんて巣なんか作んない」と言う。
そんなことはないよ、あれはオオタカなんだけれどなと、で、その内「先生、オオタカも居るんだけれど、違う個体の種類が飛んでいるんだよ」と言う話になって、それをまた話をした所、「あなたね、素人がね、空高く飛んでいる鳥のね、オオタカじゃないの、ノスリじゃないのね、なんじゃないのね、そんなの判るわけ無いでしょ!第一、居ないんだから!この近辺には居ないんだから!」と言われたのですが、実はあまりにもその鳥の姿が多いんで、頭に来て今年の3月に、その先生を家まで呼びつけまして、これとこれだと写真もとりまして、見せたりとか、
あるいは巣の所まで行って見せて、「こんな近くに!」とうちは神奈川県の湯河原だが、早い話、周りには民家が一杯あったり、観光地なんでクルマも結構通るような場所に、そういうものが出てきて居る。
 
よくその辺のお話を伺った所、20年前は絶対居なかったそうだ。
どういうことかというと20年前までは野生が隠れられる場所、身を隠せる場所があったということだ。
ところが、家は本当に湯河原で、箱根に続いているのだが、箱根の山は、スカイライン、ハイウエー、パークウエーなど、至る所に観光用の道路が通っているから、野生が隠れられる場所は逆に無い。
で、むしろ、私思うに、うちの裏山にキツネも出るんですね、キジがたまたま、飽和状態になって、すぐに放鳥しますので、記念があると、餌も増えていると言うこともあるのだろうが、昔ではあり得なかった事と言うのが、今出て来ていて、野生が顔を出し始めているというか、人間との共存、昔は山に入って行った人間は鉄砲を持っていたから、人間は危ないぞと言う状態だったと思うが、普通に生活している所の人間は別に何の危険じゃないと言うことを野生の方が考えて来ているのじゃないかと言う気がする。
 
だから、例えば、このオオカミであるとかヤマイヌであるとかというものも、いきなり結びつけるのは危険かもしれないが、以前にも八木さんとお話ししたことがあるが、死体が出てないから、もう絶滅しちゃったんだろうと言う話は、それはちょっとウソなんじゃないか?と、家でも、今まで、何頭かのイヌを飼っていた。
私、四十数年生きている中でずっとイヌが切れたことが無いが、そういう山に近いと言うこともあり、イエイヌでも、死に際と言うのは山へ入っちゃうんですよね。
そうするといくら捜しても、その死体は出てこない。
人間に慣れているはずのイヌがそれだけ捜しても出て来ないのだから、仮にヤマイヌなり、ニホンオオカミがいた場合、捜しても、その死体が見つかるという確率はまず無いと思う。
だから、むしろ、そういうものが死体が上がらないから、死体が発見されないから、死んじゃった、絶滅しちゃった、と言うことではなくて生きてる可能性と言うのはすごくあって、また、逆に、先ほど申し上げた猛禽類の様に、人間と共存と言う形で、場合によっては、以前よりも姿を現してくれる可能性があるんじゃないかな?と言う所を今すごく感じている次第です。
今日はこういう席にこんなつらつらと言ってしまったのだが、ありがとうございました。】
 
電話を頂いた数日後私は、櫛形山麓の赤石温泉まで車を走らせ高橋さんと落ち合った。
小柄な宿の主人は、近くの目撃現場まで私を案内し、私の持参したタイプ標本の写真を見ながら「間違いない」と云った。
確かにタイプ標本的動物は現存しているのだろう。

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ファウナ・ヤポニカ中のタイプ標本

2014年7月末の熊野古道でフランス人が200mの距離を4頭に追われ、昨年6月中旬には匿名希望のK氏ら数人が、奥秩父山中でキャンプ中に5mの近距離まで迫られた。
そして、詳細は未だ云えないが、私も奥秩父山中で、しかも牡牝のペアーを見た。
 
ただ、シーボルトの絵師「ド・ビィルヌーブヴ」が長崎の出島で描いた「ヤマイヌ」のスケッチとタイプ標本の吻部の印象が違い過ぎる・・・と私は考えている。
ドイツ・ベルリン博の毛皮の様に、ぶら下げて保管したため吻部が伸び、それを剥製にしたのか・・・とも思えるが、私が見た動物はタイプ標本そっくりだった。
探れば探る程謎が深まるニホンオオカミと称する動物。
しかし、日本の何処かに必ず存在しているのだ。

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タイプ標本頭部の拡大

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ド・ビィルヌーブヴが描いたオオカミ

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ド・ビィルヌーブヴが描いたヤマイヌ

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ヤマイヌの頭部の拡大

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鼻部を吊り下げ伸びた吻部
    ドイツ・ベルリン博の毛皮標本

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ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)

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タイプ標本と人間の大きさを・・・

斉藤弘吉著「日本の犬と狼」より

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前号で記したニホンオオカミ研究の祖斉藤弘吉氏は、昭和6年(1931年)111日夜の電車で福島・山形県境に接した新潟県三面村に旅しています。
上野村探訪と同じく日本犬発掘が旅の主たる目的で、情報収集をしてくれた地域の有力者案内の下である為、集落の長老との話も順調に出来ています。
その中で特筆すべきこんな事例が氏の著書「日本の犬と狼」に載っていますので紹介します。
狼調査とある目的のため、氏は福島県北小国村から、泊りがけで峠を越えての三面行きでした。

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三面村民家に在った古式の狩衣を来た斉藤氏

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雪華社刊「日本の犬と狼」

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忠犬ハチ公を世に知らしめたのも斉藤氏
 
【我が国唯一の山犬(この場合ニホンオオカミ)の標本(科学博物館蔵)が岩代国産であることを考えると、福島、新潟両県山奥には、近頃まで生存していたものと想像される。

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国立科学博物館蔵ニホンオオカミ剥製

もし万一現在も残存しているものとするならば、朝日連峰は第一に推測地とされるべきであろう。
実際に山犬に遭遇した三面村小池豊蔵老人談。
 
「約十年前(1921年・大正10年)の一月半ば頃伊東岳と化穴山との間の尾根を三面川水源地の方に青ししを追い下って来た時、下方から狐より大きいものが身軽にぴょんぴょんと飛び走って来てすれ違ったので、ちょっと振り返って見た。先方の動物は約三間ばかり上方に立ち止まり、やはり振り返っている。
しかし青しし逃してなるものかとすぐに羚羊の後を下へと追い下ると、このもの引き返して隋従し来るので、こいつめと槍をつけたところ、先方も向かって戦おうとするように身構えて来た。
両耳が立ち、脚が短く、毛色は薄茶の様で背に黒みがり、尾が太く下がって狐でも犬でもない。
体格は狐よりはるかに大きく、犬よりはやや大きめに見えた。
犬の様に吠える事もなくじっと見つめている。
未だかって見た事もない獣なのと、あまり先方で落ち着いているのと、槍が羚羊用の朴の木に短穂先の槍だったためと、自分一人だったために突きかけることを躊躇してついに再び青ししを追って行った。

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小池氏が遭遇したと思われる尾根筋(黒線)

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登山家の高桑信一氏が撮影した動物
    朝日連峰で撮ったのだが、残念ながらキツネ
 
すると、その獣は尾根を越えて走り去った。
ちょうどその時刻に次の尾根で青ししの皮をいでいた同村伊藤栄吉氏(故人)のところに、この獣が青ししの肉の香に誘われてか近づいたが、飼犬に吠えられて逃げてしまった由で、これは帰村して、両人とも長年猟をしているが、未だ見た事のない獣に遭ったものだと話し合ったことである。
あるいはあれが世に云う山犬・狼の類であろうか・・・・・・」
この話は本人が山犬と断定していない点と、人間に隋従して来た習性と、体格、毛色などから考えて、全く実際の山犬だったものと推測される話である。
 
山形県西置賜郡北小国村字船渡、川上幾哉氏談、
「明治41年夏登山して、伊東岳と朝日嶽との中間の寒江山に露営したことがあったが、夜、寒江山の尾根で山犬と思われるものを見た。
寒江山には俗に百穴と称される岩穴が山頂近くに無数にあるので、そこに生息するものか・・・・」

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寒江山頂周辺はご覧の様な岩場

この話は、山犬と断定しているところに多少確実性を欠くものがあるように思う。
 
「本人が山犬と断定していないから本物で、山犬と断定しているから確実性を欠く」・・・との考えには賛同しかねるのですが、今泉博士が秩父野犬で記した文面
≪(1)耳介が短く前に倒しても目に届かないこと(大陸狼 Canis lupus は耳介が長く前に倒すと目に達する)。
(2)前肢が短く体高率(体高/体長×100)が約50%に過ぎないと思われること
(5)背筋には先12以上が黒色の更に長く、且つやや逆立った毛で形成された黒帯があり、その外縁が肩甲骨の後縁に沿って下降し菱形班を形成すること≫
その他の点で、小池豊蔵老人等が見た動物との類似点を比較するのも面白いと考えるのです。
 
かっては国内の山里ならどこでもその痕跡を探る事が出来たであろうニホンオオカミ。
山形・福島・新潟県境に位置しダム建設で今は廃村に追い込まれた三面の集落。
東京・山梨・長野・群馬に接し、今50台のトレイルカメラで調査中の旧大滝村。
そして私たちが今春調査に入る群馬・長野・新潟県境の秋山郷。
今はもう、そうした人里から離れた山並みの中でしか、オオカミの痕跡を求める事が出来なくなっています。
 
この項-三面村紀行-の末尾はこんな文面で結ばれています。
【また北小国地方では狼の牙を身に帯ぶれば、如何なる荒馬も狼の気に恐れて自由になると云って馬喰人はよくこれを秘蔵したものという。
百姓がこれを蔵するときは、飼馬が常に恐れ、ついには衰弱して死ぬという迷信がある。
北小国町金目の弥一郎という家には先祖のとった狼の牙を宝として珍蔵しているという。
同村字船渡村の塚野五右衛門君の先々代は馬商人をしていた関係上、同家にも狼の牙と称するものが印籠の根付として伝えられた。】
 
この文面に触れると、無知だった20年前頃の苦労が思い出されます。
井上百合子氏から学術的な教示を受けた私は、関連の書籍を片っ端から読み通し、標本所有者のリストを作成し、11件電話で許可を得て、実見の機会を増やして行きました。
今ほど個人情報がうるさくない時代だったからこそ出来た事でしたが、その中でも特に印象的だった事例が3件有りました。
 
現在三峯博物館に所蔵されている毛皮所有者とのコミニュケーション確立。
前号に記した弘前市内の頭骨の、遭遇までのプロセス。
そして上記塚野家との交渉。
後進の皆さんの参考になればと思い、良い機会ですので苦労の一端を記して置きます。
 
秩父市内の民家にニホンオオカミ(と思われる)毛皮が有るとの情報を得たのは今から25年程前の事になります。
所有者は美容院経営者で多忙のことでもあり、中々訪問を許してもらえませんでした。
幾度か連絡したのち訪問したのですが、戸板に張られ階段脇に展示して有った標本を眺めるだけでした。
その後何度も何度も同じことを繰り返し、吉行瑞子先生同行の下調査に漕ぎ着けたのは1年以上時間が経過した後と思います。

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戸板に張られ階段脇に展示して有った毛皮標本

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戸板に張り所蔵していた内田さん
 
その1か月後、科学博物館の小原巌先生もお出でになり、ほぼ間違いないとのお墨付きを得て(同定は56年先に今泉博士に依り為される)、シンラでの掲載等に到ったのですが、国立科学博物館・埼玉県立博物館・三峯博物館の3館から、毛皮引き取りの希望が私を通してありました。
その当時の価値は、国内外6例目の毛皮標本(ベルリンの毛皮は未発表)としてでしたから、それぞれの博物館は必死だったのかも知れません。
私が所有者に三峯博物館行きを薦めた理由は3点あります。
一つ目は三峰山の奥裏で獲れた毛皮だった事。
公的博物館では研究材料としていじられ、原形を留めない可能性が有る上、担当官が移動すれば最初の意義が守られない可能性が有る・・・が二つ目の理由。
三つ目は三峰博なら神のお使いとしての扱いを受けられる・・・でした。
それでも20年経た今、常設展示された毛皮標本は、色落ちして随分傷んだ状態になっています。

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三峰博物館に所蔵されているリニュアル後の毛皮
 
弘前市内の頭骨は、所有者の姓が中畑だった為、電電公社の電話帳を取り寄せ、一軒一軒電話を掛けたのですが、津軽弁を話す老人と意思を通じることの難しさを痛感し、1日で諦めました。
そして、弘前市の教育委員会に事細かに事情を記し手紙を送りましたら、1年後所有者が判明し調査に漕ぎつける事が出来ました。
私の手紙を受け取った担当官が、色々調べてくれたのですが辿り着けず諦めて、仕事の帰りに立ち寄る書店で、「そう言えばこの書店は中畑さんだった・・・。」と。
今は高齢で廃業しましたが、弘前市役所に一番近い書店での、笑えない様な・・・でも笑っちゃった、そして感激したお話でした。

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中畑家の頭骨計測値・最大長211mm

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中畑家の頭骨計測値・基底全長198.5mm
 
北小国村の塚野家とのお話は、それ以降私の標本調査での対応を変える、ショッキングな内容でした。
津軽地方同様福島県山間部老人の訛りも想像以上でしたが、隣県魚沼地方出身ですので何とか塚野家までの道筋つくりに到りました。
電話の先は塚野家の老婦人でした。
嫁いで来てそうした物の存在を知っていたらしいのですが、築百数十年の家の隣に母屋を新築した際、不必要と判断し処分したとの事でした。
「大雪の降った日、家に火を付け処分した」・・・と。
隣家が遠く、他人に迷惑をかけない状態とは云え、現在なら到底許される事は無い筈ですが、電話が20年前で、それより更に数十年前の話です。
ニホンオオカミ標本の所有者は、その価値を知らないケースが多いと感じた私は、調査に赴く度に標本の重要さを説き、家族に伝え残す事をお願いしています。

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頭骨の由来等を家族に継承している 
    埼玉県狭山市長谷川家の標本・三峯山捕獲とされる
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皆さんお気付きの事と思いますが、井戸端会議を始めとして私管理のHPの巻頭に、「このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。」の一文を記しています。
上記の文面をご覧戴ければお判りでしょうが、「一つの標本」「一つの写真」「一つの体験」に、大きなエネルギーが注がれている事をお忘れ無き様願います。いる事をのサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは

みんなちさこの思うがままさ

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【・・・やがて梢を透かして昇った月を眺めながら、そろそろ寝るかと話し合っていたその時、森の彼方から忽然と咆哮が湧いた。
ビロードの光沢の夜空に浮かんだ、ミルク色に輝く月に向かって吼えるがごとき波動であった。
・・・・・・・・・・・肝が冷えるわけでもない、奇妙に乾いた獣の声は、それきり途絶え、森はふたたび静寂に還った。通い慣れた奥利根の20年以上前の幻のような、しかし、その場にいた4人の仲間が耳にした遠い記憶である。】
 20016年夏号『渓流』に記載された高桑信一氏の一文です。
同行者として、池田知沙子・伊井一洋・田中恵子さんの名が在りますが、池田さんは1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝しています。
池田さんは1冊の書籍を遺しています。
2006年冬、脳梗塞で1ヶ月間入院し、その後時折後遺症に悩まされる私は、様々な面で興味を持って本を取り寄せました。
【一日の王「背には蓑、手には杖、一日の王が出発する」尾崎喜八】を表題とするブログに池田さんの“人となり”が載っていますので、先ずはそのまま紹介します。
≪池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』・・・・ヒリヒリするような感性・・・・(2013年2月15日)
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昨日に続いてのブログ更新。
忙しい毎日ゆえ、2日連続で更新することはあまりないのだが、今日は特別。
池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』(山と溪谷社)のレビューを書くのに、今日(2月15日)でなければならない理由があるのだ。
その理由は最後に書く。
最初に、著者である池田知沙子について、短く紹介する。
昭和22年7月29日、東京に生まれる。21歳で、所属していた劇団の研究生同士だった池田俊樹と結婚。
28歳で夫婦ともども北海道に移り住み、帯広わらじの会に入会して登山を始める。
32歳、埼玉県新座市の現住所に居を構え、翌昭和56年1月、浦和浪漫山岳会に入会以後、地域研究を標榜する当会とともに歩み、奥利根、会越、下田・川内をはじめとする各地の山と谷に膨大な足跡を残す。
入会から18年を経た1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝。
享年51歳7ヶ月。

遺稿集の発行は、1年後の2000年冬に、葬儀に参列した彼女の知人や山仲間、「池田知沙子を偲ぶ会」に出席してくれた人たちに配布するために編纂され、私家版として刊行された。
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予想外の反響を呼び、2003年に増刊。(表紙の色が違う) 
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その残部も尽きて、現在に至っていたのだが、彼女の文章を読んでみたいという声が多く寄せられ、この度、山と溪谷社が、内容をそのままに新装版として復刊することが決まり、今年(2013年)の1月下旬に出版された。
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 10数年前から、『みんなちさこの思うがままさ』という本があることは知っていた。
山の雑誌で時々採り上げられていたからだ。
だが、本そのものを読んだことはなかった。
『山と溪谷』2月号で、『みんなちさこの思うがままさ』の新装版についての小特集が組まれていたので読んでみると、とても興味をひかれる内容であった。
本の方もぜひ読んでみたいと思った。
そして、出版されると同時に買い求めた。
本の冒頭に、詩のような文章がある。
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満天の星である。遠く稲光もする。
焚き火が燃えあがると、ひととき星の数が少なくなる。
美しい闇のただなかに沢音が確かなリズムをきざむ。
みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。
多分、私たちが寝静まった頃、なんといっていいかわからないお月様が静かに静かにめぐるのだろう。 
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「みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。」
この2行で、完全に魅了されてしまった。
なんて男前な文章を書くんだ。
こんな言葉を吐かれたら、どんな男だってノックアウトされてしまう。
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一気に読み終えた。
一気に読み終えるのが勿体ないほど素晴らしい文章だった。
付箋を貼った箇所をいくつか抜き出してみる。
季節は一瞬一瞬の積み重ねである。(77頁)
自分を見失う。
このまま連れ去られ、はぐれて、もう二度と戻ってこられなくなりそうな気さえする。
まばたきするたびに風景がかわり、動悸さえ聞こえてきかねない。(153頁)
森の向こうから、木枯らしが樹々を揺すりにやってくる。
落葉が始まる。
追い立てあって、渓を駆け、遠い空まで昇りつめようとする。
交響曲・赤水沢、佳境。
ピアニッシモからフォルテッシモ。
足がふるふるするような演奏を聞かされた。
一心にナメ。
そういう沢をいくつか知っているが、赤水沢はストラディバリウスだといってしまいましょう。
やわらかな岩質がうみだすくぐもった沢床は、深い陰影を見せ、足首にも満たない流れが複雑な旋律をうたうのを見事に助けていました。(217頁)
風が樹冠にさざ波を立てて流れていく。
ゆるやかなうねりで森全体が揺れていた。
ギラッと反転する魚の白い腹、ミズナラのてっぺんが光り、陰影の深くなった空は、さりげなく、森にひそむ暗がりの正体に気づかせる。
知らん顔して、ただ清流だけが弾けるように明るく輝いていた。
遠い遥かな記憶を呼びさます、畏敬を抱かずにはいられない世界が、たしかに、そこにあった。
私は小さな魚となって、いつしか臆病に樹間を泳ぎはじめる。(289頁)
これらの文章には、ヒリヒリするような感性がみてとれる。
これらの文章のほとんどが、所属していた山岳会の会報に書かれていたのだ。
驚くべき質の高さ。
普通、会報に書かれている山行報告は、面白味に欠けるものが多い。
乏しい語彙の画一的な自画自賛の山行報告を読み慣れた者には、池田知沙子の文章は実に新鮮に映る。
池田知沙子が五十一歳で病没してから十四年の歳月が経つ。
彼女が浦和浪漫山岳会に入会したのが八十一年の春で、亡くなったのが九十九年の厳冬だから、それ以前の集積が本書に収められていることになる。
昭和の末期から平成にいたる複雑な時代に書かれ、さらに死後の長い歳月を透過した、決して新しくはないはずの彼女の文章が、いま読み返していささかも色あせず、むしろ光さえ放って読む者に迫ってくるのはなぜなのか、と考えている。
とは、『山と溪谷』2月号に載った高桑信一氏(『みんなちさこの思うがままさ』の編纂者)の言葉であるが、私も同じ感想を抱く。
文章も魅力的だが、人柄も、そして容姿も、池田知沙子という女性は、実に魅力的であったらしい。
日よけと防虫ネット用に、つばの広い生成りの帽子を買った。
新品の帽子は汚れ放題のザックや着古した服にはかなりアンバランスで囃される。
国境稜線でビバーグ。
さっそく防虫ネットをつけてみる。
すけた網がベールみたいで、本人はフェイ・ダナウェイかなんかのつもりでいて、「奥利根夫人」「マダム奥利根」とのからかいにも、にやにやと喜ぶばかり。(11~12頁)
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ねえ、熊ちゃん、知ってる? 一回でも一緒にと声かけてくれたら、私の山の約束帳にスタンプが押されてね、いずれ一緒に行ってもらうことになっているんです。
スタンプの数? もう私の一生分あるの。自慢なんですねぇ、コレッ。(245頁)
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いやはや、こんな素敵な女性、私の回りにいなくて良かった。
いたら、私は、人生を踏み外していたかもしれない。(笑)
この本に関しては、語りたいことがそれこそ山ほどあるが、すべてを語ってしまったら、これから読む人の楽しみを奪うことになる。
もうこれくらいにしておこう。
最後に、この本のレビューが、なぜ今日(2月15日)でなければならなかったのか?
それは、高桑信一氏によって書かれた「新装版のためのあとがき」にある。
かなうならこの本が、静かでもいいから多くのひとに、長く読み継がれて欲しいと希っている。
本書の奥付を池田知沙子の祥月命日にしたのは、出版に携わった関係者の小さなこだわりである。
それが、この本に散りばめられた文章を私たちに与えてくれた彼女への、ささやかな返礼だと思うからである。
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そう、池田知沙子の命日は、2月15日だったのだ。
池田知沙子は、1999(平成11)年2月15日に亡くなっていたのだ。
もう少しじっくり読み込んでからレビューを書こうと思っていたのだが、私も命日に合わせてレビューを書いた。
もう少しちゃんとしたものを書こうと思ったが、時間的にこの程度のものしか書けなかった。
すまない。
このブログで本の紹介をすることは稀だが、今回は、自信を持ってオススメする。
再読、再々読にも堪えうる作品である。
山の好きな人なら、一生の友となるだろう。ぜひぜひ。≫
私は読後即座に、高桑氏宛てお礼のメールを出しました。 
【高桑 さま
ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。
現在体調不良で読書三昧の私ですが、昨日「みんなちさこの思うがままさ」を読みました。
痺れる様な感性で綴った文面・・・大変な感銘を受けました。
書籍として世に出した高桑さんに敬服いたします。
願わくば一度でもお話を交わしたかった・・・と。
知らないだけで、世の中には素晴らしい人がいる事を知った一日でした。】
【高桑です。
ありがとうございます。
池田が亡くなってから17年になろうとしています。
生きていれば、婆あもいいところですね。
私にとっても大事な人でした。
寒いので、体調にはくれぐれもご注意ください。】
こんな書籍に浸かることが出来るなら、体調不良時の読書も悪く無いですね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
管理人さんに断りもない掲載ですが、どんなお叱りも甘んじて受ける覚悟での所業です。
私と余りにもよく似た読後感で、手を付けようが無かったからです。
そして、そのアプローチをする術を知らなかった為でも有ります。
この場を借りて無断掲載をお詫びいたします。

ネットサーフィン

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私の下に届けられた生存に関する情報も、今では100件を軽く超える状態です。
そうした中全て寄せられた訳ではなく、ネットサーフィンでヒットした情報にコンタクトをし、先方に確認した事例も少なくありません。
また、ネット上の情報を教えて貰いコンタクトをした例も多々あります。
 
先日調べ物がありネットサーフィンをしていると、2015811日の記事で、『神獣は生きている!?ニホンオオカミは生き残っている可能性がある』なるブログに当たりました。
著者は『小須田こういち』さんで、2年位前メールで秩父野犬の写真使用を申し出た方だったと思い出し、読み返したのが以下の文面です。
 
『神獣は生きている!?ニホンオオカミは生き残っている可能性がある
小須田こういち 134706 Views
 
富士山の麓にある山梨県の西湖で、絶滅していたと思われていたクニマスが発見されたというニュースに興奮を覚えたのは、なにも筆者だけではないはずです。
もともと秋田県の田沢湖にだけ生息していたクニマスが、遠く離れた西湖で連綿と命を引き継ぎながら生きながらえていたことに感動すら覚えたものです。
西湖周辺の地元地域では、以前から「クロマス」という名で呼ばれていたのだとか……。
 
山梨県による調査によると、クニマスは相当数の個体が生息しており、希少種ではないとする結論がなされたようです。
これもなんだか嬉しい話ではないですか!
 
絶滅したと思われていた魚が発見されれば、当然個体数は少ないだろうと考えるのが自然です。
しかし、それが「相当数」生き残っているわけですから……。
今後、クニマスが故郷の田沢湖で泳ぐ姿を見ることができるのかどうか、注目していきたいものです。
 
日本の絶滅種といえば「二ホンオオカミ」
 
さて、絶滅種というと筆者はどうしても「二ホンオオカミ」が脳裏をよぎるのです。
その昔、日本中の山々を駆け回っていたであろう二ホンオオカミ――。
100年前に絶滅したと言われていますが、はたしてどうなのでしょか。
 
クニマスのように今もどこかでひっそりと生きているということはないのでしょうか……。
かつて本州から九州の山々には二ホンオオカミがたくさんいました。
しかし残念ながら、我々は二ホンオオカミの姿を目にすることは叶いません。
 
二ホンオオカミは1905年に奈良県で捕獲された個体を最後に絶滅してしまったのです。
ところが、すでに絶滅していると言われているにも関わらず、「二ホンオオカミは生存している!」と信じて疑わない人も少なくありません。
 
1996年、埼玉県の秩父山系で撮影された写真が世間を騒がせたことがありました。
なんと、その写真は絶滅したはずの二ホンオオカミだというのです。
また、2000年には九州で二ホンオオカミによく似た動物が撮影されています。

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これが、その時に撮影された二ホンオオカミかもしれないと言われている「秩父野犬」です。
今回は撮影者である八木博氏に許可をいただき掲載させていただきました。
実際に専門家による鑑定も行われ、この「秩父野犬」には二ホンオオカミの特徴が多くみられることから、二ホンオオカミの生き残りである可能性が高いという見解がなされてもいます。
 
果たしてそこに写された動物は二ホンオオカミなのでしょうか。
 
どこかで生息しているとしても不思議ではない
 
もし……もし仮にもどこかで生き残っているのであれば、それはやはり正直に「嬉しいな」と思います。
別に恐竜が生き残っているだとか、そんな話ではないわけですし、恐竜よりも二ホンオオカミの方が遥かに現実味もあると思うのです。
ましてや奥秩父と言えば関東の秘境とも言われます。
その広大な山地にひっそりと生きていたとしても、決して不思議ではありません。
 
さらに、九州や四国の山地にも二ホンオオカミがいるのではないかとも言われています。
筆者の知る限りではその後、秩父山系の山中でオオカミの遠吠えを大音量で流すという実験も行われました。(注・撮影以前の試みです)
二ホンオオカミがそれに反応して遠吠えを返してくれるのではと期待されましたが、実験自体は思うような成果は得られなかったようです。
ちなみに201411月には、秩父市の鍾乳洞で二ホンオオカミのものと見られる歯が見つかり、ヒグマと見られる全身骨格も見つかっているようです。
 
UMAではなく現存した動物だということが重要
 
二ホンオオカミは何億年も前に絶滅したわけではなく、比較的つい最近まで生きていたこと、ましてやUMAなどのような未確認動物でもありません。
クニマスのようにどこかでひっそりと生き残っていたとしてもおかしくはないと思いませんか?
 
日本では古くから畑を荒らす鹿や猪を食べてくれるオオカミを神の眷属として崇めてきた信仰がありました。
秩父はもちろん、奥多摩、山梨県など山岳地域でオオカミ信仰が盛んだったと言われていますし、その信仰を今なお受け継いでいる地域もあります。
秩父の三峯神社などは二ホンオオカミを祀った神社として有名です。
 
その他、東京や千葉、栃木、山梨、静岡、岐阜などにも、「狼神社」と呼ばれる神社が多数あります。
筆者も三峯神社へは何回か行ったことがあります。
三峯神社の博物館には二ホンオオカミに関する資料が多数展示されており、二ホンオオカミの魅力に触れることができます。

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そんな二ホンオオカミ――。
絶滅した理由もはっきりとは分かっていません。
 
主な理由としては狂犬病が海外から入ってきたことによって二ホンオオカミは害獣となり、どんどん殺されてしまったこと
森林開発によって住む場所を追われてしまったこと
海外から持ち込まれたジステンバー病によって死滅してしまったこと――などが原因だとされています。
これらのどれか、もしくはこれらの要因が重なってしまったことで、二ホンオオカミは姿を消してしまいました。
 
でも、もし生息域をもっと標高の高い場所に移していたりしたら……。
生き残っている可能性も無きにしも非ず。
実際、標高2,000m近い山中で二ホンオオカミらしい動物に咆えられたという体験をした人もいます。
 
二ホンオオカミかもしれない写真を撮影した人や、二ホンオオカミらしい動物に咆えられた人、二ホンオオカミのような動物の遠吠えを聞いた人など、様々な体験者がいることもまた事実なのです。
だからこそ、今なお日本のどこかでひっそりと生き残っているのでは?と多くの関心を集めているのです。
 
絶滅種である二ホンオオカミが発見されでもしたら、それこそ今世紀最大級の発見となります。
「二ホンオオカミなんかいないよ」と一笑に付してしまうのは簡単です。
でも、もしいたとしたら……??? そこに筆者は大きなロマンを感じてしまうのです。
 
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一日中パソコンを相手にしていると、腰は痛くなる、眼は悪くなる…‥で結構つらいものです。
パソコン上の情報等で未知の物も多数うずもれていると思われます。
そうした物を一つでも掘り起こせればと願う処ですので、お知らせ下されば幸いです。

狼 翔

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慌ただしい年末が過ぎれば、新しい歳が否応なく訪れます。

 
昨年末、義母が手の届かない世界に旅立ちましたので、新年のご挨拶は欠礼させて戴きますが、私の心中は書に示す通りです。
 此の度の「狼翔」も一昨年の「狼魂」同様、活動を応援いただいている書家の平山遊季さんからのものです。

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平山遊季さん書「狼 翔」


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                     平山遊季さんとその作品
   【ミツバチは仲間とともに生き一生のあいだにわずかスプーン一杯の蜂蜜をつくります。
    一さじをすくう時どうか1匹のミツバチの命に思いを馳せてください。】

書に恥じない様、今年は調査地域を他方面にも向けようと、現在準備中です。 

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2014年のフォーラムで基調講演をお願いした山根一眞さんからこんなメールを頂戴しました。



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山根一眞さん


【八木さま お花、喜んでいただき嬉しいです。
> 一介の「ヤマや」だった私をここまで世間に知らしめてくれたのは、「シンラで山根さんが私を必要以上に取り立てた」からこそだと考えています。
いやいや、私こそ八木さんのエネルギーに敬服、感化したことで、「シンラ」が続けられたのですから、むしろお礼を言わねばならないのは私の方です。
いずれによせ、来年には本をまとめたいです。どうぞ、よいお年を。】
山根さんの出版に関しては、フィールド活動同様、二ホンオオカミ本の決定版になるべく全力投球で応援したいと考えています。

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昨年も多くのメディアからお話を戴き、映像で、活字で皆さんの下にメッセージをお届けした訳ですが、昨年から取材を続けていた「テレビ和歌山」報道部の佐藤瑞穂さんの作品が19日(月)「ニュース&情報 5チャンDO!」にて夕方6時~放送されます。
ただ、残念ながら独立放送局の為、和歌山県内のみの放送となります。
徳島県東部や三重県の南部では見られるところも多いそうですが、大阪では、南の方にアンテナを向けなければ見られないということです。
私のHPからも数枚写真をお貸ししています。
佐藤さんからの文面には「南方熊楠は、2度オオカミの糞を見つけたと記していて、2回目は最後のオオカミ確認後の明治43年でした。」とか、私的立場で和歌山から車で三峰神社に10時間かけて出向き、応対した神官から「江戸時代、江戸詰めの紀州藩士が三峰神社に足を運んでいた」事を聞き、「その時代の紀州からは中々行く機会がない場所に紀州人の足跡を見つけたことが嬉しく感じられました。…」そんな文面も届けられています。

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南方熊楠の研究書


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旧大塔村の歴史民俗資料館

放送(電波)エリアの方、是非ご覧ください。ご覧になれない方は、そのエリアの親戚、友人を思い出して、DVDの提供をお願いしては如何でしょうか。

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本年1/11に発売される「ニホンオオカミは消えたか?」が私の下に先日届きましたので目を通しましたら、注視して戴きたい文面が有りましたので一足先に提示します。
【越滅の定義も変わる】
2001年、国際自然保護連合(IUCA)は「レッドリスト カテゴリーと基準」において、絶滅の定義を以下のようにした。
疑いなく最後の一個体が死亡した場合、その分野群は「絶滅」である。
既知の、あるいは期待される生息環境において、適切な時期に(昼と夜、季節、年間を通じて)、かっての分布域全域にわたって徹底して行われた調査にもかかわらず、一個体も発見できなかったとき、その分類群は「絶滅」とみなされる。
判定を行うための調査は、分類群の生活環と生活形に照らして、十分な期間にわたって実施するべきである。
環境省のレッドリストは、IUCNの定義を反映させて独自のものを定めているとされる。
しかしニホンカワウソや九州のツキノワグマが絶滅したとされた2012年のレッドリストでは、ここまで厳密な認定がなされたとはとても言えない。
IUCNでは撤廃された50年というルールも環境省の基準では残っている。
ニホンカワウソの絶滅がIUCNの定義に当てはまらないどころか、50年という期間も満たさないことは明らかだ。
二ホンオオカミとなるとその認定はもっとずさんだ。
「疑いなく最後の一個体」がどれかなど、いまもって明らかではないし、そもそもニホンカワウソと違って、行政が関与してのニホンオオカミの生息調査など現在まで一度もされたことがない。
IUCNの定義に基づけば、いまだに「ニホンオオカミが絶滅した」とは言えないことにもなりかねない。
行政や学者の怠慢を正当化するのに絶滅認定は都合がいい。
だけど、現実に野山に正体不明の動物が行き交っている場合、その態度は誠実なものと言えるだろうか。
先述したように、そもそも「いる」ことの証明はできたとしても、「いない」ことの証明はとても困難だ。
「いない」という常識を守るために生息情報を否定する以外に、その証明に積極的な意味はない。
開発予定地域のイヌワシの営巣のように、いては困るからと生息情報を否定するなら、それはサイエンスではなくポリティクスだろう。
覚えていていいのは、IUCNも環境省も、野生動物の保護を目的に掲げている機関だということだ。
100年も生息情報がないわけだから常識的に考えて絶滅だろう、と役人が安易に言いたがる気持ちはわからないでもない。
その常識を裏付けてくれる学者にも事欠かない。
しかし野生動物の保護という面から見ると、その態度は本筋とは言えない。
環境省のニホンカワウソの絶滅宣言に対して、県獣にニホンカワウソを据える愛媛県は反旗を翻した。
愛媛県のレッドリストでは、ニホンカワウソは絶滅種ではないのだ。


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愛媛県産ニホンカワウソの全身骨格

それは生息を願う県民感情に沿った政治判断かもしれないけれど、一方で調査に予算を付けた愛媛県の態度は、少なくとも少なくとも野生動物の保護という領分を踏み外してはいない。
ニホンオオカミでは一度も行政がかかわった生息調査がなされていない。
それどころか、保護の基礎となる研究が始まったのは、二ホンオオカミの「信頼できる生息の情報」を学者たちが得られなくなってからのことなのだ。


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秩父市浦山集落に遺るオオカミ落しの穴


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                   オオカミ除けはじき垣(秩父郡小鹿野町)
                  昔はオオカミが新墓を掘り返す事があった

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会員の皆さんにお届けしている「NPO法人ニホンオオカミを探す会」の卓上カレンダーと手帳です。
昨年12月に網膜剥離の手術を乗り越えた、吉村理事が毎年制作しています。
上記の通り、ニホンオオカミでは一度も行政がかかわった生息調査がなされていないのです。
オオカミ生存確認まであと一歩。
山に入って、私たちと一緒にオオカミ探しをやりませんか。


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2017年度のカレンダーです



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同じく手帳です
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種の保存法違反

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今年の初山行は15日でした。
まずまずの天候でしたが強風で、体に堪えますので楽をしようと、瓦礫を徐けつつ林道の奥まで車を走らせていたら、一面の氷上に乗り入れてしまいました。
焦れば焦るほどドツボにはまってしまい、アクセルを踏めば踏むほど溝が深くなり・・・と。
年金生活者に適した車という事で一昨年軽車両を購入したのですが、燃費効率は良くてもこんな時には非力が目立つばかりです。
狭い林道上ですから、変にスリップすると数十メートル下の河原に墜落です。
何とか窮地を脱したのですが、その晩、車もろ共河原に落下する夢でうなされ、階下で寝ている妻が心配する事となりました。
昨年暮れ、義母と山仲間が逝ってしまい、死への恐れがそうさせたのか、はたまた歳を重ねて生への執着心が増したのか・・・兎も角、大願成就まで生きて居たいのです。
 
三峯博物館の館長から電話が入ったのは昨年の11月下旬、秋の繁忙期が終わって一息ついた頃でした。
数日後に長野県警の係官が2名、「種の保存法違反」で展示中の毛皮について話を聞きに来る…と云う事したが、全く要領が得られませんでした。
ただ、最近博物館に展示した毛皮標本が関係有るらしいと想像出来たのですが、法律違反とは程遠いと考えていましたので、県警の扱いには唖然とする思いでした。
 
問題の標本はニホンオオカミコーナーに「参考展示」として提示中で、キャプションは下記の通りです。
【インターネットのオークションで落札した毛皮だが、二ホンオオカミの毛皮に類似している。
 個人所蔵とするより、多くの方に見て戴きたいとの思いの中、当館に寄贈された。
 頭胴長90cm・尾長30cmは二ホンオオカミとしての範囲だが、体高が40cm±で範囲から外れ、爪も小さい。
ただ、顔面は当館にて展示中(向かって右側)の標本に、その他のプロフィールは、山口県産の標本(写真展示)に類似している。
謂れも不明で、実態を探る事は困難を極めるが、毛皮のDNA鑑定が確立出来た時、この標本の正体が明らかになるのだと考える。】    
       横浜市 小林直人氏 寄贈

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小林直人さんが寄贈したイヌ科動物毛皮

 
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想像以上に小さかったその動物の爪

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国内外8例目のニホンオオカミ頭部

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寄贈された毛皮の頭部

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                                       三峰博で写真展示されているニホンオオカミ
                            個人所有・国内外9例目の標本

これは横浜市の小林さんが「商品:狼 毛皮 敷物 山犬 オオカミ 剥製 ツメ有り」と提示された毛皮をオークションで落札し、私に見て欲しいとメールが有り、その後以下のようなやり取りを交わしたものでした。

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三峰神社奥宮での小林さん

K)≪先日、ひょんなことからイヌ科動物の毛皮をオークションで手に入れました。
ノイヌかタヌキか程度に思っていたのですが、実物を見てライデンや科学博物館の標本に似ているように思えてなりません。
添付した写真を見ていただけますか。
鼻と耳が欠損しておりますが、全長は120cmほど、体長は90cm位です。
大きさ、全体の毛並み、四肢の短さ、背の黒帯、マント、スミレ腺を示す班、前肢前面の暗色班などいわゆるニホンオオカミの特徴を揃えているように見えるのですが。
右前肢上部に銃痕のような穴が三つほどあります。
それほど古いものとも思われず、キツネかノイヌと思って狩猟したものではないかと夢想していまいます。
八木様はどう思われますか。
長野県下の出品者に問い合わせたのですが、十年前位からあり、持ち主の旦那さんが亡くなってしまって、奥さんには入手先等わからないとのことでした。
毛皮だけでは何ともいえないことは承知しておりますが、ご参考まで情報提供いたします。≫
 
Y)≪写真を見て気付いた点を列記します。
・尾長30cm・頭胴長90cm・ですのでCanis hodophilax の範囲だと思います。
・前肢前面の暗色班・スミレ腺を示す班・は送付頂いた写真からでは確かな確認ができませんでした。
・体高―IMG1777の写真でー(爪先から爪先の長さ÷2)はどのくらいでしょうか。(正確な体高ではないのですが)IMG1792から推測すると、4041cmにしかならないと思います。(この毛皮標本は4足ともに爪が確認できるよう思えます。)

・仰る通り状態から察して左程古い標本とは思えない感がします。
Canis hodophilaxとして同定されている国内外9例の標本と比較して、一番違和感を覚えるのが毛の質です。(あくまでも写真上からですが)
7月か8月に三峰博の展示替えが有りまして行きますので、毛皮持参でお出でになったら如何でしょうか。
率直に言って、写真で見るのと実物を見るのでは違うと言う事です。
そして、ご承知の通り「謂れ」が重要な役目を果たします。   八木 博≫
 
20168/5のこの欄「渓流釣り師からの情報(2)山犬の段」の末尾に記した通り、8/4の展示替えを行っていた博物館に、小林さんは毛皮持参で現れました。

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昨年8月の展示替えの様子

K)皆様にそれらしさを感じていただけて、ほっとしました。
最近「渓流」や「Star People]を読んだためでしょうか。
山でオオカミらしき動物に会う夢を見ました。
その数日後、たまたまオークションで手に入れたのが、あの毛皮です。
自分でも競り合うこともなく、すっと手に入って不思議な出会いだなと思いました。
三峰博で保管されることがあの毛皮にふさわしいと思います。
毛皮を見た方たちが、毛色や毛並みのイメージを持って山に入ることによって、新たな発見情報がもたらされることを期待しております。
自分も期待を持って山歩きをしたいのは、山々ですが、お話しした通り体力に自信がないため、断念しております。
八木様や横山・林様達が発見されることを期待しています。≫

K)最近のブログを見て、いよいよ実物との接触が実現するような期待感を抱いています。
オオカミを探している方たちの中には、自分だけのものにしていたい方や自分が発見したいという野心のある方がおられるようですね。
そうした方たちには関わらず、八木様とお仲間の皆様は地道な探索を続けられ、成果が現れますことを祈念しております。≫
 
展示替えの手伝いにNPOの横山・林さんが居りまして、両人が都内の最寄り駅まで小林さんと同乗した・・・と云う事ですが、偶々、戯れに入札した毛皮が落札出来て、入札者が善意で博物館に寄付した物が法に触れ、関わった人たちが振り回された・・・そんなドタバタ劇でした。
(オークション出品者が売り価格を高くしたいと思い、種の保存法に触れる「狼・オオカミ」の文字を入れた為)
今までの様に、「面白い毛皮」的興味の中でオークションに参加すると大変な事になる・・・そんな戒めとも思われます。

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種の保存法関連の新聞記事

因みに「種の保存法違反」としてネット上に、
絶滅の恐れのある野生動植物種を保護するため、1992年に制定。
国際的な保護対象の動植物688種と、環境省が指定する国内の175種について許可を受けた場合などを除き、捕獲や売買などを禁止している。
20136月の改正でネット上の広告が規制され、罰則も強化された・・・と記されています。

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                                            オークションで購入されたイヌ科動物の毛皮
                                これらも扱い次第では法に触れる事となる
 
長野県警に参考品として持ち帰られたイヌ科動物の毛皮は、1月末には返却されるそうですので、4月から博物館でご覧になれると思いますが、今後、動植物の標本関係を安易に入手すると、厄介な事に巻き込まれる恐れが有りますので、繰り返しますが注意が肝要です。

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フンボルト大学(独)に所蔵されている毛皮標本

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三峰博に展示されているニホンオオカミの毛皮

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                                                          上記毛皮のリニュアル前の写真
                                              同じ毛皮でも、手の入れ加減で全く違って見える

相模原市明日原からの情報

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News Up 二ホンオオカミ “最後の日”
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【ニホンオオカミが最後に見つかったのは明治38年の123日。
そう、123日はニホンオオカミ最後の日です。
しかし今でも生存を伝える話が・・・・・。
幻となったその姿をカメラに収めようという人、そしてその関係者を追ってみました。
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果たして幻のニホンオオカミは発見できるのか。】
 
昨日1/23付け・パソコン上で掲載されている記事です。
NHK NEWS WEB」上に詳細が載っていますので御覧願えればと思います。

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ニホンオオカミに興味を持つ人の中で、実体験を持つ人とそうでない人、2つのグループに分ける事が出来ます。
実体験を持たない人たちの中でも、山に触れていれば何時か・・・と考え、山歩き・魚釣り・等で山に向かいます。
そして志なかばで気持ちが折れ、何時か方向転換をし違った道を歩く・・・。
見狼記の中でも語りましたが、それを目的にした邪まな気持ちをオオカミ達は感知するのでしょうか、中々都合の良い様に事が運ばないのが現実です。
オオカミ体験を得るべく山に向かって、それが見事に為される人の数は極々僅かですが、山に向かわなければ何も始まらない事だけは確かなのです。
 
かっての私がそうであった様に、無の状態で山に触れていて体験をすると、その正体を知ろうと夢中になって・・・。
そうした中の一人上野裕人さんの体験を紹介します。
 
【私がその咆哮を聞いたのは1995年(平成7年)9月中旬の、晴れた午後4時ころ、2分間くらいの間でした。
現在は相模原市緑区となりましたが、当時の地名は神奈川県津久井町鳥屋で、水沢林道入口手前の山中です。
その時私は景色を眺めていたのですが、私の西方約100m先くらいで吠えている様でした。
近くに水場(水沢川)がある針葉・広葉の混合樹林内で、最寄りの鳥屋集落まで約2kmの距離でした。
咆哮ははっきり聴きとれ、カタカナで書くと、ウオオーオオオーンンンン ンンンンンン。
声が空気を振動させ、遠くからなのに近くで啼いている様に聴こえ、周りにいた家族連れも大変気味悪がっていました。
お互い「これ、きっとオオカミだね」と確認しあったのですが、麓のイヌも遠吠えに反応していました。
その後幾度も周辺を歩きましたが、咆哮を聴いたのはその時1回きりです。】

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上野裕人さんが体験した周辺の地図
                                           
一昨年秋から昨年春にかけOutlookが故障し、3.000件ものメールが滞りましたが、2015/12/26 () 14:50付けでAkichika Inoueさんからこんな情報が届いていました。
 
【拝啓 はじめまして 私 神奈川県相模原市緑区在住のAと申します。
目撃情報といっても昭和20年頃の話だと思いますので・・・たいしてお役にはたたないと思いますが・・・
私の父親M(7年ほど前に他界いたしましたが)ニホンオオカミ捜索のテレビ番組を見ていたら妙な事を言い出しまして・・・
これも20年以上前の話なので・・私自身も記憶があやふやなのですが・・・。
その時の会話
父 「こんな物よう~俺が若い頃、明日原(あしたっぱら)になんぼもいた~ぞ
  ~」
私 「そんなわけね~だろう~学問的には明治38年頃に絶滅したって学者が
  言ってんだからよ~普通の野良犬とかと 間違えてるだけじゃねーの?」
父 「そんな事はね~あきらかにこいつ等(ちょうどテレビに写真が出ていた)
  だった・・・」

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オオカミ捜索番組に出ていた秩父野犬

私 「お父ちゃんだけでなく他の人も見てたのか?」
父 「一緒に山仕事をやってた連中も・・・地元の連中も・・・当時は、そんな珍しいも
   んだとは誰も知らねえから・・・
   あ~また山犬(オオカミではなく山犬と呼んでいたらしい)が吼えてら~く
  らいにしかおもってなかったんだよ~」
私 「・・・・・」
その後・・山の中で昼飯を食べてると離れた所にいるのでオカズを投げてやったら、嬉しそうに持ってった・・・みたいな事を話していた記憶もあります・・・
場所は神奈川県、相模原市、根小屋、明日原(地元ではアシタッパラ)あたりらしいです・・・情報といってもこの程度のものですが・・・
仮に事実だとしても今現在生き残っているとはとうてい思えませんしね・・・何かの参考になればと思いメールさせていただきました。】 
 
「明日原」と云えば、在野のニホンオオカミオオカミ研究家の一人小川さんから、こんなお手紙も届いています。
 
【お世話になります。
先日相模原市根小屋明日原に行って来ました。
30戸ほどの昔からの山中の集落でした。
菊地原家の「狼さま」と呼ばれている頭骨を見せてもらいましたところ、山梨県立博物館から「キツネらしい」との鑑定を受けたとの事です。
頭骨長15.5cmでキツネに似ていました。
明治時代に捕獲され、昭和初期、狼頭骨との認識で、「キツネオトシ」の効果が2回も有ったとの事です。 2016.6.07. 小川路人】

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小川さんが調査したキツネの頭骨

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「ニホンオオカミ頭骨発見」の新聞記事

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新聞記事の頭骨・実はキツネの頭骨
 
相模原市緑区明日原周辺に私は幾度も通いました。
何れも20年ほど前の事になりますが、宮ケ瀬湖近く清川村煤ヶ谷の民家に保管されている頭骨標本調査の為や、秦野市・山北町での頭骨調査の帰りに山越えで寄ったり・・・。
登山者からイヌ科動物の遺体を見つけたとの知らせを得て、道志川を辿った上流域の長者舎から犬越路の谷筋で、遺骸発見の為飽きずに探し続けたり・・・。
上野さんがオオカミ体験をした頃それとは知らず、一生懸命になって現在の相模原市緑区域でオオカミ探しをしていたのです。

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20年前幾度も通った山域の地図

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秦野市栗原家のニホンオオカミ頭骨

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見狼記でも登場した中村家の頭骨

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煤ヶ谷集落で一番立派な岩沢家の頭骨

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煤ヶ谷集落井上家の頭骨・現在行方不明

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井上家頭骨と同体の山田家所蔵左前肢

柳田國男「山の人生」

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1月最後の山行きは26()でした。

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中津川集落入口の氷壁

20146月に咆哮を聴いたとの情報が有った沢筋へのカメラ設置でしたが、先行者が2名いる事に気が付いたのは、1つ目のゲートを越えてから30分後位でしたでしょうか・・・。
マウンテンバイクを押して歩く若者たちは、林道終点までが目的らしかったのですが、雪が予想以上に深く2つ目のゲートを越えて進むことは有りませんでした。
歩くだけでも大変な行程ですので彼らの考え方は正しく、私も一瞬心がくじけそうになったのですが、雪上のフィールドサインを追って歩くのは楽しいもので、気が付くと目的の沢の入り口に達していました。

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体験者から届いた周辺の略図

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林道から沢への分岐地点

沢伝いに4050分歩き当該地に着いたのですが、何処かから咆哮が聴こえて来るのでは・・・そんな気持ちにさせる絶好のロケーションでした。

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遠方に見える山並みの先は長野・群馬県

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略図上の「北向きの滝」

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周辺随一の名所「大カツラ」
 
2日前の24日(火)NHKBSで放送された「ニホンオオカミ伝説の地を歩く」なるトレッキング番組を見ましたから、一層そんな気持ちにさせたのでしょうが、番組中で、『御眷属子を産まんとする時は かならず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみ これを聴くことを得べし』・・・と示されていましたから、聴く事を許されなかった私はその時「心直ぐならざる者」だったのかも・・・知れません。
さもなくば、御眷属が子を産まんとする時で無かったのでしょう。
 
『御眷属子を産まんとする時…云々の一文は、柳田國男の「山の人生」中に記されていますので、関連ある部分を少し紹介します。
 
【山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族に対しては、〈産見舞い〉という慣習が近頃まであった。
遠江・三河に限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場所があった。
いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。
ただし果たして狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。
津久井の内郷などでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎や雉子の類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、
 
秩父の三峯山では今もって厳重の作法があって、これを〈御産立(おこだて)の神事〉というそうである。
『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属を産まんとする時は、かならず凄然たる声を放って鳴く。心直ぐなる者のみ これを聴くことを得べし。
これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎衣冠して、〈御炊上げ〉と称して小豆豆三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。
その地に注連を巡らし飲酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。

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三峰神社本殿

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北村西望作「神犬産立」
 
しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。
狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるを得なかったことを意味するかと思う。
狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を脅かしたという話は西洋にも広く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。
ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持ちの女房がにわかに産を催し、夫が水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬み殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や巌があって、しばしば祟りを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。
ただし実際この問題は難しくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。
山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって広くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵ではなかったかということである。】
 
御覧の様に≪三峯山では今もって厳重の作法があって≫・・・とあるのに対し≪御産立の神事が年を隔てて稀に行われていた≫・・・とする他神社との想いの相違・・・。
オオカミ探しを続けている私の下に届く生存に関する情報が、奥秩父山中で圧倒的に多い事と若しかしたら関係あるのかも知れません。
 
因みに「ニホンオオカミ伝説の地を歩く」なるトレッキング番組ですが、1日目、三峯博物館での取材から神社奥宮への登山、そして車移動で奥多摩の一之瀬高原での取材、2日目将監峠(出発地不明)を経て和名倉山(2.036m)手前の東仙波(2.003m)でのロケでした。


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東仙波(2.003m)頂


三峯神社奥宮から一之瀬高原経由東仙波のトレッキングとは、何て無茶振りなんだろうと首を傾げて見ていたのですが、東仙波からの景観が素晴らしいと語った映像は、飛龍権現近くの禿岩からの景色で、東仙波からは絶対見える筈のない一之瀬集落が映っている酷い物でした。

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写真中央部白い部分が一之瀬集落

この番組とは無関係だった私としては、胸をなでおろした次第です。

福井城址のニホンオオカミ

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20年前の私はフットワークだけが取り柄の人間で、各地をニホンオオカミとの遭遇を夢見て歩き廻り、未知の標本と巡り合うと今泉吉典博士に教示戴いていました。
秩父市内の民家に所蔵されていたニホンオオカミの毛皮の写真を持参したか何かの時、博士の机の上に在った書籍(1996.7/20.に晶文社から発売された『鳥を書き続けた男―鳥類画家 小林重三』)が目に留まり、福井城址のニホンオオカミに関する文面が載っている事を教えて戴きました。
今泉博士は福井城址のオオカミをニホンオオカミと考えていましたが、1962年.(昭和37年)1月19日開催の第61回日本哺乳動物学会例会に於いてそれを否定されていたので、同書から何かの手掛かりが得られないかと思案している処に、タイミング良く私が伺った・・・と云う事でした。

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国松俊英著「鳥を書き続けた男」

民家の毛皮は昭和の初め、三峯の奥裏で獲れたとされていたので、私はそれを証明する手段を探っていたのですが、それより何より福井城址の件が、鷲家口の明治38年絶滅説を崩せれば、無し崩し的に生存説に結び付けることも出来ると考え、博士の情報を胸に刻む事としました。
 
19978年だったと思います。
12年前に撮影した秩父野犬を題材に、TV局から「1時間番組を制作したい」旨の話が持ち込まれ、半年間掛けての撮影が始まったのですが、山中でのロケ中に突然ディレクターが書類を持ち出しました。
それが松平試農場の雑日記(1910年)でした。

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明治43年の松平試農場の雑日記

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雑日記の内容・狼捕Xの文字が・・・

ディレクターは半年間苦楽を共にした私に論文作成を望んだ様でしたが、学識経験者の今泉、吉行先生に作成して貰ってこそ論文が生きると考え、私は吉行先生に資料をお渡ししたのです。

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吉行・今泉博士の論文

(その辺の事はユーチューブ幻のニホンオオカミを追い続ける男-で見る事が出来ます)
番組制作はディレクター田中重幸氏とカメラマンの元吉修氏そして私、3人の合議で進められたのですが、非常に大きな意義を持つ作品となりました。
何より私にとって大きな転換点となったのは、番組で取り入れた自動撮影カメラでした。
このカメラは元吉氏のハンドメイドでしたので、これ以降私たちのオオカミ探しのスタイルが全く変わったのです。
現在山中に50台のセンサーカメラが稼働中ですが、元はと云えばこの番組が契機でした。
 
松平試農場の雑日記ですが、少ない予算の中で如何に内容ある番組を作るか・・・と、知恵を絞った末の顛末が此処だったのですが、田中氏が苦労の末入手した資料が、後にニホンオオカミ研究に於いて大きな波紋を広げる訳です。

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小原巌先生に説明を受ける田中氏

田中氏の言に依りますと、松平試農場誌は福井新聞経由で入手し、雑日記は都内在住の福井城主末裔から直接入手したとの事です。
因みに、私も松平試農場誌を福井新聞経由で入手したのですが、その流れで後日、ニホンオオカミの頭骨を福井県内で発見・調査することが出来ました。

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福井県鯖江市内で発見した標本
 
【友永富氏(福井県農業試験場長)執筆の「松平試農場誌()」・関連のある処のみ原文のまま以下に記載します。

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友永富氏執筆の「松平試農場誌」

1910年(明治43年)8月3日には野犬が福井城内に潜入したとの情報が伝わり、伝習生が総出動して捜索したが発見されなかった。
ところが夕方になって寄習舎付近に現れたため、ちょうど現場付近にいあわせた奥谷奥之助助手が銃で射止め佐竹正継助手、稲垣正夫研究生の両名がこん棒でうちたたき捕殺した。
7月30日小浜で興行中の矢野動物館が汽車で小松に向う途中満州産と称する灰色のオオカミ1頭が今庄---鯖江間で逃亡した事件があり、このことがあってから舟津村小黒町、有定、福井市西端小山谷村等で子ども数名が傷つけられ大騒ぎしていた時期でもあり、4日朝、福井中学動物学教諭羽金準一郎の鑑定を求めた。
その結果は純粋の日本オオカミであるが矢野動物館のものかどうかは不明であった。
一方同日午後矢野動物館員の松尾嘉蔵が来福し、調査の結果同館所有のオオカミでないことが明らかとなった。
当時このニュースは「オオカミ城内を荒らす」と題し大々的に扱われた。

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                                                      捕獲されたオオカミのスケッチ
                                      福井風物(明治大正)三田村保正とある

写真は第十八代福井藩主松平康荘(まつだいらやすたか)の撮影した福井県最後のオオカミである。

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                                          第十八代福井藩主松平康荘撮影のオオカミ

これについて試農場は奥谷奥之助に柳行り一組と園芸調査書一冊を、佐竹正継、稲垣正夫氏の両名には柳行り一組ずつをあたえて賞し松平邸からも三名に対し賞賜があった。
日本では三十八(1905)年一月二十三日に大和鷲家口でアメリカの探検家マルコルム、プレイヤ.アンダソン一行がオオカミ一頭を八円五十銭で買い求めたのがこの絶滅種の最後の個体として著名のもので、わが国では三十八年前後にオオカミが絶滅したとされている。
もし今日まで福井のオオカミの標本が保存されていれば、貴重な学術的資料になったであろうと思われる。】

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福井城址で捕獲されたオオカミの剥製写真
 
1月前に発売された「ニホンオオカミは消えたか?」皆さんご覧になりましたでしょうか。
多くの方から読後の感想が私の下に届いていまして、おおむね好評の様子です。
研究仲間の森田氏曰く“シンラの山根一眞さんを越えましたね!”ですが、概略だけですと“そんな気も無きにしも非ず“かも知れません。
消費税込み¥1.512‐ですので費用対効果は満たしていると思えますが、如何せん、つまらない誤字、誤植等の間違いが多すぎる書籍です。
多分原稿校正がなされていなかった為だと思いますが、それ以外にも私に関する記述、違った解釈をしている部分が何ヵ所か見受けられます。
私に対し好意的に捉えた文面だとしても、相手の名誉に関る事も有り得ますので、そうした2点の正確な顛末を述べたいと思います。
 
1.≪福井城址で捕獲されたニホンオオカミに関する論文を今泉吉典・吉行瑞子博士が2003年に発表した件で、私がその資料を福井まで足を運び発掘したかの如く記されていますが、資料を発掘したのは「幻のニホンオオカミを追い続ける男」のディレクター田中重幸氏です。≫
 
前述の通り私は、タイプ標本の存在も知らず、頭骨の見方も知らない、フットワークだけが取り柄の人間でした。
ニホンオオカミの、動物学のイロハから手に取って教えてくれたのは、早稲田大学で考古学を学んだ井上百合子氏です。
その井上氏からシーボルトの江戸参府紀行を読むよう勧められ、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」の存在を教えられました。
それ以降、頭骨標本を手にする際の心構えと観察部位が変わって来たのです。

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シーボルト著・江戸参府紀行

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            1996年に発行されたシーボルトの80円切手
 
 
山根一眞氏がシンラ誌上で「動物事件簿 狼」の連載を始めたのは19961月からです。
記念すべき第1回目は奈良県下の取材から始まりましたが、取材先での情報量が乏しく、2回目以降の記事にも困窮していた様子が感じられる中での拙宅訪問でした。
天理市をベースにオオカミ探しをしているグループは、「紀伊半島の幻3大獣(オオカミ・カワウソ・イヌワシ)」の位置づけでのニホンオオカミだった為、山根氏の欲求が満たされなかったのです。
その事を知った私は、山根氏に「ドライブインに行けば、和食でも中華でも洋食でも手軽に食べれますが、美味しいものが欲しいならば専門店に行きますよね!」と云ったのですが、やればやる程謎が深まるニホンオオカミは、片手間で出来る研究では無いことを知らせたかったのです。
 
6回連載の予定で始まった狼シリーズですが、次から次へ情報を提供する事により、延々19回も続いたのは皆さんご承知の通りです。
ただ前述通り、オオカミとヤマイヌは地方での呼称が違う・・・とした従来の考え方から、違った動物だとする思考になったのは、井上氏の指摘と頭骨標本を密に観察し始めたからで、その考え方は今も変わりません。
そうした中、動物事件簿17回目で「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」の記載を見て、自分たちの思考が間違った方向では無いと確信を持った次第です。
山根氏を始めとするスタッフは、遠くオランダのライデン博・イギリスの大英自然史博まで足を延ばし、多くの新しい発見をした末の記載だったからです。
余談ですが、「TBSテレビ・世界不思議発見」中で、ライデン博のスミンク博士は「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」の発言をしています。

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            タイプ標本を手に持つスミンク博士
            台裏にはJamainu(ヤマイヌ)とある

2005年に行われた愛知万博で、タイプ標本が愛知県パビリオンで展示される事になったのも、動物事件簿の取材で山根氏とスミンク博士の信頼関係が培われたからこそだったのです。
 
2.≪「オオカミはいた。そしてヤマイヌも。」理論は山根氏の探求心の為せる技で、「ニホンオオカミは消えたか?」に記されている様な、“八木の主張を「動物事件簿狼」の1章分のタイトルに当て、オランダのライデンに出向いて、この問題を追及した”。・・・・・・のでは無いのです。
 
昨年、ニホンオオカミ関連の書物が多く世に出ましたが、その全てでゲラ刷りのチェックに関わりました。
思い起こすと、「ニホンオオカミは消えたか?」に関して、ゲラ刷りのチェックは1回も求められませんでした。
左程出来の悪い書物で無いだけに、最後の詰めが甘かったのでしょうか。
やるべき作業をチャンと行っていれば、私の居住地が三郷市と記される事など無かった筈ですから。
何時か自ら出版した際の反面教師として、「ニホンオオカミは消えたか?」の過ちを受け止めたいと考えています。

梓山犬血統保存会

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ニホンオオカミ研究の祖とされる斉藤弘吉氏は、西洋化される在来日本犬保存と並行してのオオカミ研究でした。
昭和3年頃からの事ですから、かれこれ90年前のことになります。
斉藤氏は日本全国に足を運びその足跡を残しているのですが、そうした行動は私の原点ともなっています。
現在弘前市に遺された頭骨は、斉藤氏が昭和115月に発見した物で、その60年後私が調査に赴くまで、所蔵家以外の誰にも手が触れる事がなかった標本です。

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弘前市中畑家所蔵の頭骨
 
そうした斉藤氏の足跡の中に、利根川の支流神流川沿いを上野村まで辿る昭和3年秋の旅が有り、日本犬保存会創立五十周年史(上巻)に群馬県多野郡上野村調査雑記として、記中に以下の文面が見受けられます。
「差尾茶褐色肩高一尺三寸五分、三匁位の牡犬、体形よろしきを発見して遂に譲り受け、十石号と名をつけ愛育す。
この上野村附近の犬は、長野県南佐久郡川上村と同系統のもの多し。
十石号は仔犬の時長野県南佐久郡川上村字梓山集落から、山越にて連れ来たったもので、今日、俗に柴犬と称される小型日本犬の流行の魁をなした犬である。」

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斉藤氏の愛育犬「十石号」
 
このサイトをご覧になる皆さんは川上犬なるイヌをご承知の方も多いと思います。

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十石犬の兄(写真左)妹

現在長野県の天然記念物にも指定されている川上犬ですが、上記の通りルーツを辿ると梓山集落で飼育されていたイヌがその根源だと判ります。
川上村の企画課が発信しているホームページの中で、十年近く川上犬の部分を担当していた高橋はるみさんは、現在「NPO法人梓山犬血統保存会」を立ち上げ運営していますが、私達「探す会」とも浅からぬ縁があります。

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2002年のフォーラムで高橋さん

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梓山犬血統保存会Facebookの表紙

京都在住の岡田氏が奥秩父山中に籠ってオオカミ探しをした際、その資金を得るべく高原野菜収穫のアルバイト先を紹介してくれたのが高橋さんでしたし、神奈川県内の頭骨標本調査に同行頂いたりもしています。

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箱根山中の山棲犬頭骨

今回の話は、こうした繋がりが出来る前、2001年5月中旬のお話です。
2002年に行われた三峯神社でのフォーラムに高橋さんも参加し発表していますので、先ずはその際の発表要旨をご覧ください。
 
【今現在、この地球上に生存している川上犬というものが大体、200頭前後ではないかと言われている。
川上村と言うのは標高が役場のある所でも1400メートルあり、日本で一番高い所に役場がある村で、本当に僻地だった村である。
戦後に高原野菜というものが栽培可能になり、だいぶ裕福にはなったのだが、それ以前は、全て農作物は無理だというので、猟に頼っていたと言われている。
カモシカ猟と言うことで、毛皮を本当に古くから、江戸時代は徳川家に奉納したりと言う状況が村自体の歴史は古いのであったそうだ。
そこで、この秩父の山もそうだけれども、川上村の周辺の山と言うのは、例えば廻り目平という有名なところがあるが、非常に険しい岩場だ。
その岩場でカモシカを追う猟をするということで、野生動物の敏捷なものを追いかける。
それだけの敏捷性とそれから脚の裏が非常に丈夫でないと岩場で流血をしてとてもじゃないけれど動けない。
その2点から昔の人達が、川上村にいたイヌと、ニホンオオカミあるいはヤマイヌとされる動物との、混血を作ったという謂れがある。
 
そんな状況で私も取材をしているから本当に色々な話を聞けて、たまたま、川上犬と山梨の甲斐犬ですね、この甲斐犬について、体型が似ているものが有ったので、少しルーツが探れるかなと思って、それで櫛形山という所へ分け入った。
本来、芦安村と言う所だが、芦安村には殆ど甲斐犬は居ないので、あちこち歩いている時にたまたま、櫛形山の、山の中の一軒宿にたどり着き、そこで、本当に偶然なのだが、イヌの頭骨が転がっていたのだが、それは単なるノライヌだった。
 
ただ、何か気になる、地形的なものや、オオカミの好きな人間の触手が動くと言うか何かがあって、そこのご主人に「この頭骨何のですか?」と聞いたら、
「それはノライヌので、家に来て、野垂れ死んじゃったので、そのまま埋めてないんだよ」と言う話だったが、「何か興味があるの?」と聞かれたんで、いや実はねと言うことで自分の活動の話をしたら、「あのね、私は櫛形山の麓で温泉旅館を営んで、子供のときから何十年と暮らしているのだけれども・・・」、これまだ、去年(2001年)の5月の話だ。
「自分は鉄砲が好きで猟もやっているんだけれど、実は数年前に、ライデンのタイプ標本に似たオオカミみたいなものに遭遇したんだよ」って。
その時はライデンみたいなと言う表現はされていなかったが、「それが多分ニホンオオカ ミだと思うんだよね。 」とその方の口から出まして、ええ!と言ったら、ちょうどビートたけしの「万物創世紀」と言う番組でやったばかりで、実はあれにそっくりだった、という話になって、ちょっと待って!と言って、それでもう大至急、その場から、八木さんに電話しちゃったんです。
 
その時が八木さんとは、実は初対面どころか何の話も無いのに、これはもう八木さんに連絡しなければいけないと、それで大至急八木さんと連絡を取り、一日、二日のうちにもう一回そこへ行こうということになって、八木さんにもそこへ、お出で願って、そこのオーナーの方に、それを見た場所はどこなんだと、言うことで、その場所の紹介をして頂いて、これはあくまでも、拾い話のようなもので、写真に撮れたとか、そういうことではないので、それが本当にライデンのタイプ標本に近いものだったのか、あるいは同じものだったのかはわからないけれども、ただ、本当にこの界隈には居るんじゃないかなと言うことはすごく判るというか、そういう感じがする。

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山梨県富士川町の赤石温泉

で、何故それを感じるのかというと私は野生動物の仕事もしていて、ちょっと、話が逸れるが、先ほどご挨拶頂いた先生方の中に、教科書はそうなんだけれども、とか、一般的にはこうなんだけれども、と言うお話があったが、教科書の話と言うのは全然当てになんないなと思って来ている。
というのが、私のごく身近な人間にも環境庁の仕事をしていたり、非常に有名な野鳥の研究をしている方がいらっしゃって、オーストラリアとか、あっちこっち飛び歩いている方がいらっしゃるのだが、その方に、実はうちの裏山にオオタカが巣を作っているんだと言ったんだけれども、「そんな、高橋さんね、 民家のすぐそばにオオタカなんて巣なんか作んない」と言う。
そんなことはないよ、あれはオオタカなんだけれどなと、で、その内「先生、オオタカも居るんだけれど、違う個体の種類が飛んでいるんだよ」と言う話になって、それをまた話をした所、「あなたね、素人がね、空高く飛んでいる鳥のね、オオタカじゃないの、ノスリじゃないのね、なんじゃないのね、そんなの判るわけ無いでしょ!第一、居ないんだから!この近辺には居ないんだから!」と言われたのですが、実はあまりにもその鳥の姿が多いんで、頭に来て今年の3月に、その先生を家まで呼びつけまして、これとこれだと写真もとりまして、見せたりとか、
あるいは巣の所まで行って見せて、「こんな近くに!」とうちは神奈川県の湯河原だが、早い話、周りには民家が一杯あったり、観光地なんでクルマも結構通るような場所に、そういうものが出てきて居る。
 
よくその辺のお話を伺った所、20年前は絶対居なかったそうだ。
どういうことかというと20年前までは野生が隠れられる場所、身を隠せる場所があったということだ。
ところが、家は本当に湯河原で、箱根に続いているのだが、箱根の山は、スカイライン、ハイウエー、パークウエーなど、至る所に観光用の道路が通っているから、野生が隠れられる場所は逆に無い。
で、むしろ、私思うに、うちの裏山にキツネも出るんですね、キジがたまたま、飽和状態になって、すぐに放鳥しますので、記念があると、餌も増えていると言うこともあるのだろうが、昔ではあり得なかった事と言うのが、今出て来ていて、野生が顔を出し始めているというか、人間との共存、昔は山に入って行った人間は鉄砲を持っていたから、人間は危ないぞと言う状態だったと思うが、普通に生活している所の人間は別に何の危険じゃないと言うことを野生の方が考えて来ているのじゃないかと言う気がする。
 
だから、例えば、このオオカミであるとかヤマイヌであるとかというものも、いきなり結びつけるのは危険かもしれないが、以前にも八木さんとお話ししたことがあるが、死体が出てないから、もう絶滅しちゃったんだろうと言う話は、それはちょっとウソなんじゃないか?と、家でも、今まで、何頭かのイヌを飼っていた。
私、四十数年生きている中でずっとイヌが切れたことが無いが、そういう山に近いと言うこともあり、イエイヌでも、死に際と言うのは山へ入っちゃうんですよね。
そうするといくら捜しても、その死体は出てこない。
人間に慣れているはずのイヌがそれだけ捜しても出て来ないのだから、仮にヤマイヌなり、ニホンオオカミがいた場合、捜しても、その死体が見つかるという確率はまず無いと思う。
だから、むしろ、そういうものが死体が上がらないから、死体が発見されないから、死んじゃった、絶滅しちゃった、と言うことではなくて生きてる可能性と言うのはすごくあって、また、逆に、先ほど申し上げた猛禽類の様に、人間と共存と言う形で、場合によっては、以前よりも姿を現してくれる可能性があるんじゃないかな?と言う所を今すごく感じている次第です。
今日はこういう席にこんなつらつらと言ってしまったのだが、ありがとうございました。】
 
電話を頂いた数日後私は、櫛形山麓の赤石温泉まで車を走らせ高橋さんと落ち合った。
小柄な宿の主人は、近くの目撃現場まで私を案内し、私の持参したタイプ標本の写真を見ながら「間違いない」と云った。
確かにタイプ標本的動物は現存しているのだろう。

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ファウナ・ヤポニカ中のタイプ標本

2014年7月末の熊野古道でフランス人が200mの距離を4頭に追われ、昨年6月中旬には匿名希望のK氏ら数人が、奥秩父山中でキャンプ中に5mの近距離まで迫られた。
そして、詳細は未だ云えないが、私も奥秩父山中で、しかも牡牝のペアーを見た。
 
ただ、シーボルトの絵師「ド・ビィルヌーヴ」が長崎の出島で描いた「ヤマイヌ」のスケッチとタイプ標本の吻部の印象が違い過ぎる・・・と私は考えている。
ドイツ・ベルリン博の毛皮の様に、ぶら下げて保管したため吻部が伸び、それを剥製にしたのか・・・とも思えるが、私が見た動物はタイプ標本そっくりだった。
探れば探る程謎が深まるニホンオオカミと称する動物。
しかし、日本の何処かに必ず存在しているのだ。

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タイプ標本頭部の拡大

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ド・ビィルヌーヴが描いたオオカミ

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ド・ビィルヌーヴが描いたヤマイヌ

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ヤマイヌの頭部の拡大

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鼻部を吊り下げ伸びた吻部
    ドイツ・ベルリン博の毛皮標本

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ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)

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タイプ標本と人間の大きさを・・・

斉藤弘吉著「日本の犬と狼」より

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前号で記したニホンオオカミ研究の祖斉藤弘吉氏は、昭和6年(1931年)111日夜の電車で福島・山形県境に接した新潟県三面村に旅しています。
上野村探訪と同じく日本犬発掘が旅の主たる目的で、情報収集をしてくれた地域の有力者案内の下である為、集落の長老との話も順調に出来ています。
その中で特筆すべきこんな事例が氏の著書「日本の犬と狼」に載っていますので紹介します。
狼調査とある目的のため、氏は福島県北小国村から、泊りがけで峠を越えての三面行きでした。

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三面村民家に在った古式の狩衣を来た斉藤氏

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雪華社刊「日本の犬と狼」

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忠犬ハチ公を世に知らしめたのも斉藤氏
 
【我が国唯一の山犬(この場合ニホンオオカミ)の標本(科学博物館蔵)が岩代国産であることを考えると、福島、新潟両県山奥には、近頃まで生存していたものと想像される。

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国立科学博物館蔵ニホンオオカミ剥製

もし万一現在も残存しているものとするならば、朝日連峰は第一に推測地とされるべきであろう。
実際に山犬に遭遇した三面村小池豊蔵老人談。
 
「約十年前(1921年・大正10年)の一月半ば頃伊東岳と化穴山との間の尾根を三面川水源地の方に青ししを追い下って来た時、下方から狐より大きいものが身軽にぴょんぴょんと飛び走って来てすれ違ったので、ちょっと振り返って見た。先方の動物は約三間ばかり上方に立ち止まり、やはり振り返っている。
しかし青しし逃してなるものかとすぐに羚羊の後を下へと追い下ると、このもの引き返して隋従し来るので、こいつめと槍をつけたところ、先方も向かって戦おうとするように身構えて来た。
両耳が立ち、脚が短く、毛色は薄茶の様で背に黒みがり、尾が太く下がって狐でも犬でもない。
体格は狐よりはるかに大きく、犬よりはやや大きめに見えた。
犬の様に吠える事もなくじっと見つめている。
未だかって見た事もない獣なのと、あまり先方で落ち着いているのと、槍が羚羊用の朴の木に短穂先の槍だったためと、自分一人だったために突きかけることを躊躇してついに再び青ししを追って行った。

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小池氏が遭遇したと思われる尾根筋(黒線)

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登山家の高桑信一氏が撮影した動物
    朝日連峰で撮ったのだが、残念ながらキツネ
 
すると、その獣は尾根を越えて走り去った。
ちょうどその時刻に次の尾根で青ししの皮をいでいた同村伊藤栄吉氏(故人)のところに、この獣が青ししの肉の香に誘われてか近づいたが、飼犬に吠えられて逃げてしまった由で、これは帰村して、両人とも長年猟をしているが、未だ見た事のない獣に遭ったものだと話し合ったことである。
あるいはあれが世に云う山犬・狼の類であろうか・・・・・・」
この話は本人が山犬と断定していない点と、人間に隋従して来た習性と、体格、毛色などから考えて、全く実際の山犬だったものと推測される話である。
 
山形県西置賜郡北小国村字船渡、川上幾哉氏談、
「明治41年夏登山して、伊東岳と朝日嶽との中間の寒江山に露営したことがあったが、夜、寒江山の尾根で山犬と思われるものを見た。
寒江山には俗に百穴と称される岩穴が山頂近くに無数にあるので、そこに生息するものか・・・・」

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寒江山頂周辺はご覧の様な岩場

この話は、山犬と断定しているところに多少確実性を欠くものがあるように思う。
 
「本人が山犬と断定していないから本物で、山犬と断定しているから確実性を欠く」・・・との考えには賛同しかねるのですが、今泉博士が秩父野犬で記した文面
≪(1)耳介が短く前に倒しても目に届かないこと(大陸狼 Canis lupus は耳介が長く前に倒すと目に達する)。
(2)前肢が短く体高率(体高/体長×100)が約50%に過ぎないと思われること
(5)背筋には先12以上が黒色の更に長く、且つやや逆立った毛で形成された黒帯があり、その外縁が肩甲骨の後縁に沿って下降し菱形班を形成すること≫
その他の点で、小池豊蔵老人等が見た動物との類似点を比較するのも面白いと考えるのです。
 
かっては国内の山里ならどこでもその痕跡を探る事が出来たであろうニホンオオカミ。
山形・福島・新潟県境に位置しダム建設で今は廃村に追い込まれた三面の集落。
東京・山梨・長野・群馬に接し、今50台のトレイルカメラで調査中の旧大滝村。
そして私たちが今春調査に入る群馬・長野・新潟県境の秋山郷。
今はもう、そうした人里から離れた山並みの中でしか、オオカミの痕跡を求める事が出来なくなっています。
 
この項-三面村紀行-の末尾はこんな文面で結ばれています。
【また北小国地方では狼の牙を身に帯ぶれば、如何なる荒馬も狼の気に恐れて自由になると云って馬喰人はよくこれを秘蔵したものという。
百姓がこれを蔵するときは、飼馬が常に恐れ、ついには衰弱して死ぬという迷信がある。
北小国町金目の弥一郎という家には先祖のとった狼の牙を宝として珍蔵しているという。
同村字船渡村の塚野五右衛門君の先々代は馬商人をしていた関係上、同家にも狼の牙と称するものが印籠の根付として伝えられた。】
 
この文面に触れると、無知だった20年前頃の苦労が思い出されます。
井上百合子氏から学術的な教示を受けた私は、関連の書籍を片っ端から読み通し、標本所有者のリストを作成し、11件電話で許可を得て、実見の機会を増やして行きました。
今ほど個人情報がうるさくない時代だったからこそ出来た事でしたが、その中でも特に印象的だった事例が3件有りました。
 
現在三峯博物館に所蔵されている毛皮所有者とのコミニュケーション確立。
前号に記した弘前市内の頭骨の、遭遇までのプロセス。
そして上記塚野家との交渉。
後進の皆さんの参考になればと思い、良い機会ですので苦労の一端を記して置きます。
 
秩父市内の民家にニホンオオカミ(と思われる)毛皮が有るとの情報を得たのは今から25年程前の事になります。
所有者は美容院経営者で多忙のことでもあり、中々訪問を許してもらえませんでした。
幾度か連絡したのち訪問したのですが、戸板に張られ階段脇に展示して有った標本を眺めるだけでした。
その後何度も何度も同じことを繰り返し、吉行瑞子先生同行の下調査に漕ぎ着けたのは1年以上時間が経過した後と思います。

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戸板に張られ階段脇に展示して有った毛皮標本

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戸板に張り所蔵していた内田さん
 
その1か月後、科学博物館の小原巌先生もお出でになり、ほぼ間違いないとのお墨付きを得て(同定は56年先に今泉博士に依り為される)、シンラでの掲載等に到ったのですが、国立科学博物館・埼玉県立博物館・三峯博物館の3館から、毛皮引き取りの希望が私を通してありました。
その当時の価値は、国内外6例目の毛皮標本(ベルリンの毛皮は未発表)としてでしたから、それぞれの博物館は必死だったのかも知れません。
私が所有者に三峯博物館行きを薦めた理由は3点あります。
一つ目は三峰山の奥裏で獲れた毛皮だった事。
公的博物館では研究材料としていじられ、原形を留めない可能性が有る上、担当官が移動すれば最初の意義が守られない可能性が有る・・・が二つ目の理由。
三つ目は三峰博なら神のお使いとしての扱いを受けられる・・・でした。
それでも20年経た今、常設展示された毛皮標本は、色落ちして随分傷んだ状態になっています。

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三峰博物館に所蔵されているリニュアル後の毛皮
 
弘前市内の頭骨は、所有者の姓が中畑だった為、電電公社の電話帳を取り寄せ、一軒一軒電話を掛けたのですが、津軽弁を話す老人と意思を通じることの難しさを痛感し、1日で諦めました。
そして、弘前市の教育委員会に事細かに事情を記し手紙を送りましたら、1年後所有者が判明し調査に漕ぎつける事が出来ました。
私の手紙を受け取った担当官が、色々調べてくれたのですが辿り着けず諦めて、仕事の帰りに立ち寄る書店で、「そう言えばこの書店は中畑さんだった・・・。」と。
今は高齢で廃業しましたが、弘前市役所に一番近い書店での、笑えない様な・・・でも笑っちゃった、そして感激したお話でした。

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中畑家の頭骨計測値・最大長211mm

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中畑家の頭骨計測値・基底全長198.5mm
 
北小国村の塚野家とのお話は、それ以降私の標本調査での対応を変える、ショッキングな内容でした。
津軽地方同様福島県山間部老人の訛りも想像以上でしたが、隣県魚沼地方出身ですので何とか塚野家までの道筋つくりに到りました。
電話の先は塚野家の老婦人でした。
嫁いで来てそうした物の存在を知っていたらしいのですが、築百数十年の家の隣に母屋を新築した際、不必要と判断し処分したとの事でした。
「大雪の降った日、家に火を付け処分した」・・・と。
隣家が遠く、他人に迷惑をかけない状態とは云え、現在なら到底許される事は無い筈ですが、電話が20年前で、それより更に数十年前の話です。
ニホンオオカミ標本の所有者は、その価値を知らないケースが多いと感じた私は、調査に赴く度に標本の重要さを説き、家族に伝え残す事をお願いしています。

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頭骨の由来等を家族に継承している 
    埼玉県狭山市長谷川家の標本・三峯山捕獲とされる
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皆さんお気付きの事と思いますが、井戸端会議を始めとして私管理のHPの巻頭に、「このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。」の一文を記しています。
上記の文面をご覧戴ければお判りでしょうが、「一つの標本」「一つの写真」「一つの体験」に、大きなエネルギーが注がれている事をお忘れ無き様願います。いる事をのサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは禁止します。このサイトへのリンクはご自由にどうぞ。無断転載・出版への利用などは

みんなちさこの思うがままさ

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【・・・やがて梢を透かして昇った月を眺めながら、そろそろ寝るかと話し合っていたその時、森の彼方から忽然と咆哮が湧いた。
ビロードの光沢の夜空に浮かんだ、ミルク色に輝く月に向かって吼えるがごとき波動であった。
・・・・・・・・・・・肝が冷えるわけでもない、奇妙に乾いた獣の声は、それきり途絶え、森はふたたび静寂に還った。通い慣れた奥利根の20年以上前の幻のような、しかし、その場にいた4人の仲間が耳にした遠い記憶である。】
 20016年夏号『渓流』に記載された高桑信一氏の一文です。
同行者として、池田知沙子・伊井一洋・田中恵子さんの名が在りますが、池田さんは1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝しています。
池田さんは1冊の書籍を遺しています。
2006年冬、脳梗塞で1ヶ月間入院し、その後時折後遺症に悩まされる私は、様々な面で興味を持って本を取り寄せました。
【一日の王「背には蓑、手には杖、一日の王が出発する」尾崎喜八】を表題とするブログに池田さんの“人となり”が載っていますので、先ずはそのまま紹介します。
≪池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』・・・・ヒリヒリするような感性・・・・(2013年2月15日)
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昨日に続いてのブログ更新。
忙しい毎日ゆえ、2日連続で更新することはあまりないのだが、今日は特別。
池田知沙子『みんなちさこの思うがままさ』(山と溪谷社)のレビューを書くのに、今日(2月15日)でなければならない理由があるのだ。
その理由は最後に書く。
最初に、著者である池田知沙子について、短く紹介する。
昭和22年7月29日、東京に生まれる。21歳で、所属していた劇団の研究生同士だった池田俊樹と結婚。
28歳で夫婦ともども北海道に移り住み、帯広わらじの会に入会して登山を始める。
32歳、埼玉県新座市の現住所に居を構え、翌昭和56年1月、浦和浪漫山岳会に入会以後、地域研究を標榜する当会とともに歩み、奥利根、会越、下田・川内をはじめとする各地の山と谷に膨大な足跡を残す。
入会から18年を経た1999(平成11)年、自宅において脳内出血のため急逝。
享年51歳7ヶ月。

遺稿集の発行は、1年後の2000年冬に、葬儀に参列した彼女の知人や山仲間、「池田知沙子を偲ぶ会」に出席してくれた人たちに配布するために編纂され、私家版として刊行された。
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予想外の反響を呼び、2003年に増刊。(表紙の色が違う) 
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その残部も尽きて、現在に至っていたのだが、彼女の文章を読んでみたいという声が多く寄せられ、この度、山と溪谷社が、内容をそのままに新装版として復刊することが決まり、今年(2013年)の1月下旬に出版された。
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 10数年前から、『みんなちさこの思うがままさ』という本があることは知っていた。
山の雑誌で時々採り上げられていたからだ。
だが、本そのものを読んだことはなかった。
『山と溪谷』2月号で、『みんなちさこの思うがままさ』の新装版についての小特集が組まれていたので読んでみると、とても興味をひかれる内容であった。
本の方もぜひ読んでみたいと思った。
そして、出版されると同時に買い求めた。
本の冒頭に、詩のような文章がある。
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満天の星である。遠く稲光もする。
焚き火が燃えあがると、ひととき星の数が少なくなる。
美しい闇のただなかに沢音が確かなリズムをきざむ。
みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。
多分、私たちが寝静まった頃、なんといっていいかわからないお月様が静かに静かにめぐるのだろう。 
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「みんなちさこの思うがままさ。
月もだしてみせると有言してしまったさ。」
この2行で、完全に魅了されてしまった。
なんて男前な文章を書くんだ。
こんな言葉を吐かれたら、どんな男だってノックアウトされてしまう。
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一気に読み終えた。
一気に読み終えるのが勿体ないほど素晴らしい文章だった。
付箋を貼った箇所をいくつか抜き出してみる。
季節は一瞬一瞬の積み重ねである。(77頁)
自分を見失う。
このまま連れ去られ、はぐれて、もう二度と戻ってこられなくなりそうな気さえする。
まばたきするたびに風景がかわり、動悸さえ聞こえてきかねない。(153頁)
森の向こうから、木枯らしが樹々を揺すりにやってくる。
落葉が始まる。
追い立てあって、渓を駆け、遠い空まで昇りつめようとする。
交響曲・赤水沢、佳境。
ピアニッシモからフォルテッシモ。
足がふるふるするような演奏を聞かされた。
一心にナメ。
そういう沢をいくつか知っているが、赤水沢はストラディバリウスだといってしまいましょう。
やわらかな岩質がうみだすくぐもった沢床は、深い陰影を見せ、足首にも満たない流れが複雑な旋律をうたうのを見事に助けていました。(217頁)
風が樹冠にさざ波を立てて流れていく。
ゆるやかなうねりで森全体が揺れていた。
ギラッと反転する魚の白い腹、ミズナラのてっぺんが光り、陰影の深くなった空は、さりげなく、森にひそむ暗がりの正体に気づかせる。
知らん顔して、ただ清流だけが弾けるように明るく輝いていた。
遠い遥かな記憶を呼びさます、畏敬を抱かずにはいられない世界が、たしかに、そこにあった。
私は小さな魚となって、いつしか臆病に樹間を泳ぎはじめる。(289頁)
これらの文章には、ヒリヒリするような感性がみてとれる。
これらの文章のほとんどが、所属していた山岳会の会報に書かれていたのだ。
驚くべき質の高さ。
普通、会報に書かれている山行報告は、面白味に欠けるものが多い。
乏しい語彙の画一的な自画自賛の山行報告を読み慣れた者には、池田知沙子の文章は実に新鮮に映る。
池田知沙子が五十一歳で病没してから十四年の歳月が経つ。
彼女が浦和浪漫山岳会に入会したのが八十一年の春で、亡くなったのが九十九年の厳冬だから、それ以前の集積が本書に収められていることになる。
昭和の末期から平成にいたる複雑な時代に書かれ、さらに死後の長い歳月を透過した、決して新しくはないはずの彼女の文章が、いま読み返していささかも色あせず、むしろ光さえ放って読む者に迫ってくるのはなぜなのか、と考えている。
とは、『山と溪谷』2月号に載った高桑信一氏(『みんなちさこの思うがままさ』の編纂者)の言葉であるが、私も同じ感想を抱く。
文章も魅力的だが、人柄も、そして容姿も、池田知沙子という女性は、実に魅力的であったらしい。
日よけと防虫ネット用に、つばの広い生成りの帽子を買った。
新品の帽子は汚れ放題のザックや着古した服にはかなりアンバランスで囃される。
国境稜線でビバーグ。
さっそく防虫ネットをつけてみる。
すけた網がベールみたいで、本人はフェイ・ダナウェイかなんかのつもりでいて、「奥利根夫人」「マダム奥利根」とのからかいにも、にやにやと喜ぶばかり。(11~12頁)
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ねえ、熊ちゃん、知ってる? 一回でも一緒にと声かけてくれたら、私の山の約束帳にスタンプが押されてね、いずれ一緒に行ってもらうことになっているんです。
スタンプの数? もう私の一生分あるの。自慢なんですねぇ、コレッ。(245頁)
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いやはや、こんな素敵な女性、私の回りにいなくて良かった。
いたら、私は、人生を踏み外していたかもしれない。(笑)
この本に関しては、語りたいことがそれこそ山ほどあるが、すべてを語ってしまったら、これから読む人の楽しみを奪うことになる。
もうこれくらいにしておこう。
最後に、この本のレビューが、なぜ今日(2月15日)でなければならなかったのか?
それは、高桑信一氏によって書かれた「新装版のためのあとがき」にある。
かなうならこの本が、静かでもいいから多くのひとに、長く読み継がれて欲しいと希っている。
本書の奥付を池田知沙子の祥月命日にしたのは、出版に携わった関係者の小さなこだわりである。
それが、この本に散りばめられた文章を私たちに与えてくれた彼女への、ささやかな返礼だと思うからである。
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そう、池田知沙子の命日は、2月15日だったのだ。
池田知沙子は、1999(平成11)年2月15日に亡くなっていたのだ。
もう少しじっくり読み込んでからレビューを書こうと思っていたのだが、私も命日に合わせてレビューを書いた。
もう少しちゃんとしたものを書こうと思ったが、時間的にこの程度のものしか書けなかった。
すまない。
このブログで本の紹介をすることは稀だが、今回は、自信を持ってオススメする。
再読、再々読にも堪えうる作品である。
山の好きな人なら、一生の友となるだろう。ぜひぜひ。≫
私は読後即座に、高桑氏宛てお礼のメールを出しました。 
【高桑 さま
ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。
現在体調不良で読書三昧の私ですが、昨日「みんなちさこの思うがままさ」を読みました。
痺れる様な感性で綴った文面・・・大変な感銘を受けました。
書籍として世に出した高桑さんに敬服いたします。
願わくば一度でもお話を交わしたかった・・・と。
知らないだけで、世の中には素晴らしい人がいる事を知った一日でした。】
【高桑です。
ありがとうございます。
池田が亡くなってから17年になろうとしています。
生きていれば、婆あもいいところですね。
私にとっても大事な人でした。
寒いので、体調にはくれぐれもご注意ください。】
こんな書籍に浸かることが出来るなら、体調不良時の読書も悪く無いですね。
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管理人さんに断りもない掲載ですが、どんなお叱りも甘んじて受ける覚悟での所業です。
私と余りにもよく似た読後感で、手を付けようが無かったからです。
そして、そのアプローチをする術を知らなかった為でも有ります。
この場を借りて無断掲載をお詫びいたします。

ネットサーフィン

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私の下に届けられた生存に関する情報も、今では100件を軽く超える状態です。
そうした中全て寄せられた訳ではなく、ネットサーフィンでヒットした情報にコンタクトをし、先方に確認した事例も少なくありません。
また、ネット上の情報を教えて貰いコンタクトをした例も多々あります。
 
先日調べ物がありネットサーフィンをしていると、2015811日の記事で、『神獣は生きている!?ニホンオオカミは生き残っている可能性がある』なるブログに当たりました。
著者は『小須田こういち』さんで、2年位前メールで秩父野犬の写真使用を申し出た方だったと思い出し、読み返したのが以下の文面です。
 
『神獣は生きている!?ニホンオオカミは生き残っている可能性がある
小須田こういち 134706 Views
 
富士山の麓にある山梨県の西湖で、絶滅していたと思われていたクニマスが発見されたというニュースに興奮を覚えたのは、なにも筆者だけではないはずです。
もともと秋田県の田沢湖にだけ生息していたクニマスが、遠く離れた西湖で連綿と命を引き継ぎながら生きながらえていたことに感動すら覚えたものです。
西湖周辺の地元地域では、以前から「クロマス」という名で呼ばれていたのだとか……。
 
山梨県による調査によると、クニマスは相当数の個体が生息しており、希少種ではないとする結論がなされたようです。
これもなんだか嬉しい話ではないですか!
 
絶滅したと思われていた魚が発見されれば、当然個体数は少ないだろうと考えるのが自然です。
しかし、それが「相当数」生き残っているわけですから……。
今後、クニマスが故郷の田沢湖で泳ぐ姿を見ることができるのかどうか、注目していきたいものです。
 
日本の絶滅種といえば「二ホンオオカミ」
 
さて、絶滅種というと筆者はどうしても「二ホンオオカミ」が脳裏をよぎるのです。
その昔、日本中の山々を駆け回っていたであろう二ホンオオカミ――。
100年前に絶滅したと言われていますが、はたしてどうなのでしょか。
 
クニマスのように今もどこかでひっそりと生きているということはないのでしょうか……。
かつて本州から九州の山々には二ホンオオカミがたくさんいました。
しかし残念ながら、我々は二ホンオオカミの姿を目にすることは叶いません。
 
二ホンオオカミは1905年に奈良県で捕獲された個体を最後に絶滅してしまったのです。
ところが、すでに絶滅していると言われているにも関わらず、「二ホンオオカミは生存している!」と信じて疑わない人も少なくありません。
 
1996年、埼玉県の秩父山系で撮影された写真が世間を騒がせたことがありました。
なんと、その写真は絶滅したはずの二ホンオオカミだというのです。
また、2000年には九州で二ホンオオカミによく似た動物が撮影されています。

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これが、その時に撮影された二ホンオオカミかもしれないと言われている「秩父野犬」です。
今回は撮影者である八木博氏に許可をいただき掲載させていただきました。
実際に専門家による鑑定も行われ、この「秩父野犬」には二ホンオオカミの特徴が多くみられることから、二ホンオオカミの生き残りである可能性が高いという見解がなされてもいます。
 
果たしてそこに写された動物は二ホンオオカミなのでしょうか。
 
どこかで生息しているとしても不思議ではない
 
もし……もし仮にもどこかで生き残っているのであれば、それはやはり正直に「嬉しいな」と思います。
別に恐竜が生き残っているだとか、そんな話ではないわけですし、恐竜よりも二ホンオオカミの方が遥かに現実味もあると思うのです。
ましてや奥秩父と言えば関東の秘境とも言われます。
その広大な山地にひっそりと生きていたとしても、決して不思議ではありません。
 
さらに、九州や四国の山地にも二ホンオオカミがいるのではないかとも言われています。
筆者の知る限りではその後、秩父山系の山中でオオカミの遠吠えを大音量で流すという実験も行われました。(注・撮影以前の試みです)
二ホンオオカミがそれに反応して遠吠えを返してくれるのではと期待されましたが、実験自体は思うような成果は得られなかったようです。
ちなみに201411月には、秩父市の鍾乳洞で二ホンオオカミのものと見られる歯が見つかり、ヒグマと見られる全身骨格も見つかっているようです。
 
UMAではなく現存した動物だということが重要
 
二ホンオオカミは何億年も前に絶滅したわけではなく、比較的つい最近まで生きていたこと、ましてやUMAなどのような未確認動物でもありません。
クニマスのようにどこかでひっそりと生き残っていたとしてもおかしくはないと思いませんか?
 
日本では古くから畑を荒らす鹿や猪を食べてくれるオオカミを神の眷属として崇めてきた信仰がありました。
秩父はもちろん、奥多摩、山梨県など山岳地域でオオカミ信仰が盛んだったと言われていますし、その信仰を今なお受け継いでいる地域もあります。
秩父の三峯神社などは二ホンオオカミを祀った神社として有名です。
 
その他、東京や千葉、栃木、山梨、静岡、岐阜などにも、「狼神社」と呼ばれる神社が多数あります。
筆者も三峯神社へは何回か行ったことがあります。
三峯神社の博物館には二ホンオオカミに関する資料が多数展示されており、二ホンオオカミの魅力に触れることができます。

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そんな二ホンオオカミ――。
絶滅した理由もはっきりとは分かっていません。
 
主な理由としては狂犬病が海外から入ってきたことによって二ホンオオカミは害獣となり、どんどん殺されてしまったこと
森林開発によって住む場所を追われてしまったこと
海外から持ち込まれたジステンバー病によって死滅してしまったこと――などが原因だとされています。
これらのどれか、もしくはこれらの要因が重なってしまったことで、二ホンオオカミは姿を消してしまいました。
 
でも、もし生息域をもっと標高の高い場所に移していたりしたら……。
生き残っている可能性も無きにしも非ず。
実際、標高2,000m近い山中で二ホンオオカミらしい動物に咆えられたという体験をした人もいます。
 
二ホンオオカミかもしれない写真を撮影した人や、二ホンオオカミらしい動物に咆えられた人、二ホンオオカミのような動物の遠吠えを聞いた人など、様々な体験者がいることもまた事実なのです。
だからこそ、今なお日本のどこかでひっそりと生き残っているのでは?と多くの関心を集めているのです。
 
絶滅種である二ホンオオカミが発見されでもしたら、それこそ今世紀最大級の発見となります。
「二ホンオオカミなんかいないよ」と一笑に付してしまうのは簡単です。
でも、もしいたとしたら……??? そこに筆者は大きなロマンを感じてしまうのです。
 
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一日中パソコンを相手にしていると、腰は痛くなる、眼は悪くなる…‥で結構つらいものです。
パソコン上の情報等で未知の物も多数うずもれていると思われます。
そうした物を一つでも掘り起こせればと願う処ですので、お知らせ下されば幸いです。
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